師弟の道

日本の偉人に野口英世がいる。

先日、ご縁があった会津の名君、保科正之のことを調べているうちに会津に残る人材育成の強い信念に惹かれていると野口英世の人生に触れていくことになった。

私の小さい頃の野口英世の印象では、最初は手を火傷したことで苦しむけれど、逆境をバネに努力精進して学問を修め、たくさんの学友や周囲の人たちに援助されて手の手術をし、その時の感動で医学を志し大成した人だと思っていた。

しかし、よく足跡を一つひとつ尋ねてみるとだいぶ印象が異なることに気づくことができた。

まず、母親の存在がとても大きく、観音様を信仰していていつもどんな時も英世のために人生を捧げて尽くしている。その後も、数々の恩師の導きと支え、至高の援助を受け、さらに親友たちの見返りを求めない恩恵、そして現地現地での一期一会の出会いを自らの発見発掘の出会いとし、志を深めて使命を帯びて歩んだその軌跡が凄まじい。

これは、真理や天意のままに歩む人が持つ本質と同じものを持っているということが伺われる。

また野口英世に与えられた天からの才、「忍耐」、という様々な艱難を自らの発奮材料とし、努力により至誠を貫くその真っ直ぐで懸命な生きざまにきっと周囲は心を揺さぶられて感動していったのではないかとも思う。

私が人生をかけて持つものとして、「浄化」がある。

もともと、誰がどう考えても悪いと感じられるものを、人間の叡智を活かし良いものへ変換していくこと、またどんなに穢れたとされるものであっても、それを透かして美しく清らかなものに還えていくということ。

そもそもこの世の中に善悪はなく、そこにあるものをどう自然に処すかというのがかねてより求められている調整役を司る霊長としての人間本来の役割のようなものだと私は思う。

話を戻す。

どの時代の偉人も、偉人為しうる絶対他力の支援があってこそだと改めて感じる。

その野口英世の人生の中でひと際、光る人物がある。

私が尊敬する吉田松陰と同じくして、師弟道を貫かれた偉人、小林栄先生という人物。猪苗代日新館の創設者で「会津から国家有為の人材を育てたい」という使命で歩まれていた方だ。

この方は、野口英世の逆境に光を与え、その能力を引き出し、生涯に渡り支援を惜しまず導き、大成を信じ、まるで実の息子以上に見守り続けた。また、英世が自分の使命を果たすために死ぬほど気がかりにしていた実母の面倒を18年間も見て、ともに遠方での英世の成功を観音様へ祈り続け、手紙を通し時には叱咤し、そして激励しながら世に為す人物になれとその師道に徹した人物。

やり取りのエピソードの中にもその師の暖かい邂逅が観える。

渡米にあたり、英世が一番懸念したのが母のことである。母シカの苦労を英世は誰よりもよく知っている。その母を置いて渡米することは、年取った母にさらに苦労をさせることになる。渡米すれば、母は倒れる。母を助ければ、自分の人生が名もなく終わる。これは死ぬほどの苦しみであった。この苦悩を彼は小林栄先生に話し、相談した。

小林先生は、迷いなく言った。

「大決心をしたのだから、これはやり通しなさい。お前の留守の間、私が親のことを微力ながら、引き受けてやろう。母のことは心配しないで、世界の桧舞台で活躍しろ」。

英世は師の心遣いに感激して泣いた。その後、生涯にわたり、小林先生を「父上様」と呼び、精神の父として慕い続けている。

 小林先生は渡米直前の英世に対し、三つの心得を説いた。

第一、母シカの慈愛を忘れないこと。
第二、観音様の慈愛を忘れないこと。
第三、自分自身の左手を忘れないこと。

何よりも、深い慈愛と厳しい左手の障害という逆境が自分を創ったということを忘れるなと私は解釈することができる。

人の成長というのは、片方だけでは育たないと思う。

太陽の暖かさと月夜の冷厳さ、そういう中にあり生かされていることを知り、地を這うものが私たちの人生なのではないかとさえ思うことがある。

色々なことが起きる中で、自らの歩みを深めることこそ人生の妙味。

弛まず、怠らない実践を探し求めていきたい。

子どもたちには、偉人の陰に必ず教師や師弟という決して切り離せない本物の関係があったことを伝えていきたい。私自身、多くの恵まれた師との邂逅や周囲の慈愛を忘れずに、自らの志を優先した生き方のモデルを子どもたちに伝えていければと思う。

忍耐という、耐え忍ぶ中にこそ見えてくる光を掴み取っていきたい。

情報リテラシー10

情報というものについてはずっと考えてきた。

人間は、直観のようなもののほかに言葉を通じて物事を情報にし伝達をしてきた。
そうやって言葉を創ることによって、様々なことができるように進化してきた。

情報というものは、常に時代によって変化発展して今日のようなインターネットを使って国境も超え時間的制限も超えた媒体を持つことになった。

便利さというのは、便利になったその刹那、必ず反面にある不便を生む。

情報の世界でも様々なものが簡単便利に手に入るようになったけれど、その情報の質や量などより複雑になり人間側が理解することが難しくなってきた。

たとえば、ホームページでもよい情報をたくさん載せればいいかというと判断する側からすれば多すぎても混乱してしまったり、全部良いというのはある意味で全然印象に残らなかったということも多々ある。

人間が情報を選別する際は、良い方と悪い方と比べたり、何をしていて何をしないのかや、もっとも大事にしているものやもっとも嫌っているものなど、何かに挟み込むその「行間」のようなものでその人なりに本質に近いものを掴み取っていくのだと思う。

もちろん、情報を入手しすぎて過剰摂取しだすとその一つ一つの意味も感じなくなりまるでその情報の意味を感じないパブロフの犬のようになってしまうこともある。哲学や思想などを深めず、ただテレビを見続けるように受け身になり作業のように考えなくなるとまったく情報を使いこなすことができなくなるのと同じようなものだ。

自然界でもそうだけれど、人間が便利に都市化されたものに流され続けているとリサイクルや持続可能など当然必要としていることにも無頓着になって無機質に無感性になっていくのと同じ仕組みだ。

しかし、本当の情報を手に入れないと自分が本当に欲しいものとのマッチングは難しくなる。

ミスマッチの連続では、感動するような出会いも少ないし、自分にしかあわないものに出会える可能性も下がってくる。

私が考える情報リテラシーに、「こだわり」がある。

その発信する情報者が生涯をかけて続けていきたいもの、そして決してそこから下がれない一線だったり、もしくはもっとも大事にしていきたいものを絞り込み、その「こだわり」を持続可能にしていくというもの。

たとえば、人は、何でも続けていると身体に纏ってくるものがある。

それは掃除でもいいし、坐禅でもいい、あいさつでもいい、笑顔でもいい、大事にしていることを動作化し続けていけば自然にそれが周囲に可視化されていくし、感化されていく。

そういうものは、情報なんて細々と伝えなくても文字通り「一目で分かる」ものになる。

これだけ情報過多の時代、目でたくさん見てもわからないものばかり、だからこそもう一つの眼ですぐに分かるような情報を出していくことが大事なのだと私は思う。

そして私は今こそ、そういう感性を磨く時代に入ったのではないかと思う。

先日、私が伺った園では「子どもに本物に触れさせたい」という理念があった。
私もまったく同感で、カグヤでもそういう本物とのふれあいを増やしている。

本物に触れることで、心の眼や心の耳等のもう一つの五感を開いた情報入手ができるようになってくる。

そしてそれを上手に使いこなす人こそ、本当に今のITなどを使いこなせる成熟した情報リテラシー力の高い人だと私は定義している。

どの時代も、本物が情報を使いこなしていくのだ。

大衆情報をどんなに権力者が操り扱おうとも、本物の情報は時代を越えて普遍性を帯び長い年月で人間を導いていくのだと思う。

私は情報リテラシーを扱うコンサルタントとして、また子どもたちにより良い環境を世界へ提案し、広めていくためにも常に本質に寄り添い、意味を素通しさせない様な日々の実践こそを大事にしていきたい。

保育環境の情報リテラシー企業として、今の時代のツールを活かし子どもたちへの未来のIT環境を創造していきたい。

グリーン天職バイブル

先日、私たちが購読しているエコ情報誌オルタナより「グリーン天職バイブル」という就職情報誌が発刊された。

これは、会社選びのモノサシを変えるとして、規模でもなく売上でもなく、社員数でもなく、ブランドでもない、「志」を優先して自らの仕事を選ぼうという趣旨で制作されたものになる。

夢を持った学生の方々もボランティアで編集に参加し、経営者と語り合いながら取り組んで完成させる。そのプロセスにもとても意味があり、本当の就職活動とはどのようなものなのかを突き付けてくるものだと思う。

深くその発刊の意志に共感し私たちもそのグリーン103社の一社として協賛して掲載させていただくことになった。

私も学生の当時はきっと分からなかったけれど、もし今、自分の身を置く会社を選ぶなら必ずその経営者の理念や志を深く確認し、自分の使命とシンクロニシティができるかとうかをモノサシにする。

当然、仕事とは人生の一部でありそれは自分を社会で活かす掛け替えのない一期一会の場なのだからその優先基準や軸が最初から盲目になっていたらその後も幸せになるはずはない。

自分の決断の軸、つまりは初心や起因がどこからなのかというのは未来の方向性の確認のようなものだと私は思う。

分かりやすく、目に見える安易な情報や我欲を優先すれば必ず不釣合が生まれその歪みによって自分の天真が発揮できなくなってきたりする。

どんなに困難そうに見えても、自らの選んだ決断が志からだったのであればそれを貫くとき、人は本物になるための成長をはじめるのだと思える。

そういう意味では、このグリーン天職バイブルも、そのオルタナ編集長の森摂さんの存在、そういう人がこの日本に出てくるということ、つまり内容や賛同した経営者がどうこうということではなく、「世の中にこういうものを出していく」という情報発信自体こそが価値のあることだと私は思う。

私も今の仕事を通じて気づくことがある。

今までの古い慣習から残す大切なものを重々学んだ上でも、そこに時代にあわなくなってきている疑問を感じ、そのままにせずバランスを取るためや未来の子どもたちに本質を譲りたいと一念発起し、勇気を持って世間や社会に対して自ら行動を起こしていくと様々な偏見とも出会うことになる。

その偏見と向き合い、その偏見を丸ごと受容するとき今までに観えてこなかった本当の問題が現れ、そしてそれに向き合っている無二の同志とも出会ったりする。

私も社業を通じて、様々な刷り込みと向き合う中でたくさんの仲間や本物の実践家に出会ってきた。

こういう出会いがあるから人間の世界は面白く、感動に満ちているのだと思うことがある。

今から社会へ出ていく方々、この世の中は本当は素直に生きられる場所もある。それを見つけ出すには、自らが主体で情報を発信していかなければ引き寄せることも受け取ることもできなくなる。

情報はまるで大きな河のようなもの、受け身であれば流されるもの。
如何に主体となってその河の流れになりながら自分を活かすのか。

理念も信念も、そういう日々の実践により可視化されていくのだと私は思う。

私たちの向き合う保育園幼稚園の子どもたちもいつの日か社会へ巣立つとき、自らの力で自分の天職に出会うようになってほしい。

だからこそ、まずは我々がその実践を示し、世の中に対して主体を持って志の情報発信をしていきたいと思う。

子どもの眼差し

世の中にはいろいろな個性の人がいます。

大人の世界では、自分の「我」が邪魔をして他を受け容れることできなくなったり、また集団の持つ価値観などがありそのままのあるがままの自分でいられなくなってくるものです。

本来、子どものときはその子の個性も「子どもだからいいじゃない」と、とても暖かい眼差しを向けられることもあります。

しかし、世の中に心豊かにゆとりや優しさが欠落してくると子どもたちにまで大人のルールや価値観を押し付けようとし始めたりします。

そのままで良いと思われなかった子どもはとてもつらい思いをします。

人は、何のために生まれてきたのかを考えるのは大人になってからだと思いますが子どもたちを観ているとそうは思いません。

子どもたちは、自分たちが何のために生まれてきたのかを本能で分かっています。

その証拠に、様々な個性をそのままに色々な命の光を発揮していきます。
言葉はよく喋れなくても、精一杯自分を主張してきます。

人は、自分のあるがままの力が周囲に受け入れられたとき、自然に他と共生し自分の持って生まれた天分の命を他や社会へ還元し貢献していきたいと思うものです。

子どもたちを観ると本当に安らぐ時があります。

それは、様々な子どもがいてもおかしいと思っても相手の気持ちを分かっていてそのままに接しているところなどです。

そしてその中でも暴力や悲しい事はみんなが嫌がります。そして、嬉しいこと、楽しい事はみんなで喜びます。だからこそ、みんなで話し合い、正しい大人が間にいてどうしたらいいのかをみんなにキッカケを与えて見守るのです。

そうしていくことで子どもは自分の主体で思いやりを持てるようになってくるのだと思います。

今の社会はどうでしょうか?

障害者に対する見方、そして軽度発達障害に対する見方。

言葉を換えればいいという問題ではなく、それはその大人たちに巣食う偏見の眼差しや集団社会で生きることへの歪んだ刷り込みなのではないでしょうか?

先日、園内研修をしました。

そこでも軽度発達障害の子どもの相談を受けました。園ではそういう空気が読めなかったり、多動だったりする子どもを気になる子と言います。

ある先生から気になる子への対応はどのようにすればいいか聞かれました。
私は気にならなければいいと答えました。

文章で書くと誤解があるかもしれませんが、もともとそういう偏見が当たり前のことをできなくしているということに気づかないだけだったりするのです。

本当は、子どものような「なぜ」「どうして」という素直で純粋なものの目で物事を受容していればそんなに難しいということはほとんどないのです。

どんなに難しい対応も内容もそれをやるためのテクニックを覚えればいいわけではないと思います。

大切なのはそうではなく、人としてシンプルになる、つまり自然でいれば次第に世界にとって必要になってくるのだと思うのです。

色々な価値観や個性を受け容れることができる思いやりがある人たちは決して人間を偏見で見たりはしないものです。そしてそれは世界の一流人には当然備わっていることだと思います。

もちろん運不運があり、この島国に縛られ日の目を見ないこともあるかもしれない。けれど、その人の天真が発揮されていれば必ず見つけ出す人たちがいるのだとも思います。そしてそういう自分を発揮していれば、そこが光りだし少しでも多くの暗闇を照らす一燈になっていくと私は思います。

子どもたちの長い未来、これから創り上げる社会が、偏見のない純粋で助け合える豊かなものに変わっていけるように、まずは今の大人達が刷り込まれた偏見を取り除き、子ども自らで学び育つ力があることをもっと周囲へ向けて発信していきたいと思う。

子どもには、本当に自分にしかできないことをやりたいことをやれるようになってほしいと願う。

環境

環境ということになるといろいろとある。

目に見えて出てくる環境というのは、普段は目に見えないビジョンやその人の人生観や人格などからにじみ出て現われてくるものがある。

たとえば、花が多い環境などは心の潤いがあり、その潤いが周囲に香っているということもある。他にも、居心地の良い穏やかな落ち着いた環境などはそのリーダーや職場の人たちの心が定まっていてブレなくなってきたということもある。

人はその理念から定めた実践が増えていくと、次第に環境に現われてくる。

最初は分からないけれど、良い環境を真似して創ってみると何が自分と異なるのか、そしてそれを維持するために自分が決めることは何のかが現れてきたりする。そうやって環境を学び真似をするところからでも気づけるところはたくさんある。

私たちも関わっているパートナーにも、よく環境を観てそれを実践してみるところから勧めることが多い。目に見えないものを伝えるための効果的な方法の一つになる。しかし最終的には、決断と信条が環境を創りだしていくのだと思う。

どの組織でもそうだけれど、リーダーの仕事というのをブレずに持っている人と持っていない人がいる。日頃は特に実感することはないけれど、理念が立っているリーダーは、普段からその実践を行っている。

リーダーというものは、有事の時に本当にブレナイ行動や決断ができるかどうかでリーダーになったかどうかということが分かるのだろうと思う。

常に何を優先するかというのは、そのリーダーの思いが決定づける。
何を大事にしているかを観れば、何を目指しているのかはすぐに分かる。

環境はそういう日々の積み重ねの上に出来上がってくる。

国家も同じく、そのトップの周囲で起きる出来事に対してどれくらいの不退転の決意かどうかはすぐに伝わってくる。

まずその心得やその目標が崇高であったり清廉でなければ、決して人はついては来ない。常にリーダーは、自らを清浄にして高い理想に向かって様々な人に自分を捨てて尽くしていくことが必要なのだと思う。

論語にある君子のように、人間のために生きるというのはそういうことだと思う。

しかし、今の世界では色々な情報が錯綜し、様々な囚われた情報に流されそうになる。経営者は好き勝手し、政治は荒れ放題、そして人心が荒廃し、多忙を極め、世知辛い繋がりと人道に反する事件がたくさん起きている。そういうときでも、自らをしっかりと支え原点を見失わない様にしっかりと明確にしておくものが理念になる。

会社だけではなく園でも、理念が決まり、その目的と内容、方法などを明確にしていく過程で、子どもたちの未来にどのようなブレナイ実践を創意工夫し行うのかというは重要なことになる。

何でもそうだけれど、通常の決めつけられた世間一般の常識を疑い、自分自身の刷り込みに囚われず、原点や初心を忘れずにあるがままに本質から判断できる状態でなければ本当に何かをやっているとは言い難くなると思う。

刷り込みや囚われにならないように、何でもその意味を深く追求していく実践やその意味から常に内省していることが結論を左右していくのだとも思う。

私自身、無意識に囚われてしまうことがたくさんあり、迷いがあるのだとよく実感する。様々な出来事を通して自分が本当にやりたいことに沿っているのかを確認する貴重な出逢いや出来事もたくさんある。

子ども第一主義を掲げているけれど、とても一朝一夕にできるものでもない。しかし、全ては世界の平和のため子どもの未来のためと粛々と行うことに祈りを込めるしかないと自らを練り上げようと努めている。

常に、理念に沿ったブレナイ実践は誰にでも必要になるのだ。

子どもたちには、自分が決めたことを流されずに自分を信じて夢を実現できるような気持ちになれるような環境を生み出す人になってほしいと願う。

まずは、私自身が、誠心誠意、至誠の実践を学び、子どもたちの現場に確固たる子ども主体、子どもが主人公になるような環境を用意していきたい。

すべての出会いに感謝し、有難い日々の信条との一期一会を大切にしていきたい。