いつも心を定めてふと気がつくと身の周りにはいろいろな便利なものがたくさんある。
情報化が進み、経済が発展し、モノが豊富になりすぐに手に入るものばかりが埋め尽くしている。
食べ物からはじまり、生活のすべてにそれは侵食している。
たとえば、食べ物では一つ一つが生きている生き物を殺してそれを加工し食べるものばかり、生き物は命をいただくのではなく餌となる。うまいかどうか、手軽かどうか、空腹を満たすかどうかだけで命が使われる。
そして生活などでは、たとえば自分の寝ているお布団から枕まですべてはひとつひとつ誰かの手によってそこに営みがあり時間をかけて作られたものなのに当たり前に加工品となっている。ブランドがどうかや見た目がどうか、必要かどうかだけで営みが取捨される。
人間はお金を使い何でも便利にすぐに手に入るものばかりを求めているうちに、いつも目先に囚われるようになり、心を失い何でもすぐに焦り急いで進めようとしてしまうようになった。
そういうものになっているから悠久の流れを感じている暇などもなく、日々を早く早くとせっかちに駆け足で取りかかっていく。
病気になれば、治療のことばかり、年齢を重ねれば、早く行事を終わらせることばかり、仕事をすれば早く成功させることばかり、、、
早く早くと自分の社会からの責任を取り除きたいと恐怖から逃げるように次々に目の前の出来事を処理していく日々を過ごしている。
せっかく生まれてきて命があるのに、それを何のために使っているのかと思うと本当にもったいないと思う。
私がいる現場は幼児期の子どもたちがたくさんいる。
それぞれをよく観ていると、唯一無二の掛け替えのないその人の命がそこにある。
それをどのように自らを発掘し自分の心に遵い使い切るのかを思うとき、現在の大人がそれをどのように日々使っているのかを見ると将来への希望、その生きる力というのはいったい何のか?と子どもたちも疑問を持つのは至極当然だと思う。
大人が自らの命の実践と生き方のモデルを示さずに、子どもに夢と希望を持てというのは片腹痛いと思う。
大人が眼前の欲望ばかりに執着するのではなく、人間を学び修めていくことや一生涯かけて自らの徳性明徳を明らかにしていこうと勤めなければ、自らの天命を畏れ恭しくすることもなくなり、いろいろなことに出会い邂逅を得て気づくことも少なくなる。
昔、子どもの頃は当たり前にできていた自然の姿に感動することがなくなり、今の便利な環境に完全に刷り込まれてしまうことになる。
こういう時代は経済云々よりもやはり何よりも「教育」というものをもう一度見直し、人が何のために生きるのか、そして命とはどういうものなのかということを社会全体で時間をしっかりと確保し、学を通じてみんなで助け合い協力し体得していくことが必要なのだろうと私は思う。
先日、御縁あった鞍馬寺の館長より素晴らしいお話を伺った。
「何でも急いではいけません、ゆっくり深く命の輝きを感じることで悠久の流れと大いなる移り変わりを体現することに価値があるのです」
と。
命というのものは、移り変わる。
その営みをよくよく深くゆっくりと観察してみる。
そうすると、そこに偉大な悠久の流れを噛み締め味わうことができる。
感謝や感動、そして命の輝きと光を観ることができる。
それぞれにはそれぞれの天から与えられた変わることがない大切な流れがあるのだと私は思う。
その流れを観ずに、何を流されているのだろうと思う。
受け継ぐもの引き継ぎもの、その間にあってもっとも偉大で大切にしていること。
「命の輝き。」
私の前にいる、あの美しく光り輝く子どもたちが、その命の輝きを決して粗末にせずに生きる力をつけ最期まで自分らしく生きていけるような社会を創るために私の命の光を以て歩みを強めていきたい。
子どもの未来は、私たちの今にかかっているのだから。
諦めず焦らず、誤魔化さず、すべてを受け容れて本気で挑んでいくことを誓う。