回帰線

大局より布置を定め、その後の現実にある事業を振り返り、自分を振り返り、生きてきた今までの自分の軌跡をゆったりと味わいながら時折その線上を辿ってみる。

そういうことを繰り返すと、一体自分が本当は何がしたいのか、どのように生きていきたいのかは自然に沁み込んでくる。

そうやってゆったりと本当の自分の声を聴くことで、本当に欲している自らの「あり方」を鑑みる時間は、この先に待つ新たな人生において何よりも有難い一期一会の瞬間になる。

どんなことでも今を全て受け容れ見つめれば、それはその人にとって必ずなくてはならなかった出来事ばかりしか起きないことがわかる。しかし、人はまたそのなぜを考えずに脳だけの判断で物事を否定するとき後悔し、時を止めてしまうこともあるのだと思う。

もう二度と戻れないからこそ、前へ進む。
しかし戻れないことへのあまりの悲しさに負けそうになることもある。

当然、生まれてからずっと時は動き続けているし、日々は周り続けるもの。
同じ事は起きないし、同じようになることは二度とないのだ。

その悲しみの深さが深い分、一期一会の喜びも掛け替えのない美しいものになる。

そういった門出をあるがままに受け容れることだけが人生なのかもしれない。
どうにもならない外界への憧れではなく、内界への正しい自然受容こそが人をもっとも成長させ前に向かわせるのだと私は思う。

きっとこの世は、在ってはいけないことはなく、ただ在るだけという真実が残るということが人生というものなのかもしれない。

もしも、この世の原理原則のルールの外に出て、その一期一会の邂逅を全身全霊で受け止めるとき、その人にとってのその今、この瞬間が永遠となってさらなる未来へ向かうための成長の糧になっていくこともあるのではないかとも私は思う。

超えれない一線をいつも越えたいと思っているのは人間の業なのかもしれない。
しかし、記憶に遺るというのはそういうルールへ抗うことでの進化の側面からの兆なのかもしれない。そこまでいけば自然への畏れも生まれてまた調和していくのだろうから。

話を戻す。

生きていれば、本当に不思議なことに出逢っている。

一般的に人は、日常の中に流されて気づけていないだけでその実、よく省みると出会いの旅路の中、身の周りには常に奇跡としか言いようがない事柄に満ち溢れているのではないかと実感する。

たとえば、愛する人がいることや、守りたい人がいること、そして助けたい人がいる、そういうことだって自分本来の根本的な命と魂を強く突き動かすし、何処からか訪れる無量の感動が込み上がってきたりする。

そしてその刹那にある静寂の中にあり、物事をゆったりと無心に眺めていると偉大な感謝が湧いてくる。

あの時、あの場面で、出会っていなかったらと思うと本当に縁尋奇妙の繋がりの深さは言葉にならない。

そしてこんなことも本当に当り前のように、命の全てを懸けて本心から感動し純粋に生きているのがあの生まれたままの幼い子どもたちだ。

私はあの子どもたちの大自然のような笑顔と、美しく澄んだ笑い声、そして豊かな優しい眼差しと光輝く無二の個性に何度も何度も心を奪われてしまうことがある。

あの何よりも美しい姿をいつまでも守りたい、大人たちはなぜみんなそう思わないのかといつも思う。

本当に自分たち大人は子どもたちに何かをしてあげられるのか、何を推譲していけるのだろうかと思わない日はない。

今は大人の都合で、本当の心を閉ざし、無理に大人の世界にあわせて辛い思いをしている子どもたちもたくさんいる。

本当はおかしいと思っていても、生きていくために自分に正しいんだと言い聞かせ個性を犠牲にして集団にあわせてきたからこそ本当の自分が分からなくなってしまうことだってたくさんある。

しかし、何よりも美しいその人の魂はその人のものだし、それが全て受け容れられ認めらる社会を創ることこそが本当の共生と循環の命のあり方だと私は信じている。

回帰していると常に戻ってくる場所はいつも同じ処なのは本当に有難い。

たくさんの刷り込みの中でも、必ずそれを取り除き、子どもたちがこの先も安心して自分らしく暮らせていけるように大人たちに気づかせ大人たちの正しい力でこのブレは必ず修正すると心に深く誓う。

自分にしかできないことで、必ず未来の子どもたちを信じ切ると念じ、この今も確かめながら育みながら歩んでいきたい。

感謝。