日常、人と交わる中で人は様々なものを体験し学んでいく。
しかし、その学びの量はその人の感性によって大きく左右する。
その人の感性が豊かであれば体験の質も潤い、そして鋭敏であればあるほどその体験は偉大なものになる。
感性があるというのは、感じる力があるということ。
感じる力とは、自分を超えたものを常に自分の内面に内包していていつもそこで物事を感じ得ているという状態をいうのだと私は思う。
人は、その自分の体験に対する一期一会の覚悟により感じる質量が異なるのだから如何に自らが日々反省を繰り返し、その感性を磨くのかというのは学びの本質であるようにも私は思う。
感動して生きるというのは、そういう感性を育て続けているという人がはじめて持ち得るものだ。変化というものを気づく感力はこれからの波乱の世にあっては身を助けることになる大事な能力のひとつになる。
そして出来事という体験は、予想していること以外に起こる偶然という名の必然のこと。それは思えば起きるし、それを思わなくても起きるものだ。人が一般的に感じる出来事は事故のように、ふとした不注意で新たな出来事に出会うものが多い。
そういう時は、何かあるのだろうと意味を感じ尽くしている人が良質な体験に変換できる人だということになる。
またマイナス思考に、嫌だなと受け身になるとすべての出来事は体験よりも避けたい対象になり、学びも出会いも引き寄せない無機質なものになる。
人は、常に刹那刹那の瞬間に自らの生き方を決めていくもの。
如何に自らを醸成し、己を修めているかというのは日常に現われるのだから誰にも平等で機会があると思うと本当に人生は面白いことだと思う。
私が事故に出会うとき、特に大事にしていることがある。
私は自らの何かの不注意とは、私は思いやりの欠如のことだと定義している。
人は思いやりが欠如してくると、自分の殻に閉じこもり、周りを見なくなる。
周りが観えなくなると、すぐに注意力が散漫になり不注意が起きる。
「注意」というのものは、読んで字の如く「意を注ぐ」と書くのだから常に自らの行動している刹那一瞬でも、いつも周りのことを思いやって自分をきちんと使っているかどうかでその注意の本質が観えるもの。
よく巷では、周りばかり気にしている人だと言われそうなものだけれどそれと私の言う周囲への思いやりは意味が異なる。
私の言う周囲への気配りとは、自分がいつも周囲によって生かされていると感謝していながら自分がどれだけみんなの役に立てるかを慮りながら慎み丁寧に生きていくという共生と貢献の心がけのこと。
そもそも周りのことばかり気にしている人というのは、自分のことがもっとも大事であり、その存在が崩されないことばかりを気にしている状態を言うのだと思う。自分中心になりすぎ、殻に閉じこもると被害妄想が生まれ、物事を正しく受け取れなくなり、損をし、素直になれなくなってきたりする。
如何に、自分が在るのが皆の御蔭なのかと感じる日々の内省がそういう周囲を思いやる心を磨くかと思えば、仁の実践の重要さが本当に骨身に染みる。
論語、礼記・表記にある。
「仁は右なり、道は左なり。仁は人なり、道は義なり。」と。
仁と道とは、常に一円の中にあり、それは分けられないということ。
仁を実践すればおのずと道になり、道を実践すればおのずと仁になる。
相助け、相補い、それれにより大いなる調和を求めていくもの。
まだ実践が足りずにその端々しかまだ体験できないけれど、人事やコンサルティングその他を通してそれは感じることができるようになってきている。
また人情と義理というものも同じ定義。
人情を大事にしていけば、おのずと義理というものに出会い、信用や信頼とはということを見つめることになる。さらに、義理を大事にしていけば、おのずと感謝や思いやるということを見つめることになる。
万物一円に融和させ物事を調和するには、まだまだ実践を弛まず行うことが居る。
私自身、子どもの未来を思うとき、何をもっと調和とするのかをしっかりと鑑み、何よりも自分の背中を通して感化していけるように実践学を深めていきたいと思う。
人々が共生することを尊び、自分を活かす道により、世界を平和に相助け合い、相補い合い生きていけるような社会創りを見守っていきたい。
一期一会。