自由をテーマにしていくのはまだ早いけれど少し書き記すことにする。
世間の人はほとんどがみんな自由でいたいと思っている。その自由とは、制限なく自分勝手に好きにしていたいというものだったりする。特に仕事をしている人たちは自由を欲しがる。子どもの時もそうだ。
大人の仕事でいえば、時間や給与、仕事の中身や休みなどもある。日頃から自立できている人であればそれも自由自在に楽しんでいるけれど、作業員のようになって与えられたことをやっている人たちは不自由でストレスをため込んでいる。
子どもでいえば、学校での遊びや学びなどがある。特に日本の子どもは勉強が好きな子どもが少なく、いつも遊んでいたいと思っていたりする。日頃から自立している人は、勉強も学校も楽しいけれど、作業員のようになって与えられたことに委ねて生きることを慣れた子どもは精一杯大人の目を盗んで遊びこもうと躍起になっている。
なんだか、日本の刷り込まれる自由というのは、こういう誰かに価値観を押し付けられ抑え込まれて「作業員」になることに甘んじた人たちが語る自由であることがとても多い。
自由とは、与えられたことに対するものではない。
自由とは、自分から掴み取るものだし、生きるというのは自分の人権を大切にして幸せになるんだという生活生命そのもののことだと私は思っている。
たとえば、お金に対する自由、生活水準に対する自由、願望への自由、人間関係での自由、時間的な自由、挙げていけばきりがないけれど基本的によくつかわれている世間の自由を聞いていると、結局は自分優先で自分の思いどおりにいくことが自由だということになっている。
もし以上の自分優先で何でもありの勝手なものを自由と定義するのならば、ありえないけれど自分だけしかこの世に存在しなければそれは自由ということになる。そんな自由を欲しがっていたって、結局は何事からも受け身なのだから何もなくなってしまい、そのまやかしの自由に気づき、また現在の不愉快な現実に戻ってきたいと言いだすのが関の山だと思う。
こういう人は自由というニンジンに向かって走らされている馬のようなものだと思う。
たとえば、草木や花や虫もそれぞれでは規律のある不自由な世界だけれど、その中で調和しているのならばそれぞれは生活と生命が保障された本当の自由になっているということだ。
また違う言い回しでのたとえでは、音楽や料理などもそう。オーケストラなどで個々の楽器でどんなに自由に音楽を奏でてもそれが見事に調和しとても美しいものであれば自由だし、料理もどんな食材を組みあわせても美味しいのならばもう自由の世界にいるということ。
そういう自由の境地に入るほどの自在の力をそれぞれが持っていて調和が可能だという定義だ。
自由とは、本当は様々な障碍のなかでも自らの外側と内側の大いなる不自由を乗り越えた先にあるものだと思う。そしてそれはそういうことをもう知っているしそのものの真理にまでになったということだと思う。
論語の孔子に、「七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず。」とある。
これは孔子自身が十五で学を志し、人生最後の境地を語られている言葉である。
含蓄あるメッセージがここに観える、まさに大いなる全体との調和ができていて自由自在に自分を存在できているような境地なのだろうなと思う。
まだ実践がおぼつかず悩むことがほとんどだけれど私が思う本当の自由とは、大自然の中で様々な規律やルールがあることを知りながらもその中で全体と調和し、自我自在にあるがままで豊かな状態を言うのだと思う。
天気がどんなであろうとも、世界がどんなであろうとも、然としているようなもの。
違う言い方だと柔軟性ともいうのかもしれないし、もしかすると色や形を持たなくても自分の色も形も持っているというような姿なのかもしれない。
様々な状況にあっても「今」というものになりきり、変不変とも同化し、物事の全体と調和され、どこにいても何物にも囚われない水のような自在な存在になれているということなのだと私は思う。
会社でもそう、現在の環境でもそう、人が自由になるというのは、よく周りを観えていて、やっていることも腹に落ちていて、何度も繰り返し深めていくことで体得し、そのものをそのもののようにそれぞれで自立して同化できているという状態になればいい。
子どもたちには、同じ中で同じものになれと押し付けられた平均重視の履き違えた自分のない受身の自由ではなく、本当に個性そのまま自分のままでも自分の天命が生かし活かされるという周囲との大いなる調和の自由自在に自立したあるがままの本当の自由を掴み取ってほしいと願う。
まずは私自身が、自由自在になれるように生活の中から素直に天命を学んでいきたいと思う。