正気の詩とかんながら

以前、このかんながらの道ブログで浩然の気ということを書いた。
あれから、気というものそのものについて深く考える時間が取れた。

昨年末、鞍馬山とご縁があり、その浩然の気についての深い邂逅を得た。
天地自然の中にあり、至正至大に満ちる霊気とも言うのだろうか。

こういうことを話すと何か、世間からは宗教っぽいと言われるのだろうが、思想深きところで語れば、そもそも気があるから私たちは存在できる。

この間(ハザマ)にあって、目には観えない何かの存在はあまりにも当然すぎて語られることもないだけで、然るべきをもって本当はその存在を語り合うことこそ、生死の間にある人間としてのあるべきようだとも私は思っている。

今年は、そしてこの「気」というものを探求する機会が得られるような予感がする。

中国の南宋の文天祥に「正気の歌」がある。 

 天地に正気有り
 雑然として流形を賦えらる
 下は則ち河嶽と為り
 上は則ち日星と為る
 人に於いては浩然と曰い
 沛乎として蒼冥に塞<つ (天地には正しい気がある。それは雑然としていて様々な形を与えている。例えば大地に下れば大河や山となって、そして天に上れば太陽や星となる。これを人に作用すればそれは「浩然」と呼ばれみるみるうちに広がって大空、宇宙に広がっていくものだ。) とある。 自然界の不可思議に満ちる霊気というものの存在。 時代が変わる際に、そして環境が変化するとき、その目には観えない霊気というものをどれだけ捉えているのかということでその生気の価値を享受され感じ得ることかというもの。 自然界すべては、その霊気を受けずに生きることはできず、人もその気となす所以や根元を知らなければ、その生気力を発奮して天道を鑑み照らすこともできやしない。 色々と調べてみると吉田松陰先生にも同韻の字を用いて作った「正気の歌」と詠んだものがある。 「正気天地に塞がる。聖人唯形を践む。その次の不朽なる者は、亦光を日星と争う」 これは、自釈だが、故人の偉人や聖人、突如世界の中で現れる歴史が証す偉大な聖賢や人物の存在は、この正気の発現によるものだということ、そしてこれは人智を超えた大宇宙観のことを言うのだと思う。 大宇宙観というものを捉えるとき、この霊気というもので語ることでその雄大な流れの中での自分の布置を観て生気力に還るというものにもその意味の普遍性を感じる。 そしてそれを太古古来よりこの日本では、その存在自体を「神」御霊とし、祀り、そしてそれが顕現していくものを「かんながら」と歌い、その広大無辺の大慈悲心という字に託してその心を引き継いできたように思う。 私たちの太古の祖先は、そういう宇宙観の中で日常生活を営み、その霊気によって国を開いた「かんながらの民」だったということになる。 私たちはその霊気を受け、その霊気を神主や巫女を通じて言霊にかえ、民衆を救い導くことで今を築きあげてきた民族だったのだと私は勝手に解釈している。 清き明き、そして直き心、清明心とは、その宇宙の霊気を受けるために自らを律してきた清廉潔白で透徹した厳美の伝統だったのだとも思う。 この今の時代は、我が国の伝統文化を蔑にし俗欲に撒かせて忘却されることで、その天地の霊気を浴びることも過度に少なくなり、人々は刷り込みに流され、穢れて暗き、歪んだ心になり、私たちの民族の力は色々なところで大幅に削がれてきているのかもしれない。 ここにきて、本当に必要なものはそういうものを思い出すことなのかもしれないと私は真摯に思っている。 また、どのようなものがそのようなものなのかは修養如何によるもの。 新しい時代、新しい流れの中、これからも理と向き合い、意味を感じ尽くしていきたいと思う。明日からまた仕事はじめになる。心機一転、この休養を糧に一期一会の出逢いを楽しんでいきたいと思う。 感謝。