真心の鏡

子どもたちを見ているととても心が安心することがある。
そして自分に素直に生きている人をみるとやっぱり安心することができる。

生きるというのは、そもそも難しいことだし、いろいろなことが起こることもでもある。その中でも真っ直ぐにその出来事に正対し、気付き学び成長する人とそうではない人がいるというのは教育に携わる人のテーマでもあると思う。

真心を籠めて生きていくということ、愛を持って生きるということは、誰が子どもへ教えるのだろうか。

周囲の温かい大人の示す感化により、伝わっていくのだと私は信じてる。

しかし、今は子どもの時より時代や環境によりさまざまな刷り込みにあい偶然そういう感化に恵まれずに擦れてしまうこともある。そうこうしているうちに自らの本心を亡くし、素直になれなくなるようになる人もある。

何を聴いても正しく受け取らず、周囲に対して憎しみを持つようなトラウマや深い影を持つ人も世の中にはたくさんいる。誤解した過去をずっと抱え込んだまま、生きてしまうことがある。その一瞬が永遠になってしまうことがある。

子ども時代の出来事との出会いは、いつも無防備だし、不意をつかれたその衝撃は記憶に刻まれいつもそれを恐れるように許しや癒しとは反対方向へと衝動で向かってしまうのだと思う。

そういう場面やシーンを持っている人を見るととても悲しく、そして切なく感じるのは私だけだろうか。

潜在意識に刻まれ、蓋をしてしまい二度と開けることがないまま、なぜか不自然が身についてしまい、またそのせいで余計にもがき歩む。温かい人との出会い、恩師との出会い、奇跡のメンターとの出会いにより、もう一度自他を心底許せるように感化される一期一会を得てほしいと心から願います。

私が大人が子どもへ与えてしまう「刷り込み」に対して、本質を得ていると思っている内容に下記がある。

『人は童子たる時、全然たる本心なり。やや長ずるに及びて、私心やや生ず。既に成立すれば、すなわち更に世習を夾帯して、而して本心殆ど亡ぶ。故に此の学を為す者は、当に能く斬然として此の世習をさりて、以て本心に復すべし。是を要と為す。(言志四録 佐藤一斉)』

「人は幼いときに、無垢で完全な真心を持っている。やや大きくなると、私心というものが少し芽生えてくる。そののち一人前になると、さらに世俗の習慣が身についてきて、汚れのない真心はほとんど失われてしまう。したがって、聖人の学問をするものは、世俗の習慣をきっぱりと断ち切って、真心に帰るようにしなくてはいけない。これが重要な点である。」

子どもの時の素直な真心は、どんどん大人になっていくと失われていく。

保育園幼稚園であの子どもたちとゆったりとくつろぎ静かに真心で通じあうとき、彼ら彼女たちは私に真心で返してくる。「楽しい、嬉しい、大好き、、、」素直で屈託のない澄んだ瞳。なんて温かでそして優しいのだろうといつも人間の素晴らしさを感じて感動してしまう。子どもの素直さはそれだけで無限の光と輝きがある。

大人が子どもに価値観を押し付けるというのは、子どもの本心を奪うことにもなるのではないかと私は信念を持って思っている。

子どもたちは完全だとなぜ思えない大人がいるのか。

それは、自分の本心を刷り込みにより忘れてしまっているのではないかと私は思う。

もう一度、そういうものを「真心の鏡」として子どもたちを観てみるとどうだろう。

すべてを持って生まれて、そして失っていくとしたら、私たちはとても悲しい機会損失に日々出会っているのではないかと思うと心が痛む。

安心して素直で生きてほしいと念じる、まるで太陽も月も地球もそういう素直さを生きるものへ平等へ恩恵を与えてはいないだろうか。共生や調和というものの本質を鑑みていきたいと思う。

まずは私自身、素直に生きることができるように、思いやりと真心の鏡を自ら日々確かめながら子どもたちを信じていきていく実践を積み上げていきたい。

万物の具徳により、新しいモノサシが世界を変えることを信じて。

情報リテラシー11

先日、ある園で情報リテラシーのコンサルティングを行った。

すべての人は多くの情報の中から自分にあったものを探し物事を選択・選別していく。

たとえば、それが知識や体験からのものであったり、動物的直観であったりと、その人たちの判断基準はその人が持つ感性や価値観に左右される。

そして、その内容の重厚でまたその判断基準は大きく左右する。一生涯影響を与えると思えることであれば、細部細心の注意を払い、本当にそれでいいのかなどを深く悩んだり迷ったり、さらに情報を探そうともする。

しかし、たとえばたいして深く考えていない場合の今日、明日の悩みや、今何を食べるかなど、影響があまり先々に見えてこないものはあまり深く悩むこともなく、見た目だけのものや、何となくだけで決めている場合がほとんどだと思う。

つまり情報というのは、その人がどのようにそれを思うかによって千差万別する。もちろん思想や哲学が成熟していたり、芸や道の追求や実践が長けていて自らを修めているような一流の人たちなどはどんな情報でもすべて見落とすこともないのだろうけれどふつうはそういうところまで考はしないので情報に受け身に関わることが多いのだろうと思う。

そういったようにふつう情報は、受け手側の感性によるのだから発信側が情報リテラシーを正しく理解して真の情報を取り扱っているのかどうかはお互いの幸せと目的達成のためにとても重要になる。

ある園では、親ウケ、子どもウケがいいからと園庭や玄関に派手な遊具や派手なキャラクターを用意して目立とうとするところがある。もちろん、会社も今どきは地味なものよりも派手でないとという看板のような感覚で販売しているところもたくさん増えているしそんなころは当たり前だと意に反さないところもたくさんある。

言葉巧みに子どものためと、いろいろなところでお互いに納得し合い、理屈をつけては、それぞれに物品を購入しているのだと思う。子どもが良いかどうかよりも人間としてみたときに、やっていることの本質として本当にそれが必要かどうかを考えてみるだけで刷り込みに気づけることもあるけれど、大人側が子どもを語る時、どうしても誤った情報理解になるのは不思議なほどだなといつも思う。

もちろん、今の時代は、何をやっているのか、何をやったかという成果主義が企業でも蔓延していて何かをやることばかりに目がいくような傾向もある。でも、たとえば自分のパートナーや命を預けるような仲間を選ぶとき、見た目の派手さやパッと見の印象だけで決断するかというと、ほとんどは関わりを通して長い時間をかけてお互いに誠意ある実践と日々の約束や行動をお互いに認め合い、信じ合い、互いの気もちを育てながらじっくりと決断していくようなものがほとんどだろう。

そう考えると、何かしらの園のポリシーの弛みない永続する理念の実践というこだわりを通して、何かしらのメッセージを外部へ発信し続けることが親に本当にこの園を選んでいいのかを投げかける真心の情報開示ということにならないだろうか。

本当に親のためならば、親の真の目的であるわが子を何よりも大事にするために、情報の見た目を良くすることでもないだろうし、浅いところの情報でひきつけることでもないと私は思う。

その園が考え抜いた子どものために何よりも守りたい大事なこだわりを一本立てて、それを全職員と園長が一丸となって実践し続けてその経過や内容により本物の情報を滲みだしていくものだと私は思う。

そういう実践を続けていると、情報は育ってくるし、醸成されてくる。
そういうものは、見た目には分からないけれど雰囲気やその場に入ることであっているかどうかを肌や心でより自然に実感できるようになるものだ。

人間は、必ず生きていく上で必要な情報の取捨選択する本能がある。

その本能は、本物に感動し、本物を手繰り寄せる。

場には、その理念の実践により余韻が残ると私は思っているからだ。

お互いが本当にマッチングするような一期一会の出会いを呼び寄せるのも情報を扱う側の心構えと心得ひとつ。

日々を怠けず、常に自ら正しい情報を扱い、ブレナイ実践を続けていくこと。

カグヤの代表としても、このブログもそうだけれど、日々、自らを省みて、モデルとなる実践を示し感謝とともに子どもたちと保護者、園に関わっていければと念じる。

慎独

大義を得れば大義を誠に実践していくのは志下一念で生きる者の定めではないかと思う。

古典、大学にこうある。

「所謂其の意を誠にすとは、自らを欺くなきなり。悪臭を悪むが如く、好色を好むが如し。此れを之れ自謙と謂う。故に君子は必ず其の独りを慎むなり」

私の解釈として、自らの内面の心を真心一つにすることとは、自分自身の本当の心に嘘偽りないものにしていくこと。まるで嫌なものは嫌だし、良いものは良いと思うようなもの。そのままの在るがままの自然であるという。だからこそ、君子は絶対に誰が見ていなくても誰がいようがいまいが、君子は自らを独りで身を修め慎むようにすること。

自らの内面に嘯かない生き方をする。

これは、自分に尽くすという天を感じて生きること。天が自分を見ている。だから、天を絶対に裏切らない。天が見ているからこそ、天に対して本気本心だったかを問うということ。

どんなに独りのような気がしても、そこには必ず天が見ていると信じる。

これが忠。

そして自分以外の人を裏切らないためにも、自分が信じ切ることを優先する。言葉に嘘を乗せず、在るがままで正しく接する、これを誠心とし、まごころと思いやりとする。

これを信。

最期に、誰からどう思われようとも、誰にどう批難されても、それが真剣に自らの命を懸けるほどの信条から練り上げられ、至誠の志からの自らの人生観の発動、そういうものに自分がどうしようもなく突き動かされる運命的な魂の衝動、そこにはその忠と信から天と同化し自らの命を任せるほどの透徹心による勇気が現れ行動する。

これが義。

思いやりが広がり、優しさが天と一体になりあるがまま本物になると忠義になる。
その時、維新の志士たちが遺したような下記の言葉が出る。

かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)

世の中の人は何とも言わば言え 我が成すことは我のみぞ知る(坂本竜馬)

世の人はよしあしことも言わば言え しずか誠は神ぞ知るらん(金子重輔)

ああ、いつも天を感じて生きていくことを思うと、如何に君子は独りを慎み天と対話を正しく続けて貫いていくことが求められるのかと真摯に思う。

子どものためといえども、気がつくと周囲の喧騒に揉まれるばかり。もっと心を正しくし学びを深くしていきたい。正しく学ばなければ志と正対ができなくなる。私が尊敬する諸葛亮孔明の言葉がある。学び、実践し、心を正しくして静かに慎む。

そこにはこうある。

「優れた人は静かに身を修め徳を養う 無欲でなければ志は立たず おだやかでなければ道は遠い。学問は静から、才能は学から生まれる 学ぶことで才能は開花する 志がなければ学問の完成はない」(誡子書)諸葛孔明

内省して慮ると、私は少しのことで動揺し、大きなことでも動揺し、ゆらゆらゆらゆらと志の前後で揺れてばかり。学を志してもう十数年、まだまだやることはたくさんある。

もっと独り慎み、静凛として真心と真実と真理の道を歩んでいきたい。

慎独至誠、
  初志貫徹。

敬天愛人

先日、宇宙のことについて学ぶ機会があった。様々な星星のことを、それぞれの科学的プロフィールで書かれている本を読んだ。その星がいつ生まれ、これからどうなるかはまったくわからない。

しかし、その星星は確かに何かから生まれ、そして意味がある。

宇宙から物事を観るということではないけれど、そういう観点で自分の存在を考えると奇跡を身近に感じて、可能性や幸せを感じてしまうことがある。

たとえば、地球46億年の歴史からすれば、人間の物語などはまだほんの生まれたばかりの赤ちゃんのような出来事だなと思うことがある。

保育園、幼稚園で乳児たちが大人たちや周辺のお兄ちゃんお姉ちゃんに見守られているとなんだか宇宙を感じてしまうことがある。

銀河系というか、ここに一つの宇宙があってその宇宙の安定と変化を鑑みるとその進化と未来の可能性からいろいろな意思を感じてしまうのは私だけだろうか。

子どもの現場を観ることが私を外の世界へ向けていく。
如何に保育園幼稚園など、子どもに関わる人たちは内にだけ向くのではなく、常に心や智慧を外へ外へと大きく広げて高めていくことが重要だとよく思う。

大切にするとは、内向きだけではできない、世界へ眼を向けていくから大切にできるのだ。一つの保育室から地球全体の保育室へなるような実践が保育者にはこれからも求められると私は思う。

私も実践を通して、世界を保育していけるような叡智を求道していきたいと念じる。

さて、話は進む。

天というものがある。

いつからか、天を信じて、天に任せるという言葉が自分の志を支えてくれるようになってきた。そして、いつも天を感じて空を見上げると大切な夢が其処に在るようになった。

しかしそのあと、歩いている足元を見ると、いろいろな矛盾や分からないことばかりある日々に戻る。

また天を見上げると、少し先の未来を不安がらず、過ぎ去ったばかりの過去を後悔せず、「今」ということにどれだけ丹誠真心を込めて生き切っているかと自分に省みる機会が与えられる。

人は、誰でも生きていれば様々な不思議なことに出会い、また起きる。

けれど、その意味を感じ尽くすとき、そしてそれを正直に「認めて耐える」時、はじめてゆったりとその物事や出来事との邂逅が生まれる。

人間はどうしても、自分に刷り込みやしがらみがあると、自らのエゴや周囲の喧騒に判断を迷い苦しむことがある。

そうやって迷えば信じることはできないし、惑えば遣り切ることができない。

迷いをなくし、最期までやり続けるためには、天を敬い、人を愛する生き方が志を持つ人、もしくは正しく命をやり遂げたいと願い念じて生きる人には、在るがままの境地になるのではないかと私は思う。

志を持って生きるということ。

そこには、言葉で理屈を言うというよりも、命に正対し、どんなことへも一生懸命、どんなことも命がけで生き切るということを実践する「真の生きざま」があるように思う。

たとえ、どんなに多くの人たちから誤解されようとも、たとえ、どんなにたくさんの人たちから低俗にみられようとも、自らの信じる道と実践を尽くしていくことが天に嘯かない、天に真っ直ぐに正面から伸びていく「真の生きる力」なのだろうと今はそう思う。

私は、これからも自分を信じて、この「今」一瞬に全ての命の光を込め、次世代の子どもたちの未来に少しでも多くの命の光を推譲していけるように、天に正直に今を生き切っていきたいと念じる。

子どものモデルになるような生き方が本当にできるのだろうか。
どんな壮大な矛盾ですらも自らに問い続けて、決して歩みを止めない。

この念が、真心で愛する人たちの人生を必ず幸福にできると揺るぎない理念で信じられるまで自分よりも「愛」を優先していきたいと願う。

感謝。

在るだけの素晴らしさ

カグヤでは、いろいろな実践がある。

毎朝、様々な企画でお互いを深めたり高めたり、そして意味を味わったりするような遊びから論語による内省まで多くの種類のものを行っている。

人は、浅いところで理解し一緒になにかを行うのと、日々、弛まずお互いを理解し合い深まっていき人間性や徳性までを全て受容し共有するのでは出来事における成果もプロセスも雲泥の差がでる。

私の師匠が話の中でいつも仰っている中に、「見守る」がある。
これはカグヤの社業の原点。

私は運が良く毎週末に、GT会員向けのメールマガジンを通して私は師の思想に正対し触れ、原点回帰することができる。そして、その一つの道を正しい一本でと自らが定めた道を味わい尽くす時間をいただいている。

言葉については、いつも一期一会を思う。
そして言葉とは、発するときには出ていくもの。

その発するまでに自分がどれだけ大事に丁寧に、丹誠を籠めてそれを使ったかを鑑みるとき、また一期一会について考えさせられる。

私ももう師匠の意である「見守る」という言葉を何度も何度も現場で使ったけれど、そうやって発する以上、わかった気になるのではなく、いつも初心、いつでも純粋に感動したままでいたいと誓い、常に言行を戒めている。

そして先週のメールマガジンでもまた師の本質が理解でき何よりも暖かく嬉しい気持ちになった。

そこにはこうある。

『人からの愛情の中で育ち、自分の存在が認められ、生きることを保障され
ている子は、人に対しても信頼感を持ち、精神的に安定します。またそれは親からでなくとも、保育者や教師や地域のだれかが、その子を信じてあげればその子の人生が変わることがあるのです。』

最近になって、私にはこれがよく伝わり感謝・感動することがある。

人は信じて認めてあげる存在によって生きる力を得て、そして自らの内面に安心した世界を見出しその感謝に対して自らの使命を果たそうとする。

そう考えると、人が人に影響を与えるというのはそのものの存在への自らの眼差しと感化如何によるものであるのだと私も今では信じている。

改めて、何もできないからこそ、本当にできることの有難さと人間の素晴らしさを感じてしまいます。

慈愛や尊厳、本当に素晴らしいと思うことばかり。

そういう意味で私がとても好きな言葉の中に、相田みつおさんの詩がある。

===

あなたがそこに ただいるだけで

 その場の空気が あかるくなる

 あなたがそこに ただいるだけで

 みんなのこころが やすらぐ
  
 そんなあなたに わたしもなりたい

===

出典:『いちずに一本道 いちずに一ッ事』
角川書店、相田みつお より

この詩には、私が「見守る」をある側面からみたときの在り方が示されている。

ただそこにいるだけで、みんなが良くなっていく。
そういう人たちばかりが集まれば、どれだけ社会が良くなっていくのか、感動や感謝に包まれていくのか、まだ、自分ができることは本当はたくさんある。

子どもが安心して成長していけるように、私たち大人はまずモデルを示していくことが肝心なのだと社業を通していつも実感する。

最後に、言葉には心気が現れる、そしてその言葉に魂が籠るものがある。

それはその人の信魂に触れた時、なぜか何万語の説明もいないほど伝わってきてそれが自分の心底を揺さぶり感動を呼ぶようなもの。

そういうことが人を変え、そういうものが人をより美しく光らせる。

そこに余裕がなくなり不安や焦りがあっては、到底そういう言葉も聴こえてはこない。静かでなければ聴こえないし、身を修めていなければ受け容れられない。やはり近道は、修養ということになる。

いつも思いやりのある真心で、真摯に誠実に生きるというのは何よりも幸せに生きるということにつながっていると信じて、子どもの未来のために一人でも多くそういう人たちの実践を支援していけるように念じていきたい。

子どもたちにも、ただそこにあるだけで良いんだよと伝えていきたい。

不自然

ここ数日は自然と共に過ごすことができて、らしいままの自分がゆったりと戻ってきている感じがする。

大都会に住んでいると、よほど理念のままで自分があるようにしていても無意識に固められた周囲の偽りの「アタリマエ」にもっていかれてしまいそうになることもある。

そういう塗り固められたアタリマエの中では、「何もないあるだけの自然」というものの有難さなど感じるゆとりもないのだろう。

現在、社会は大人側のシステムで強引に都会化されていき、便利と合理化の理由付けの中で、無駄なもの機能しないものはどんどん取り除いていくようになっている。

いわゆる、あの「世知辛い世の中」に既になってしまっていると肌で実感する。

たとえば、河川や山野、野原や田圃、その他、子どもの時に身の回りにあって楽しくて仕方なかった観察の対象である共生の自然すらも今は身近にはない。

そういう場所は危険だからと、大人の都合でどんどん取り除かれルール化され、子どもたちの安息の場所ではなくなってしまった。

大人びた子どもたちと、それで安心している大人たちがいるだけの世界。
面白みのない世界になってしまったと本当に寂しい思いをすることがある。

そしてその代償として用意した公園でさえも、時間と場所を制限され、大人側で過保護・過干渉に整備された様々な遊具の中で、作られた遊びをさせられるようになっている。

いつからかどこからがそのような不自然極まりない世界になってしまったのかは、洞察してみると高度経済成長というもののシステムを信じて疑わなかったことが原因のような気がする。目に見えるものだけを信じて、無駄を顧みず、意味があったものまで取り除く。

そんな外界だけを管理するシステムが、この不自然を生み、世界の生き物を窮地に追いやった原因ではないかとさえ思う。

この今もさまざまな生き物たちが絶滅を免れず、人間もまた同じく免れない現実を噛み締める日がくる。

これも先進国や多数意見という集団依存に刷り込まれた代償だろうけれど、あのインディアンの古老達や我が国の神道の実践者、聖人たちが遺戒で刻みながら受け継がせた豊かさやあるがままなどの、万物の霊長として恥じない生き方が否定されてしまったことは本当に悲しいことだと私は思う。

私は、かんながらで歩むことは決意しているけれど子どもたちには何をどのように遺していくのかは天を仰いでもこの道でいいのかどうかはまだわからないことばかり。

しかし、子どもには自然を遺してあげたいと心から願っている。

私はよく「子どもには本物を」と仕事でも話をするし、コンサルティングしていく中でもとても大事にしている軸がある。

私のここでの本物とは自然であると定義している。

なぜ自然である必要があるかというと、当たり前だけれど子どもは自然だからだ。子どもたちは何をやるにも打算もなく、計算もない、突き動かされるように自らを最大限発揮して自然に感動する。

雨が降っても、空が高くても、風が強く吹いたって、まるでお構いなし。元気溌剌として、成長しようと、もっと楽しんでいようと、あるがままでいる。

保育現場で保護者の相談などを聴いていてよくうまくいかないとみんな悩んでいるけれど、それは当然だといつも笑ってしまう。子どもが大人には扱いづらいのはそれこそ当たり前で、なぜならそれは自然だからだ。

自然農業や野性の動植物、その他、昆虫などとも自分の思いどおりにしてみようと深く関わってみるとよくわかると思うけれど、どれもとても扱いづらく簡単にはいかない。ほとんど人工的にすればするほどうまくいかない。時間をかけて心を込めて研究観察し、自分を全身全霊で相手にあわせていかなければ相手は認めてもくれないし、受け容れてもくれない、そういうものが自然。

自然を相手にするというのは、人間が身につけた自らの刷り込みとの対峙にもなる。

今の時代のように不自然を相手にして満足したいのならば無機質なものやロボットへいけばいい。それでもなんとか生き延びたとしたいのならばそれでもいい。いつか、必ず心が表に出てきてもっと悲しいことを引き起こすのは容易に予想が立つ。

しかし、決して忘れてはいけないのは私たちが生きているのはこの地球の上にあるということ、そして地球が私たちを生んでくれたということ、宇宙が見守っているからこそ私たちが在ることができるということ。

そういうものに感謝の心が足りないから、人間は科学を悪用し自分たち大人の世界に埋没していて刷り込みに浸っていたいと思うようになってしまったのだろうと思う。

そろそろ、これから生まれてくるあの子どもたちのためにも大人が目を覚まし、身の回りの不自然を取り除くことで未来を切り開く時ではないか。

本当に「今しかできないこと」は今のテレビなどで流行っている生易しい大人側の都合で塗り固められたエコのことだろうか。

一人ひとりが本気で、自然やエコの本質と向き合い環境を見直し改善しながら、在るべき姿をみんなで考え、学び、子どもたちの未来のために、あらゆる不自然を受容しその全てを自然に変換できるような人間力を育てる保育や教育を全員で実践することではないかと私は切に願う。

世界を創るのも変えるのも人間。
だからこそ、教育や保育が命を懸けるに相応しい仕事なのだと実感する。

今にできる限り尽くし、自然を残すのは、子どもたちの未来を遺してあげることと同じこと。

自分のことだけを考えるのではなく、自分の先にある子どもたちのために身近にある不自然の刷り込みを取り除き社業の中でできること、自分にしかできないことをまだまだ深めて実践していきたい。

回帰線

大局より布置を定め、その後の現実にある事業を振り返り、自分を振り返り、生きてきた今までの自分の軌跡をゆったりと味わいながら時折その線上を辿ってみる。

そういうことを繰り返すと、一体自分が本当は何がしたいのか、どのように生きていきたいのかは自然に沁み込んでくる。

そうやってゆったりと本当の自分の声を聴くことで、本当に欲している自らの「あり方」を鑑みる時間は、この先に待つ新たな人生において何よりも有難い一期一会の瞬間になる。

どんなことでも今を全て受け容れ見つめれば、それはその人にとって必ずなくてはならなかった出来事ばかりしか起きないことがわかる。しかし、人はまたそのなぜを考えずに脳だけの判断で物事を否定するとき後悔し、時を止めてしまうこともあるのだと思う。

もう二度と戻れないからこそ、前へ進む。
しかし戻れないことへのあまりの悲しさに負けそうになることもある。

当然、生まれてからずっと時は動き続けているし、日々は周り続けるもの。
同じ事は起きないし、同じようになることは二度とないのだ。

その悲しみの深さが深い分、一期一会の喜びも掛け替えのない美しいものになる。

そういった門出をあるがままに受け容れることだけが人生なのかもしれない。
どうにもならない外界への憧れではなく、内界への正しい自然受容こそが人をもっとも成長させ前に向かわせるのだと私は思う。

きっとこの世は、在ってはいけないことはなく、ただ在るだけという真実が残るということが人生というものなのかもしれない。

もしも、この世の原理原則のルールの外に出て、その一期一会の邂逅を全身全霊で受け止めるとき、その人にとってのその今、この瞬間が永遠となってさらなる未来へ向かうための成長の糧になっていくこともあるのではないかとも私は思う。

超えれない一線をいつも越えたいと思っているのは人間の業なのかもしれない。
しかし、記憶に遺るというのはそういうルールへ抗うことでの進化の側面からの兆なのかもしれない。そこまでいけば自然への畏れも生まれてまた調和していくのだろうから。

話を戻す。

生きていれば、本当に不思議なことに出逢っている。

一般的に人は、日常の中に流されて気づけていないだけでその実、よく省みると出会いの旅路の中、身の周りには常に奇跡としか言いようがない事柄に満ち溢れているのではないかと実感する。

たとえば、愛する人がいることや、守りたい人がいること、そして助けたい人がいる、そういうことだって自分本来の根本的な命と魂を強く突き動かすし、何処からか訪れる無量の感動が込み上がってきたりする。

そしてその刹那にある静寂の中にあり、物事をゆったりと無心に眺めていると偉大な感謝が湧いてくる。

あの時、あの場面で、出会っていなかったらと思うと本当に縁尋奇妙の繋がりの深さは言葉にならない。

そしてこんなことも本当に当り前のように、命の全てを懸けて本心から感動し純粋に生きているのがあの生まれたままの幼い子どもたちだ。

私はあの子どもたちの大自然のような笑顔と、美しく澄んだ笑い声、そして豊かな優しい眼差しと光輝く無二の個性に何度も何度も心を奪われてしまうことがある。

あの何よりも美しい姿をいつまでも守りたい、大人たちはなぜみんなそう思わないのかといつも思う。

本当に自分たち大人は子どもたちに何かをしてあげられるのか、何を推譲していけるのだろうかと思わない日はない。

今は大人の都合で、本当の心を閉ざし、無理に大人の世界にあわせて辛い思いをしている子どもたちもたくさんいる。

本当はおかしいと思っていても、生きていくために自分に正しいんだと言い聞かせ個性を犠牲にして集団にあわせてきたからこそ本当の自分が分からなくなってしまうことだってたくさんある。

しかし、何よりも美しいその人の魂はその人のものだし、それが全て受け容れられ認めらる社会を創ることこそが本当の共生と循環の命のあり方だと私は信じている。

回帰していると常に戻ってくる場所はいつも同じ処なのは本当に有難い。

たくさんの刷り込みの中でも、必ずそれを取り除き、子どもたちがこの先も安心して自分らしく暮らせていけるように大人たちに気づかせ大人たちの正しい力でこのブレは必ず修正すると心に深く誓う。

自分にしかできないことで、必ず未来の子どもたちを信じ切ると念じ、この今も確かめながら育みながら歩んでいきたい。

感謝。