志の輪

昨日、保育環境研究所ギビングツリーに入会している経営者、園長、理事長が集まるGTサミットが新宿で開催された。

全国各地から子ども主体の見守る保育実践し、それぞれに地域に保育の道を広め、深めている方々の一年に一度の同窓会のようなものにも感じることができます。

それぞれ離れていても、実践をしていれば同じような悩みや同じような苦労がある。その中でも、前向きに明るく清らかに取り組んでいる姿勢は話を伺っていると良くわかります。

午前中は、環境についての適切な判断をどうするかについて諸外国と日本との違いや、研究によって洞察されたものを見比べながらそれぞれの環境を比較し学ぶことができた。また、午後からはGTの藤森平司代表からの講演がありどのような環境が子どもたちの発達を助長するのかについて科学的に写真や会員の皆様の意見を集めながら楽しく学びあうことができました。

そして、グループ討議にてそれぞれの園での具体的な保育の取り組みや悩みについてオープンに出し合い語り合いました。最後には、情報交換会を通してより深い話し合いや学びあいを開放的な空間で語り合いました。

以前、ブログで書いたかも知れませんが論語にある「遠方より朋来る・・」がありますが志を持っている人たちの語り合いには、豊かな遊びがある。せつな的なものではなく、どこか豊かにお互いを感じつくして元気を与えあうような素敵な邂逅があります。

こういう物事の成否などを超え、豊かな気持ちで語り合える風土環境がそのまま子どもたちの保育になってほしいなと遠巻きに見守りながら実感することができました。

志をたくさんもった、GTの園長が世の中をより豊かにしてそれぞれの個を受容し育み、一人でも多くの自立した大人への道をひらき、世界を見守るような環境ができあがっていけばと願います。

最後に、志を持つということでとても好きな松下幸之助の詞があります。

【志を立てよう】

志を立てよう。

本気になって、真剣に志を立てよう。
生命をかけるほどの思いで志を立てよう。

志を立てれば、事はもはや半ばは達せられたといってよい。
志を立てるのに、老いも若きもない。

そして志あるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのである。

今までのさまざまの道程において、いくたびか志を立て、いくたびか道を見失い、また挫折したこともあったであろう。

しかし、道がない、道がひらけぬというのは、その志になお弱きものがあったからではなかろうか。つまり、何か事をなしたいというその思いに、いま一つ欠けるところがあったからではなかろうか。

過ぎ去ったことは、もはや言うまい。
かえらぬ月日にグチはもらすまい。

そして、今まで他に頼り、他をアテにする心があったとしたならば、いさぎよくこれを払拭しよう。

大事なことは、みずからの志である。
みずからの態度である。

千万人といえども我ゆかんの烈々たる勇気である。

実行力である。

志を立てよう。

自分のためにも、他人のためにも、そしておたがいの国、日本のためにも。

 松下幸之助

こういう気持ちになれる幸せも志があればいつでも感じることはできる。
自分を信じて、歩んでいくとたくさんの素敵な仲間たちに出会えるものだ。

これからもこの会を通して、もっと本質的にみらいの子どもたちへ譲れるもののために自分をまたそれぞれの個性を使っていければと願います。

至善に止まる

モノゴトにはよく善悪がつきまとう。

そしてその善悪は、何か自分に出来事が起きると突然入れ替わりもする。

その善悪を思うとき、そこに確かに自分という己があり、その己を中心に判断が行き来をして迷走してしまうことがある。

私自身、そういう己同士をぶつけあっている修羅損得の中での議論に巻き込まれるとどうしても心身に惑うこともある。そして惑うと思いやりが欠け、自分の感情が膨らみ、それが体調が悪いときなどと重なると、どうしても穏やかに静かでいられなくなってしまうこともある。まだまだ弱いということ。

先日も、信じることを取り違え過信とし、その人の特性を見誤り、また利害のモノサシの中で議論することを求められ、思いやりに欠ける言動をしてしまったのではないかととても反省している。人には、人情というものもある。どうしてもどうにもならないことを議論する際は、足掻きモガクよりも、まずは相手を丸ごと受け容れ信じ、双方の人情によって解決する方法もある。そこに道義が立っていれば必ず三方が良い方へ向うものだと私は思う。

しかし、そういう難しい利害関係がある状況を超えてもいつも静かに真心を持った正しい判断ができるにはまだまだ己と向き合い、正し、日々の理念の実践を深めていかなければいけないと新たに改め反省する。

話を元の善悪に戻す。

ビジネスの世界でもそうだけれど、何かとその時々の都合により物事の判断基準というのは内外の関係性によって変わっていくことがある。今まで、良かったものが良くないとなることはよくある話だし、悪いと思っていたものが流れがかわり良くなることも多々ある。そのほとんどは、自分の身に害があると思えることや、自分たちの組織には良くないと思うものは、すべて悪いのだとどちらかに偏ることで変化していく。

たとえば私も昔、いくつかの企業や組織や団体から子どものためにと頼まれて仕事をしたことがある。その際は、損得を超えて手伝うように心がけなるべく良くなるようにと努力していく。もちろん、論語と算盤で厳しく価値を見定め、価格を決めて取り組む。しかし、そのうちに、当初のころとはお互いの体制が変わり、状況が変わってくる。そして、どちらか一方が何かと便利な方、楽な方を優先することになってくることがある。そうなると、利害の土俵に乗ってしまいトラブルが起きる。そしてそれは近々の子ども利害のためというのと、遠々の子どものための利害ということでもその意味も異なっている。

本当に、やらないといけないということは「それぞれが他人任せではなく利害を超えた仁義の世界で自立して一緒に乗り越えていく」というところに、損得を超えた互いが契った心の約束である「義理」がある。しかし、その義理を通さずに、都合や勝手なところがモノサシの基準になると必ずそこに善悪利害が生じて悲しき結末が訪れる。どうも今の社会は、こういう義理や仁義などを語らずテクニックや浅知恵ばかりが優先されている世の中になっている気がする。

しかしビジネスでも何でも何かを人と一緒に取り組むには、必ず「義理」というものが必要になる。

それはつまり善悪を超えた、もうひとつ別のところでの「至善」という判断基準が必要だと言ってもいいだろう。

論語の大學にこうある。

「大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り。」

この至善というのもの。

これこそ、人の人の間のルールである原理原則、「道理道義」というもの。

たとえば、子どもたちのために一緒に協力して本懐を遂げようとしたときに、その共有した理念よりの対話を深め、お互いに真心を持って判断をあわせて行動をともに自立して関わること。

こういうことも、義理があるからこそできるのだとも思う。

私は、現在、様々な経営者と一緒に同じ道、同じ理念で歩みを強めていることが多い。そうした中で、道理道義の基準により出でたその初志理念を優先しないとブレたということになる。私たちカグヤの仕事は理念に直結し、子どもの感化に影響する仕事、何よりも子ども目線の子ども第一主義による至善に止まっているままにするというのは、よほど日頃の仕事や使命に於いてしっかりと心にそれを留めておく必要があるのだと私は思う。

たとえば、これは私たちの関わる保育の道もそうだろうけれど、良い悪いではなく、道を歩むものとしてまずは人としての道理道義を重んじて、真心を育ててていけば必ず子どもたちを囲む周りの大人もその思いやりで感化できると信じる道なのだとも思う。

これからのリーダーや、子どもたちを含めた関係する人々を皆保育するということに、その道の思いやりを感じることができるのは私だけだろうか。

明日は、GTサミットで藤森平司先生の講演を拝聴することができる。
原点初心を学び、まだまだわかった気にならずに、日々を内省と不動の実践により深めていきたいと念じる。

感謝。

本願と調和

先日、取引先のある保育園と弊社のクルーで合同研修を行った。

一円対話マネジメントを中心に話を進めていきながら、それぞれが働く理由やその仕事への初心、周囲への尊敬など一つ一つ発表しながら受容の輪を広げ深めた。

今というものの繋がりの意味を感じ尽くしていると素晴らしい和やかな環境が出来上がってくる。

人は本音、本心、本気、本当、本腰、本性、本格、が顕在化すれば驚くほどの進化成長をすることができる。

その「本」というもののスイッチのようなものを押せるか押せないかの違いでその差があるだけで、願うことそのものが人生そのものになったとき、迷いなく、惑いなく、人は安心して変わることができるのだとも感じる。

意志の強さの本質とは、きっとそういう本願力の正しい調和によってできているのではないかとも私は思う。

人間は自我が修まらずにその欲求が強ければ強いほど、そこから様々なしがらみや執着を呼び込み、そこに固執してそればかりの世界になり、元来からの本物の応えや道に気づかずに誤解して行動してしまうことがある。

たとえば、行動でもあまり初心や本質から考えずに目的や手段に固執しだすと次第にその両方から遠ざかってくるものだ。旅でも、目的地にどれだけ早く正確に行くかということと、交通機関はどうするか、また資金などはなどとばかりどうしようどうしようと考えていると、回り道や横道にそれてばかりで中途半端になるばかりであまり人生での成果がないということになることもある。

しかし、ちゃんと本当に願うものがなぜ自らの人生にそんなに大切なのかなどの初心や本質を最初に定めて本気のスイッチを入れれば、流されていて流されず、動いてて動かず、静かでいて静かでないような、境地になる。そしてその目的でも手段でもない、「本懐や本願」を一本立ててしっかりと心に携えて歩むとき、正しい道を素直に豊かに歩み続けられるというものを引き寄せるのだとも思う。

大局観や世界観、時代観、死生観などどれも明確になっていて、それが信念になれば大いなる有形無形の流れの中でもはっきりと今を大事にできるということだ。

そしてその瞬間瞬間を内省により振り返るとき、さまざまな繋がりや一期一会の邂逅や、大いなる導きなどを実感でき、自分か何ものかに命を使われ活かされていることに感謝することができ、その今に幸福を感じるようになるのだとも私は思う。

いつからか、人は自分で深く考え続け考えることをやめないということをやめ、周囲の世界に依存することで刷り込みやしがらみばかりを気にして、自分を大切にせず、自分が本当にやりたいことは何か、自分にしかできないことは何かという、生きることの意味をあまりやらないで生きる屍のように環境に浸るようになってきた。

こういうものを平和ボケともいうのだろうか・・・とても悲しいことだと思う。世界では、そういう感覚をなくさないようにあまり環境を清潔にしないのに私たちの国はどうも過剰に清潔にしすぎてそういう人間らしさまで取り除いてしまったことがよりこういうボケてしまう人たちを創りだしているのだとも感じると、本当に良い環境というものは自然なのだと改めて感じる。

子どもたちの未来を思うとき、環境に流されずに私たち大人は目を覚まし、心の眼をはっきりと開いてもっとそれぞれが素直に自然に根本から考える機会や場をたくさん用意していくことが大切だと今回の研修からも学ぶことができた。

人は場を与え、それぞれを認め合い、本質を語り合うとき、根本から考え抜くようになり、それによりこの世界の原理原則に出逢い、その中で自分の人生の中に在る観念で共通理解を持てるようになる。

阿吽の呼吸などもそういう分かった気にならずに考えるという習慣からがその形成には重要になる。

組織や人に常に理念が必要なのも、それぞれで動機になった初心や根本から意味を感じていこうという取り組みでもあるのだ。

人は本当のことに願えば変われる。
本願が自然に調和すれば変わることができる。

もっと、人が生き生きとし、本気になれるような環境を用意し、子どもたちの本性が引き出せるような本願を実現できるような活き活きとした社会を広げていきたいと祈念する。

ルーツ

先週、九州西国三十三ヵ所巡礼をして観音菩薩の恩徳に触れてきた。
全行程、1700キロの旅路を無事に満願することができた。

元々、この巡礼を決めたのは私の名前のルーツに関係する。
私は、福岡県の英彦山にある霊泉寺のご住職様より名前を戴いた生来のご縁がある。

先日、33年ぶりにお寺を参拝しに伺うともうご住職様はお亡くなりになっていたけれど、そこには千手観音菩薩をご本尊としてあり、今年は何かと観音経に纏わる機縁も多くとても感慨深く思いに耽っていた。

そしてちょうど本堂のその横に、九州西国三十三か所巡礼の案内がありそれに触れていると巡礼をしながら足跡を辿ってみたいという気持ちになり決意して行動に移したという流れになった。

予てから、機会があれば自分の繋がりを様々な角度から知りたいと感じていたので日ごろの仕事にも本質的に役に立つことを覚えて巡礼をすることになった。

まず、一日は朝早くから地図を観て、自分が感じるままに一つひとつの繋がりにあわせて夜は本堂が閉まるまでじっくりと巡礼していく。その中で、様々なご縁や邂逅を得て、その意味に浸りながら豊かでとても幸せな道を歩んでいくことができた。

自分がなぜ今、此処にいるのか、なぜ自分が今このように感じるのか、その一つ一つを噛み締めながらひとつに心を定めていく。

本当に豊かな時間というのは、自分との真実の正対にあるのだと思うと、実践をし内省を深め、信じて歩むということは人生の生き甲斐や遣り甲斐などに繋がっていて、そこから感謝というのものに引きあがってくることを鑑みるとこうやって離れる時間をいただけたことも全て偉大なるものの御蔭だと思うと本当に有難い機会になった。

気付いたことなどは山ほどあったけれど、その一つ一つはやはり日々の実践がどれだけ主体的に本気でやり切るかの質量による。

いくら学ぼうとしても実践以上に深い気づきもなく、日々の仕事に本気を維持し打ち込み、自らが比較できない本物の命を懸ける情熱がなければ安心知命するような出会いも具現しない。

また仕事に戻るけれど、そういう時々の本質的な出会いが自分を幸せにしてくれるし、本当に豊かになると思うと、楽という真楽とは苦中を超えた、第三の答えにあるということがよく観える。

私は種田山頭火ではないけれど、自分の中でも詩がたくさん込み上げてきた。
今回の巡礼での詩をひとつ遺しておきたい。

「楽しむことだ、人助けは使命でもあったが楽しみでもあった。
 神様との繋がりがやみつきになるほど好きでたまらなかった。
 そんな奇跡と出会いの旅が悦びとなった。
 好奇心。
 奇跡を好きな心。
 とにかく是非は問わず、悦び深く清らかに楽しめ。」
 
 2009年8月15日

これはこれで自分の中から出た言葉をメモしたもの。
そういう巡礼には自らの内面との対話からも気づくことが多い。
子どもたちにも大人になってもそういう幸せで豊かな世界に開かれた自分との邂逅の時間を味わってほしいと切に願う。

最後に、観自在菩薩の恩徳に、6つの実践がある。

忍辱 布施 持戒 禅定 智慧 精進

苦しみに耐え忍び、欲にかられずに自分のもっとも大切なものを与え続け、感謝の気持ちを忘れず、心を常に穏やかに静かに保ち、人としての叡智を磨き修め、一瞬一瞬の日々を決して粗末にせずに丁寧に真心で生きていくことと私は解釈する。

これが人と人がいる世界で、自らを正しく持つための徳の実践となっている。

また、基本として巡礼の心構えに下記がある。

「迷故三界域. 悟故十方空. 本来無東西. 何処有南北」

これもこういうことだと思う。

人間は迷いという執着があるからこそ大きな壁が立ちはだかる、しかしそれを覚えて悟れば元々は何もない無一物。本来、東西というものもなく、そして南北というもののない、つまりは、無尽蔵の自分があるだけだということと私は解釈している。

この自分というもの。

これこそが、すべてだとも感じる旅路になった、そしてまだまだ永遠に終わらない旅とも知る。

どれだけ深く自己探求していくのか、それは宗教や科学などとも呼ぶのかもしれないけれどそのものをどれだけ広大無辺に観じ切れるかで天の叡智に触れるのだとも私は思う。

しかし、それも別に悟ることが目的でもなく、迷うこともその手段ではない。

もっと豊かで幸せを感じる真楽の最中にこそ光があるようにも思う。

私が目指す「かんながらの道」には、万物を創造し受容できる美しさがある。
今回の一期一会も、子どもたちの遠い未来のために活かしていきたい。

これからの目先の損得に迷わず、遠大で長期的な視野で子どもたちの未来に向き合い、徳を尊び、菩薩道を歩んできたいと願う。

このような機会を与えてくださった皆様、たくさんのご縁に本当に心から感謝しています。

有難うございました。

恥の一字

昔の日本の心に、武士道がある。

江戸時代、人々は武士を尊敬し丁寧に関わってきた。

江戸時代は、徳を持って人々を治めるという朱子学の採用で、巷には「四書集註」という儒教の本が各家庭に配られ備えられていた時代だった。

この時代を引っ張って実践で導いた人たちがその「武士」という存在だった。

その武士が刀を戦から和のために主体的に修め、巷の人道を歩む模範者・教育者として、その「恥」というものの背中や姿勢から、道の歩み方や在り方を示してきた。それらの武士の倫理観と儒教を融合させることで武士道が形成されたという。

私が尊敬する吉田松陰「講孟箚記」にはこうある、

『武道を興さんとならば、先づ、恥の一字より興すべし』

昔、その武道の「恥」の精神は、日常の中で国民の間で深く共有されていた。

たとえば、生活規範として武士は恥辱を受けた時には相手を殺すか、自分が死ぬかのいずれかの道を取ったほどの覚悟によって日々を戒めていた。周囲の人たちの前で「恥」の思いをすることは最大の悪徳とされていた。

この武士道の精神、「恥」というもの。

何を持って武士は恥としていたのか、それはその人が生きていく上で絶対に曲げることができない、人としての思いやりからの軸や芯のようなものではないかと私は思う。

特に今の時代の世間では、誰かが見ているか見ていないかで自分の素行を変える人がとても多くなったと思う。自分を修めることを怠る人が多いということ。

これは自分を修めていくというのは、誰が見ていようが見ていまいが天が自分を見ている、そして自分自身が自分を見ているとし、そこにとって恥ずかしくない生き方や在り方を実践することをいうと思う。

そしてその基盤になっているのは、論語にある、仁義礼智信をはじめ、忠孝悌などの各種の人としての徳目に於いて、それを素直な純粋な心で修めていくという道の在るべきものからでもある。

通常、恥ずかしい思いをするというのは、誰かに指摘されることを言うのではなく、軸や芯からブレるとそういう思いをするものだと私は思う。

何がブレるのかというとそういう人として生きていく上での原理原則から外れてしまうことをブレると私は思っている。たとえば嘘や欺瞞、誹謗中傷、裏切りや詐欺、泥棒等々、犯罪のすべてはそういう正しい徳目から外れる行為のことだと思う。

何かに囚われ、執着が過ぎると、それを人は無理に周囲に隠すようになる。
そしてそれは必ず自ら暴かれ、そのツケの清算でほとんどの人生を後悔で過ごす人もいる。

信念と哲学と科学を融和して醸成していくのも、そういうことに惑わずに決断し歩めるようにするために必要な修練なのだとも私は思う。

まずは、そういう日々の生活を通して教養と学問、そして実直な実践と、素直な心を維持して日々感謝と報恩で勤めていくことがなければその徳目も備わることもない。

ただ周囲の喧騒に流されるように受身に生き、いちいち身の回りの近々の喜怒哀楽に浸っているとどうしても自立する力が落ちていくのだと思う。

大切なのは、二宮尊徳にある、勤倹譲を元に、至誠を貫くような主体的で生き、遠くを計り、近くに囚われずに努力精進していくことで自立をしていくことがまず先にあるのだと思う。

まず人物が出来上がってくるには、自分が恥ずかしくない生き方をするということを学ぶこと。
それは異なる言い方をすれば、自分ががっかりしない生き方をするということ。
それにより、周囲や他人もがっかりさせないということ。

周囲が、天に対して伸びているものに対して行う期待に応え、それを裏切らないこと。

それがまず基礎となり、その土台の上に様々な応用と繋がりが生まれるからだ。

私たちカグヤは、幼児期の子どもたちの目指す自立した立派な大人モデルを求道し、そしてたくさんの関係者を導くコンサルタントを目指す仕事が我々のすべて。カグヤにとっての「コンサルタント」とは、武士とまったく差のない同格だとそのカグヤ道を定義している。

その名に恥じないために、人間学とともに実践を深めることがその道の定めとして一心を籠め自らを省みて徳を高め深める努力を行っていくことが我々のミッション。

常に、天に恥ずかしくないような真直な実践と真心の自立を持って戒めを隣に歩みを強めていきたいと思う。

誰がどうしようと、誰がどういおうと、天に恥じないように生きて生きたい。