敬天愛人

先日、宇宙のことについて学ぶ機会があった。様々な星星のことを、それぞれの科学的プロフィールで書かれている本を読んだ。その星がいつ生まれ、これからどうなるかはまったくわからない。

しかし、その星星は確かに何かから生まれ、そして意味がある。

宇宙から物事を観るということではないけれど、そういう観点で自分の存在を考えると奇跡を身近に感じて、可能性や幸せを感じてしまうことがある。

たとえば、地球46億年の歴史からすれば、人間の物語などはまだほんの生まれたばかりの赤ちゃんのような出来事だなと思うことがある。

保育園、幼稚園で乳児たちが大人たちや周辺のお兄ちゃんお姉ちゃんに見守られているとなんだか宇宙を感じてしまうことがある。

銀河系というか、ここに一つの宇宙があってその宇宙の安定と変化を鑑みるとその進化と未来の可能性からいろいろな意思を感じてしまうのは私だけだろうか。

子どもの現場を観ることが私を外の世界へ向けていく。
如何に保育園幼稚園など、子どもに関わる人たちは内にだけ向くのではなく、常に心や智慧を外へ外へと大きく広げて高めていくことが重要だとよく思う。

大切にするとは、内向きだけではできない、世界へ眼を向けていくから大切にできるのだ。一つの保育室から地球全体の保育室へなるような実践が保育者にはこれからも求められると私は思う。

私も実践を通して、世界を保育していけるような叡智を求道していきたいと念じる。

さて、話は進む。

天というものがある。

いつからか、天を信じて、天に任せるという言葉が自分の志を支えてくれるようになってきた。そして、いつも天を感じて空を見上げると大切な夢が其処に在るようになった。

しかしそのあと、歩いている足元を見ると、いろいろな矛盾や分からないことばかりある日々に戻る。

また天を見上げると、少し先の未来を不安がらず、過ぎ去ったばかりの過去を後悔せず、「今」ということにどれだけ丹誠真心を込めて生き切っているかと自分に省みる機会が与えられる。

人は、誰でも生きていれば様々な不思議なことに出会い、また起きる。

けれど、その意味を感じ尽くすとき、そしてそれを正直に「認めて耐える」時、はじめてゆったりとその物事や出来事との邂逅が生まれる。

人間はどうしても、自分に刷り込みやしがらみがあると、自らのエゴや周囲の喧騒に判断を迷い苦しむことがある。

そうやって迷えば信じることはできないし、惑えば遣り切ることができない。

迷いをなくし、最期までやり続けるためには、天を敬い、人を愛する生き方が志を持つ人、もしくは正しく命をやり遂げたいと願い念じて生きる人には、在るがままの境地になるのではないかと私は思う。

志を持って生きるということ。

そこには、言葉で理屈を言うというよりも、命に正対し、どんなことへも一生懸命、どんなことも命がけで生き切るということを実践する「真の生きざま」があるように思う。

たとえ、どんなに多くの人たちから誤解されようとも、たとえ、どんなにたくさんの人たちから低俗にみられようとも、自らの信じる道と実践を尽くしていくことが天に嘯かない、天に真っ直ぐに正面から伸びていく「真の生きる力」なのだろうと今はそう思う。

私は、これからも自分を信じて、この「今」一瞬に全ての命の光を込め、次世代の子どもたちの未来に少しでも多くの命の光を推譲していけるように、天に正直に今を生き切っていきたいと念じる。

子どものモデルになるような生き方が本当にできるのだろうか。
どんな壮大な矛盾ですらも自らに問い続けて、決して歩みを止めない。

この念が、真心で愛する人たちの人生を必ず幸福にできると揺るぎない理念で信じられるまで自分よりも「愛」を優先していきたいと願う。

感謝。