本願と調和

先日、取引先のある保育園と弊社のクルーで合同研修を行った。

一円対話マネジメントを中心に話を進めていきながら、それぞれが働く理由やその仕事への初心、周囲への尊敬など一つ一つ発表しながら受容の輪を広げ深めた。

今というものの繋がりの意味を感じ尽くしていると素晴らしい和やかな環境が出来上がってくる。

人は本音、本心、本気、本当、本腰、本性、本格、が顕在化すれば驚くほどの進化成長をすることができる。

その「本」というもののスイッチのようなものを押せるか押せないかの違いでその差があるだけで、願うことそのものが人生そのものになったとき、迷いなく、惑いなく、人は安心して変わることができるのだとも感じる。

意志の強さの本質とは、きっとそういう本願力の正しい調和によってできているのではないかとも私は思う。

人間は自我が修まらずにその欲求が強ければ強いほど、そこから様々なしがらみや執着を呼び込み、そこに固執してそればかりの世界になり、元来からの本物の応えや道に気づかずに誤解して行動してしまうことがある。

たとえば、行動でもあまり初心や本質から考えずに目的や手段に固執しだすと次第にその両方から遠ざかってくるものだ。旅でも、目的地にどれだけ早く正確に行くかということと、交通機関はどうするか、また資金などはなどとばかりどうしようどうしようと考えていると、回り道や横道にそれてばかりで中途半端になるばかりであまり人生での成果がないということになることもある。

しかし、ちゃんと本当に願うものがなぜ自らの人生にそんなに大切なのかなどの初心や本質を最初に定めて本気のスイッチを入れれば、流されていて流されず、動いてて動かず、静かでいて静かでないような、境地になる。そしてその目的でも手段でもない、「本懐や本願」を一本立ててしっかりと心に携えて歩むとき、正しい道を素直に豊かに歩み続けられるというものを引き寄せるのだとも思う。

大局観や世界観、時代観、死生観などどれも明確になっていて、それが信念になれば大いなる有形無形の流れの中でもはっきりと今を大事にできるということだ。

そしてその瞬間瞬間を内省により振り返るとき、さまざまな繋がりや一期一会の邂逅や、大いなる導きなどを実感でき、自分か何ものかに命を使われ活かされていることに感謝することができ、その今に幸福を感じるようになるのだとも私は思う。

いつからか、人は自分で深く考え続け考えることをやめないということをやめ、周囲の世界に依存することで刷り込みやしがらみばかりを気にして、自分を大切にせず、自分が本当にやりたいことは何か、自分にしかできないことは何かという、生きることの意味をあまりやらないで生きる屍のように環境に浸るようになってきた。

こういうものを平和ボケともいうのだろうか・・・とても悲しいことだと思う。世界では、そういう感覚をなくさないようにあまり環境を清潔にしないのに私たちの国はどうも過剰に清潔にしすぎてそういう人間らしさまで取り除いてしまったことがよりこういうボケてしまう人たちを創りだしているのだとも感じると、本当に良い環境というものは自然なのだと改めて感じる。

子どもたちの未来を思うとき、環境に流されずに私たち大人は目を覚まし、心の眼をはっきりと開いてもっとそれぞれが素直に自然に根本から考える機会や場をたくさん用意していくことが大切だと今回の研修からも学ぶことができた。

人は場を与え、それぞれを認め合い、本質を語り合うとき、根本から考え抜くようになり、それによりこの世界の原理原則に出逢い、その中で自分の人生の中に在る観念で共通理解を持てるようになる。

阿吽の呼吸などもそういう分かった気にならずに考えるという習慣からがその形成には重要になる。

組織や人に常に理念が必要なのも、それぞれで動機になった初心や根本から意味を感じていこうという取り組みでもあるのだ。

人は本当のことに願えば変われる。
本願が自然に調和すれば変わることができる。

もっと、人が生き生きとし、本気になれるような環境を用意し、子どもたちの本性が引き出せるような本願を実現できるような活き活きとした社会を広げていきたいと祈念する。