ルーツ

先週、九州西国三十三ヵ所巡礼をして観音菩薩の恩徳に触れてきた。
全行程、1700キロの旅路を無事に満願することができた。

元々、この巡礼を決めたのは私の名前のルーツに関係する。
私は、福岡県の英彦山にある霊泉寺のご住職様より名前を戴いた生来のご縁がある。

先日、33年ぶりにお寺を参拝しに伺うともうご住職様はお亡くなりになっていたけれど、そこには千手観音菩薩をご本尊としてあり、今年は何かと観音経に纏わる機縁も多くとても感慨深く思いに耽っていた。

そしてちょうど本堂のその横に、九州西国三十三か所巡礼の案内がありそれに触れていると巡礼をしながら足跡を辿ってみたいという気持ちになり決意して行動に移したという流れになった。

予てから、機会があれば自分の繋がりを様々な角度から知りたいと感じていたので日ごろの仕事にも本質的に役に立つことを覚えて巡礼をすることになった。

まず、一日は朝早くから地図を観て、自分が感じるままに一つひとつの繋がりにあわせて夜は本堂が閉まるまでじっくりと巡礼していく。その中で、様々なご縁や邂逅を得て、その意味に浸りながら豊かでとても幸せな道を歩んでいくことができた。

自分がなぜ今、此処にいるのか、なぜ自分が今このように感じるのか、その一つ一つを噛み締めながらひとつに心を定めていく。

本当に豊かな時間というのは、自分との真実の正対にあるのだと思うと、実践をし内省を深め、信じて歩むということは人生の生き甲斐や遣り甲斐などに繋がっていて、そこから感謝というのものに引きあがってくることを鑑みるとこうやって離れる時間をいただけたことも全て偉大なるものの御蔭だと思うと本当に有難い機会になった。

気付いたことなどは山ほどあったけれど、その一つ一つはやはり日々の実践がどれだけ主体的に本気でやり切るかの質量による。

いくら学ぼうとしても実践以上に深い気づきもなく、日々の仕事に本気を維持し打ち込み、自らが比較できない本物の命を懸ける情熱がなければ安心知命するような出会いも具現しない。

また仕事に戻るけれど、そういう時々の本質的な出会いが自分を幸せにしてくれるし、本当に豊かになると思うと、楽という真楽とは苦中を超えた、第三の答えにあるということがよく観える。

私は種田山頭火ではないけれど、自分の中でも詩がたくさん込み上げてきた。
今回の巡礼での詩をひとつ遺しておきたい。

「楽しむことだ、人助けは使命でもあったが楽しみでもあった。
 神様との繋がりがやみつきになるほど好きでたまらなかった。
 そんな奇跡と出会いの旅が悦びとなった。
 好奇心。
 奇跡を好きな心。
 とにかく是非は問わず、悦び深く清らかに楽しめ。」
 
 2009年8月15日

これはこれで自分の中から出た言葉をメモしたもの。
そういう巡礼には自らの内面との対話からも気づくことが多い。
子どもたちにも大人になってもそういう幸せで豊かな世界に開かれた自分との邂逅の時間を味わってほしいと切に願う。

最後に、観自在菩薩の恩徳に、6つの実践がある。

忍辱 布施 持戒 禅定 智慧 精進

苦しみに耐え忍び、欲にかられずに自分のもっとも大切なものを与え続け、感謝の気持ちを忘れず、心を常に穏やかに静かに保ち、人としての叡智を磨き修め、一瞬一瞬の日々を決して粗末にせずに丁寧に真心で生きていくことと私は解釈する。

これが人と人がいる世界で、自らを正しく持つための徳の実践となっている。

また、基本として巡礼の心構えに下記がある。

「迷故三界域. 悟故十方空. 本来無東西. 何処有南北」

これもこういうことだと思う。

人間は迷いという執着があるからこそ大きな壁が立ちはだかる、しかしそれを覚えて悟れば元々は何もない無一物。本来、東西というものもなく、そして南北というもののない、つまりは、無尽蔵の自分があるだけだということと私は解釈している。

この自分というもの。

これこそが、すべてだとも感じる旅路になった、そしてまだまだ永遠に終わらない旅とも知る。

どれだけ深く自己探求していくのか、それは宗教や科学などとも呼ぶのかもしれないけれどそのものをどれだけ広大無辺に観じ切れるかで天の叡智に触れるのだとも私は思う。

しかし、それも別に悟ることが目的でもなく、迷うこともその手段ではない。

もっと豊かで幸せを感じる真楽の最中にこそ光があるようにも思う。

私が目指す「かんながらの道」には、万物を創造し受容できる美しさがある。
今回の一期一会も、子どもたちの遠い未来のために活かしていきたい。

これからの目先の損得に迷わず、遠大で長期的な視野で子どもたちの未来に向き合い、徳を尊び、菩薩道を歩んできたいと願う。

このような機会を与えてくださった皆様、たくさんのご縁に本当に心から感謝しています。

有難うございました。