ものごとの着眼

カグヤでは見守るほいくソフトというものがある。

それは子どもたち中心の目線に先生方がなり、教師や大人が持つ刷り込みを取り除くための動線を工夫されて創られているものだ。

子ども目線というは、大人になるとつい忘れてしまうものだ。子どもの可能性を引き出そうとするのに、上から押し付けて教え込もうとするのは子どもという存在を子どもだと思っているからだと思う。

一人の人間として捉えて相手の立場で考えることはとても大切だ。

そのソフトは毎年バージョンアップを続けている。

その中で人の出会いの面白さというか有難さを感じるのは、良いものを創るときは必ず良い出会いがあるということだ。

このソフトは開発までのご縁や出会い、そしてユーザーの方も素晴らしい方が多いのだけれども開発をともにしてくださるシステムエンジニアの方もとても素晴らしい。

いつもバージョンアップの開発の打ち合わせの際には、いろいろな大切なことを私に教えていただける。

今回の打ち合わせでは、システムを開発するにおいての洞察についてたとえ話をしていただいた。

ある会社からあるシステムの開発の依頼がありそれを受注した。それは以前、別のシステム開発の会社が開発したものだったらしい。それを見るととても粗末なもので複雑なものだったそうだ。それは酷いものだったらしい。

それを作り直すことになったのだけれども、こちらがきちんと整理してつくりシンプルなものにした後であることが起きた。

いざ稼働しようとしたとき使う会社からそのシステムが使えない理由が次々と連絡が入った。取引先が大手だからシステムを相手にあわせないといけないや、役員に年齢の高い人がいるのでITに無知なので操作を簡略化してくれなど、いろいろと聴いて改修していると以前どこかのシステム会社が作っていたあの粗末で複雑な酷いものと同じものになってしまっていたという笑い話だ。

そしてそのあとに、その体験からこのようなことをおっしゃっていた。

『物事がそうなるのは、そうなったからだ。』

だからこそ、常にシステムエンジニアは物事へ正対するときにはそういう視点・着眼点で物事を深く洞察しないといけないのということを語っていた。

私たちもソフトの開発をするとき、ある意味でお客さんの要望を聞かない様にしているところがある。一部からは融通がきかないと言われることもある。しかしそれは、別に技術的にできないのでもなく、自分たちの都合でやらないわけでもない、それは物事への正対を見通し見立て、それがどうなるのかをよく洞察しているからできないという判断をすることがあるからだ。

そしてそれを伝える側も、相手にそれを気付かせるような深い哲学と思想、そしてその開発へのこだわりが分かるものでなければ認めあうことはできない。

私たち開発者側も、そういうこだわりを持って創るからこそ本当のモノづくりの醍醐味をみんなで味わって本質に近づくことができるのだろうと私は思う。

現在、保育業界では行政指導で様々なルールが増え続けている。
表面上求められる一斉画一なルールは本質的に取り組んでいる園の邪魔をすることが多い。

一般的な大人目線のソフトもそれにあわせようと開発を躍起になっているが、私たちの見守るほいくは子ども主体と子ども第一を貫くように、細心の注意と、遠くを見据えて不動の改善を続けるように意識をしている。

不易と流行ではないけれど、今にあわせて後でずれさせ、粗末で複雑にするものよりも、園が求める本来のあるべきようとビジョンを見据えて、必要な改善を続けるようにしている。

それは何のためにこのソフトを作ったのかを忘れないでいることでもある。
信念とは、何かの物事の際に揺れ動かないから信念なのだというのだと思う。

今年は私たちのテーマでもある環境についてバージョンアップをする。

大人が便利で都合が良いような安易なものではなく、子どもにとってそしてその子どもを見守る「大人(たいじん)」にとって意味のある良いソフトをこれからも育てていこうと決意を深める。

トップダウン

先日、ある園で相談を受けた。

「今までずっとトップダウンで進めてきてそれでそこそこうまくいった、今だってそれでマネジメントしているし、それは企業や組織の経営者には当然必要ではないか」ということを言われた。

このトップダウンという言葉には、勘違いされるいくつかの罠があるように私は思う。

相手のことをまったく考えずに自分の都合だけを押し付けるのは文字通りトップダウン、説明の必要もない。

しかし、あらゆる立場の人たちを一つの円の中に容れて深く考察し、長き先を見通し公の精神と正しい道徳行としての「今」の判断はトップダウンではなくそれはリーディング(導く力)だと思う。

しかし通常の経営者は、自分が特別な責任者の立場だということで勘違いし経営は自分都合で進めていいのだと思っている方がたくさんいる。

そして職員には、自分を棚に上げて一方的に素直でいなさいと押し付ける方がとても多い。

そもそもこの「素直さ」というのは、巷では「常識があり何も考えず目上の人の言うことや組織の管理者に黙って従う」のが素直さだと勘違いされているところがある。

しかし古典などでも定義されている本当の素直さとは、以前にもブログで書いたが「正しく自分で物事の意味を咀嚼して考えて様々な価値観に柔軟に対応できる人」のことをいうのだと私は思う。

人間が価値観に柔軟だから、自分なりに本質を捉えて臨機応変に相手の求めるものに変化することができるのだと思う。それを「素のあるがままで直(なお)く在る」=素直さというのだ。

日本では子どもの教育現場を洞察しているとそれに近い事例をよく見かける。

学校や家庭の教育には、すべてではないけれど大人側の「しつけ」や「キョウイク」などという分かりやすい言葉でそれは子どもだからやって当然だと、相手の立場を考えずに常識を押し付け管理側の目線でそれをやろうとする刷り込みがある。

しかし、一個人としての人権を尊重しない大人や管理者の理不尽な言いようを子どもや相手は見抜き、「なぜそれをやらないといけないのか?」を聞いてくるし、それを時間をかけて考えて間違いを正してくる。そしてちゃんと分かった人はそういう安易な不合理な大人の意見には決して従わない。まただからといってそういう人を安易に排除すれば、素直で優秀な良い人材は育っていくことはない。

別にしつけやキョウイクがいけないと言っているわけではない。

本当に自立できる優秀で良い人間を育てるのならば、まず一般的な刷り込みで安易に従わせるのではなく自他ともにじっくりと話し合う時間をもっとゆったりと取ってお互いに語り合い認めあって進めていくことの方が本質的で大事なのではないかということを言いたいだけ。

私がコンサルティングの相談を受ける園でいつも不思議だなと思うのは、「うちの職員は自分で考えないんですよ」とか、「うちの職員は無能な人が多くて」や、「うちの職員は自由とかルールとかなかなか分からないのですよ」とか言われるけれど、今までそういう安易に管理者に従うようなそういうマネジメントを長年自分がやってきたのだから当然そうなるのではないかと私は思う。

そして逆に、「うちの職員はよくやっている」や、「職員が有能でちゃんとやっていて任せている」からなどとも聞くけれど、よくよく伺ってみるとそれは園長がよく現場のことが分からないだけの「単なる放任」になっている場合が多い。

その証拠に、現場の職員は不安で仕方がなかったり、もしくは必死で頑なに見栄をはっていたりすることがある。それはトップがリーディングしているのではなく、現場と経営を分けて管理するための方法の一つとして使っている場合が多い。

そして、自分が職員の文句を言ってもそれは単に自分自身の在りようの状況を話しているだけなのだから、それを根本から改善しないと良くなることはない。たとえば自分自身で自律し自由とルールを意味付けし、自立した有能なリーダーになっていくことしかそれを変革することはできないのではないかと私は思う。

対話をするには上からではなく相手の立場になって一緒にモノゴトに向き合い受容し自立をするからできることは多い。上からの理不尽や不合理はどこかトップダウンの刷り込みと印象がある。

そうならないためにも、目に見えない本質的な理念を対話の中心に据え、相手のことをよくよく共感し、受容していけば自然と相手は自分で考えるようになるものだし育っていくものだ。

理念なき自分都合の自分勝手なトップダウンでは、これからの価値観の多様化した現場では対応していくことは難しい。

だからこそ、現場をファシリテーションするスタッフを育てていくことが大事なことだし、それを育てる側のリーディング力はこれからの生きる力の要になっていくのではないかとさえ私は思う。

そもそもマネジメントを通して人間を育てているのだから、バブルだのグローバリズムなどのスキル論や議論は一切関係がなく、人間が歩んだ軌跡をよく考察した古典や歴史に照らし「正しく人を育てる」ことに通じているのがマネジメントの本質であるべきで、これからの学校は時間もお金もそういうところに使わない組織は必ず衰退すると私は思う。

現状よく周りを見渡しても子どもたちを育てる現場のマネジメントも、見守るのではなくそういう一方的なトップダウンをやっているところがとても多い。大事な教育現場でいつまでも変わらずそういうマネジメントを続けていたら世界でユニークに活躍する有能な自立型人材と自己実現していく場も少なくなってくるかもしれないなと私は思う。

まずは、私自身が組織の長として実践の襟を正し、立派で本質的に素直な人を育てる環境になり業界の未来と、子どもたちの自立に協力できるようにこれからも真摯に努めていきたい。

イノベーション

世間では新旧世代が入れ替わり続ける。

それは会社もそうだし、ビジネスもそう、人間の創りだした価値はまたそれを壊す新しい価値によって刷新されて新たに創られていく。

古いものと新しいものが入れ替わるのは本当に難しいことだと思う。そこには古いものは、「変われない事情」を持っているし、新しいものは「変わらないといけないという事情」を持っているからだ。

そうなったのは、そうなる事情があったからだ。だからこそ、その事情どちらにも言い文があるように思える。

そして常に古今に照らすと古いものは昔からの関係を引きずり、新しいものを生み出すのを恐れていくようになり、新しいものは古いものからの確執に引きずられ、古いものを壊すのをそ恐れていく。

このように古いカタチで成長したモデルが、まったくそれを受け入れない新しいカタチのモデルよって払拭されていくのを「イノベーション」という。

そうやってイノベーションは日々起きているし、人は誰しもそれが起きるとき、それのどちら側にいるかで隆盛も衰退も紙一重のところで左右される。

たとえば、これを人間の成長に例えてみるとよく分かる。

人間は困難や艱難に出会いどんどん、ぐんぐんと成長する。

そして立派になる人は、その都度そこから深く学び何度も「今までの自分を捨てて」r新しい人に変わっていく。

そしてその変わる理由が、自分のためではなく世界のためだったりするとその新しいものへの変化の値は傍で見ているとすさまじいものがある。

近くにいて感じるのだから遠くから見ると別人にさえなったような感覚にもなる。

世間はその人が変わったことを自分の都合の良いように解釈するけれど本当に身近でその人の理念に一生その人についていくのならよく理解していないといけない。

なぜなら其の人についていくとは、その人が変わったなら迷わずそれにあわせて自分が変わっていくということを求め続けていく必要があるからだ。

つまり自分自身を常に刷新していくということ。
それは最も優先する大事なもののために何度でも自分を捨てるということだ。

そうしないとしがらみや現状の安住に塗れて取り残されてしまい、思った以上に周囲の足を引っ張ったり迷惑をかけてしまうこともある。

理想の実現というのは、イノベーションの連続によって得られるのだと思う。そしてそういう刷新とは、常に変化することを恐れずに突き進むポジティブな創造と勇気、そして決断なのだと思う。

しかしこのイノベーションには落とし穴がある。

人情などもそうだが、人は昔の栄光が捨てられないし、昔の関係を壊したくないと思っている。

そしてそういう関係からくるあらゆる「しがらみ」が変わることを恐れて、それにしがみつきたくなる。手放そうとすればするほど感情のほつれにあう。

今までの関係性を整理してどう新しく刷新するのか、維新するのか。それを思うとき、人は今までを否定しているのではないかという錯覚に陥ってしまう。

そこから抜け出せずにジレンマに巻き込まれると、惰性に流され時間だけが過ぎ去ってしまい周りを巻き込んで負のサイクルへ入り抜け出せなくなる可能性もある。

そうならないようにするには、何をなすべきかを絞り込み、自分にしかできないことで迷いなく常に進化し続ける求道の一直線をどれだけ信念を持って歩むかによるのだと思う。

言いかえればそれは常に進化維新への決断をするということ。変化に対してどう学び続けているかという天道・地理に根ざした一本道、「王道」に照らしたものにしていかないといけないのだと思う。

『湯の盤の銘に曰く、まことに日に新た日々に新たに、又日に新たならんと』(四書大学より)

世の中、変わり続けるのだから絶えず変化創造していく大事さを説いている。

そしてそこから子どもの「今」を思うとき、何を守り、何を捨てていくべきか。

そして子どもの「未来」を思うとき、どう新しい価値で古いものを刷新して子どもたちに良いものを推譲していけるのか。

私はジレンマやしがらみを乗り越えてそれ以上の新しい価値をどう創造していくかをみんなと一緒に考えて提案を続けていきたい。

必ずや古いものも変わり、新しいものも変わり、みんなで変わり続ける優しさと現実の受容を共有して子どもたちの未来環境を創造できるように私自身、迷わず惑わず自分にしかできないことに勇気を持って決断をしていこうと改めて思う。

ホスピタリティ

昨日、カグヤのクルーとともにニューヨークのユニオン・スクウェア・ホスピタリティグループの創設者、ダニー・マイヤー氏の講演を拝聴してきた。

この方のレストランは、ニューヨークタイムスで三ツ星を獲得し、常にニューヨークZAGATサーベイの1位、2位を獲得しているほどになっている。

現在の私たちカグヤのクルーの研修のテーマは、ホスピタリティ(おもてなし)を学ぶこと。それは日本語でいえば、思いやりの精神を具体的な実践を通してその世界標準の理念の一端を定義し学び合うことにあった。

このダニー・マイヤー氏は27歳で開業してから現在もサービスだけでは得られない人間のおもてなし力(HQと定義)とその重要さに気づき、自らの人生の価値観に優先順位を決めて理念を固めて道を歩み社業を邁進している方だ。

本当に素敵な人柄が講演からも感じられ、終始心地よく学ぶことができました。
本当にこの奇跡的な一期一会の出会いにも心から感謝しています。

講演の中で大きく気づいたことがある。

今回定義されていたホスピタリティの本質は、「相手の立場」になってどれだけ共感できるかということ。これは、先日お話を伺った佐藤初女さんのなさっている実践でもあり、北川八郎先生が仰っている「饅頭を増やすよりも餡を増やせ」に共通するものがある。

おもてなしの心とは、相手の立場で幸せをともに感じ合いながら分かち合っていく豊かな思いやりの心なのだと私は思う。

そしてダニーマイヤー氏は、さらにそのHQ(ホスピタリティ感性)がある人には下記の条件が備わっていることだと仰っていた。

① 楽観的であること。
② 向上心があること。
③ 道徳的であること。
④ 共感力が高いこと。
⑤ 誠実であること。
⑥ 自律、自覚があること。

特に、⑤の誠実は正しいも選択ができるという、自分よりも他の幸せを優先できる力であり、⑥は自分の状態を把握して、平静を保つことができる力だと定義していたのが印象的だった。

私が現在、保育現場で研修をする際に、先生の資質としてどのようなものがあると環境を活かすことができるかと問うときに共通する理念がたくさんあったのも参考になった。

「環境を創る」というのは、その場を生み出す人間の力が実践を通して感化されていくものをいうと常々私は思う。どんなに外側の環境を磨いても、それを優先していては本末転倒すると思う。レストランやカフェであろうが、学校でも仕事場でもまずはそこに居るその人間の持つ「思いやり」のある環境であることを優先することが先決であり、それが根本になるから末節としての外側の環境が具現化して現れるだけであると私は思う。

自己肯定観を持ちあう人たちの場は、触れているだけで心地よいものだ。
見守るということもそうだけれど、まずは見守る人ありきだと思う。

さらに、参考になったのが如何に好循環を生み出せるかということで常に仕事を優先順位を決めて実行しているところにブレがないところだった。私もよく自分のバイオリズムや全体の調子の良しあしを循環の理に照らして考えることが多い。

常に負のサイクルも正のサイクルも、優先順位の入れ替わりや差し替えを迫られている時が多いからだ。そういう時は、先手をとって定期的に整理整頓をして掃除をするようにかたずけていけばいいけれど、つい油断すると流されて大掃除を迫られることになるから気をつけている。

確固たる優先順位は、多くの人たちを幸せにするものだな改めて気づく。

講演を拝聴後、いつものようにカグヤのクルーで反省会をした。

「カグヤでやっていることをそのまま聞けた感じだった」、「子ども第一主義の理念に改めて自信を持った」と言われたことが嬉しかった。みんな自分の実践を照らしていることが誇りに感じた。誰でも実践には嘘がなく、実践をしないとわかった気になるものだ。

実践を通して、これからもわかった気にならないようにホスピタリティの世界標準を目指す会社としてこれからも変化成長を楽しんでいきたいと思う。

来年、自分の目と耳と体験で得た気付きを持って、チーム愛(守りのチームクルー達)とニューヨークに行くことを誓い、子どもたちの未来に確かなホスピタリティを推譲できるようなビジョンを深めていきたいと誓う。