人が人と生きていくには、愛と情と正対し、常に自らの判断を育み練磨し陶冶していくことが求められる。
愛と情はとても難しい決して終わらない永遠のテーマの一つ。
人生での愛情は、ある意味で人と人が出会い人を活かし活かされていく道なのではないかと私は思う。
たとえば、情深き人はその情深きゆえに自他ともに色々な悔恨の縁を引きずり長く孤独に苦しむことがある。
自分の感情が相手のそれを勝り、その情が相手への執着になりその瞬間の相手の自立心を取り除くこともある。
情け深い人というのは、人としてとても魅力があり、そういう人は周囲を引き込み、包み込んでいくものだ。
そして愛がある。
愛高い人がいる。
たとえば、愛高き人はその愛高きゆえに自他ともに厳しく孤高を感じることがある。
自分の愛が相手のそれを勝り、その愛が相手への無二の自立を促し、その瞬間、その人にある依存心を取り除くこともある。
愛が崇高な人というのは、人としては真に尊敬できる人であり、そういう人は周囲を導きその人々の人生を生き切るための大いなる方向性を与える。
愛と情は、常に陰陽と同じように一対、一円に存在している。
そのどちらも、その時々の状況により万瞬変化していて、その一期一会のタイミングでその体現するものも万理変化している。
だからこそまず決断する上での基礎として、常に「今」というもの、そして「自分」というものへの透明な思想が問われるようにも私は思う。
まずその時々の愛も情も、「今」というものが本当はどうなのかということから考えてみる。
「今」がその人にとってどのように大切な機会なのか、ご縁なのかを思うとき、その一瞬の邂逅を見逃さずにどこまでその今に平常心で真心を尽くしているのかがその如何を決めることもある。
そして、愛高きは、まず判断に自分を容れずに相手の目指す将来を思い、天意に照らし本人の幸福のために本質を見極め真心を尽くしていくこと。それに、もともと自分を容れていないのだからその愛が帰ってくるものだと思うことはないし、またそれが本物の無償であるからこそ愛というものになるのだと私は思う。
どんなものも自分の感情が様々な観念を創り出し、本質を曇らせていくものだからこそ自分の感情があるがまま無に帰す時にはじめて物事の真理は現れるのだとも思う。
それに人が人と生きるというのは、愛も情も入り混じるということ。
そしてそのどちらも体得して、それを超えた新しい第三の道を知るということがこの道の学びの悟門になっているのだから避けることはできないし、それは此処で生きるための力に直結しているのだから日々流されるわけにはいかないと私は思う。
その第三のものとは、師匠が体現している道、「至誠と真心」だということを知るに致るにはまだまだあまりにも自分の実践が足りていない。
だからこそ、一瞬一瞬に、今があることを有難いとし、その素晴らしい出会い、かけがえのない出会い、奇跡のような出会い、まごころの出会い、その出会い出会いに命が籠る意味を感じ切り、大切な一期一会の邂逅に生きるのもその愛高きを崇志で目指し、情深きを味尽くす生き方を選んだものの宿命になる。
私は、これからも子どもたちを見守る眼差しを日々の出会いの中で透徹できるように暖かく育み優しく強く醸成しながら、愛情を超える真の親子道、そんなモノサシで世の中にその価値により刷新していきたい。
私の身にいま起きているすべて物事や出来事の意味へ心から深く感謝します。
なによりも今は器を大きく広げ、その器に注ぎ込まれた愛になりそして情になり、それを超えた「かんながら」になる真の道に繋がっていくことを切に信じて自らの歩みを強めたいと思います。
ありがとうございます。