人間を含むすべての生物は、先天的に生きる力があるものとそうではないものがある。
たとえば、生まれたてのものをよく観察すると何となくそのものの魅力に差がでているのがよく分かる。愛嬌があるや可愛らしいなどもそうだし、明らかに観る人たちが無意識に選んでいる。何が異なるのかは言葉では説明ができないけれど、それは動物的直観なのかもしれないし、もしくは何かしらの遺伝情報から察知しているのかもしれない。
ただし私が今生きていて思うのは人間に好かれるとは、その生まれたてのものが周囲にどれだけ素直に心を開いて信じられる素質があるかないかにもよる気がする。特例もあるけれど、大多数の人は周りを有難いものだと理解し必要だと信じている人を好み、安心する。世界ではそれを素直である、正直であるという美徳にもなっている。
先日、ある子犬を観る機会があった。
まだ生まれて1ヶ月ほどになり目もようやく開いたくらいだったけれど、確実に個性が見て取れる。ある犬は、人好きで愛嬌があり、しっぽを振って人に安心して近寄ってくる。そしてある犬は、おとなしく怖がって上目づかいで震えている。まだ生まれてすぐなのに、こういうものがあるというのはひょっとすると生まれる前の体験が命に宿ってしまったのかもしれないなと思う。
そういえば、以前ツバメが自宅の軒下に巣をつくっていたときもそうだったけれど、やはり生きる力のないツバメの子どもは巣から落とされていた。それは生きる力がなく餌を親からもらえないツバメということになる。愛嬌よく素直に信じて大きな声を出し大きな口をあけて親がそこに餌を入れようと思わないと餌はもらえない。
人はそれを可哀そうだと同情するけれど、そのために他の子どもが生きる力がなくなるのだから優先して大事する方が生きるもの、自立するもの、となるのは当然のことだとも思う。自立とは、どちらも真剣に受け身にならずに生きていこうと本気で関りあうからこそできる行為だと思えるからだ。
もうすでに私たちが今いる世界が自然からズレていることも分からなくなってしまっているのが私たち人間の姿だとも思える。不自然が自然ということになっているから、不自然を補うようなことばかりが満ちて、いよいよ人を惑い迷わせる時代になっている。いつの時代も刷り込みというのは本当に怖いことだと思う。
話を戻す。
そうやって私たちが住む自然界はとても厳しく、まるで自分がまずこの世界を真っ直ぐに受け容れないのならば置いていくよとつっぱねている感じもする。そして自立できないものは、この世界では共生できないよと言っているようにも感じる。
しかし逆を言えば、自分がこの世界のあるがままを受け容れれば、無償の慈愛に見守られ、安心して命を全うし、次世代へのバトンを譲っていけるよと包んでくれている感じもする。自立していくというのは、自分が世界と共生し貢献できその存在価値が認められ幸せな存在になれるよと言っているようにも感じる。
生きる力とは、こういって先天的に持っているものに守られてきたものをよく「運が良い」と言い、先天的に持ってなかったものを「運が悪い」と定義されるようなものだとも思う。
しかし、ここからが人生の面白いところになる。
もしも丸ごと信じていいと思えるような疑いの余地のない素晴らしい邂逅と出会い、その出会いが人生を劇的に変化させることがあるからだ。
生きるというのは厳しいけれど優しさに満ちているのは、信じようとさえはじめれば後天的にそれを修正して調和し自然になっていくことができると思えるからだ。
もしも周囲が信じられないような先天的な思いが満ちていても、もし人がそれでも生きようと自立しようと志し、自らの手と足でちゃんと歩みはじめれば様々な艱難辛苦に向き合うことにもなる。
その中で人の温かみ、自然の優しさ、生き物の思いやりを感じ、感謝することができれば信じるということの尊さを知り、生きるという意味を覚えることになる。
大いなる流れの中で、人は生かされ活かされていくようにできている。
そう考えると、人はいつでも変わることができるということ。
自立の尊さとは、そういう生きるということに真剣になっているということ。
そうやって自分の人生、周りによって生かされている以上、真っ直ぐに周囲を信じて天に任せて自立していくことが何よりも感謝とともに在る「生きる力」の天真発奮となる。
まずは自分自身、仕事を通じて日常を通じて、より周囲に心を開いて信じる力を持って自立できる人たちを見守っていく実践を深めていきたい。
様々に埋められないぽっかりと開いた穴がある人たちもいつの日かそれを皆で補い助け合える社会になることを信じて、真心を持って子どもたちの環境を援助する仕事を一念集中して貫徹していければと願う。
ブレそうになる前に、まずは生きる力を持って生きようとしないものに見守る行動実践を通じて自立を促す環境創りに真摯に努めていきたい。