自分と他分、自立と依存

依存というものは、自立の反対であるのは当然分かる。

辞書にはこうある。

依存とは、「他のものにたよって成立・存在すること。他に頼って存在、または生活すること」

自立とは、「他の助けや支配なしに自分一人の力で物事を行うこと。ひとりだち。独立すること」とある。

簡単に言うと、もちろん生きているのがどこかの島で一人だけというわけではないのだから依存と自立とは必然的に一人以上、つまりは集団の中でということが定義されていることが分かる。

そしてそこで依存しているというのは、集団や組織の中で自分の分の責任を果たせず、自分だけでは立派に独立した存在として成り立たない、誰かに頼っていて自分ではなく「他分」を存在させているということになる。

観察してみると、すぐに分かるけれど自分ができるはずなのに、自分が本当に社会を形成する組織の一員としての役割や責任は持とうとはせず、その集団や組織に対して所属することを何よりも頼りにしているような感じになり、できなかったときの言いわけや如何に責任を取らなくてよいかということばかりを評論したり理由づけすることばかりに力を入れて結果を誰かに任し自分は知らないとすることすらある。

これは単に自分の力を発揮せず独り立ちせずに、「甘えている」ということになる。

昨日の親孝行にも同じ話であるけれど、いつまでも親に迷惑をかけたりして子としての孝行をしない人も、親にいつまでも甘えているままで良いとし、独り立ちしているとはとても言い難い。孝行ができるというのは、親に甘えないからこそできるものだし、親に安心させ恥をかかせないと自分を大人として律するのはそういう自立のプロセスを経たからこそ確かにできるのだ。

そしてそうやって依存が当然の「他分」の人たちが集まると、如何に他と責任のなすり合いや甘え合い、つまり傷のなめ合いばかりをすることがもっぱら議論の中心になることもある。

自分が責任を取るとは、他に甘えず自分が納得して自分の責任と役割は果たし、「他に迷惑をかけない存在になる」ということに覚悟するということでもある。

どうせ生きていれば他に迷惑はかかるのだから、もちろん迷惑をかけないことはできない。だからこそ、迷惑をかけた分を社会へ還元するという独り立ちする志や忠というものが発揮され他を活かしていくのだと思う。

そして自立とは、「自分」のことは責任も役割も立派にやり遂げてはじめて他と共生しているということになる。

それは自分の決めたことを自分が絶対の境地で納得し、甘えを断ち切られたという「自分」がある。

もちろんそういう人は、最後はできなくてもなんとかなるというような集団や組織への甘えもない。だからこそ、チームでの仕事も円滑に信頼関係を築き上げ、会社での個としての自分らしさを存分に発揮し文化の一部になっていく。

当然、今さらだけれど自立がなぜ大事なのかというのは、「自己実現」の先に自分と周囲の幸せがあるのだから当然生きていくというためにもこれは必要不可欠なものなのは自然界や宇宙観のようなものから考えても良く分かる。

もちろん、人が育つのだから個人差や時間差があり、いつかは人は社会の中で大人になるのだから自立へ向けて歩んでいくのだろうが、死ぬまでその自立への機会も得られない人たちもたくさんいる。

目の前にあるのに、心に甘えがあると観えないのだから仕方がないけれどそれでも何とか流されるといつまでも自分が無意識に依存していることが分からない人になり、「生きる」や社会で「働く」ことの真の意味や喜びも実感することもないのだと私は思う。

そうなるといつも刹那的に往き、享楽的に流され、半人前の二流の生き方を良しとするようになる。

しかし、世界でもこれからの社会でもそうなるとしては自分が成り立たない。

これからはグローバリゼーションへの画一拡張への反発から、多様化、省力化が進み、より洗練された自立した個がチームで活躍していくような社会になると予測できる。

組織やチームで仕事をするようになり、世界では当たり前のこともこの日本ではなかなか上手くいかないのは、一体、「自立」というものをどう考えているかで意味づけが変わっていくのだろうと思う。

もちろん、日本の村社会である皆で乗り切るという方法もあるのだろうけれど、最近は最初の問題意識の決断まで他人に委ね自分で考えず終始他人のせいにしている人はあまりにも多い。

先日、ある園でも話し合いを行った中で気づいたこともある。

厳しい言い方だけれど、もちろんコンサルタントとしての視線で思いやりを持って書くことにする。

当然、自分たちが働く園には社会での使命、そして責任と役割を果たすための理念がある。

その中で、職員として採用されたのだけれどその園を選んだのがまず自分だということを忘れている人がたくさんいる。自分が決めて納得して入園したのにも関わらずいつまでも園長が言うから仕方なくやってますや、主任から言われたからと自分で納得もできないのに働けるというのは、子どもたちの自立を見守る側として果たしてその状況で発達というものを気づけるのだろうかと私は兼ねてから疑問に思っている。

園の中での自分の役割も責任も明確にせず、それを独り立ちしない人たちが、「自律」や「自立」の正しいプロセスに気づけるのかというとやはりどこか甘えがあり、無責任に関わろうとする心構えがあることが多い。

その子どもの将来への責任はだれが取るのだというのか、それを誰かに任せてしまっているような依存した状態で、その子の自己実現、自立を見守ることができるのだろうか?

納得しないで、自分で決めないで、主張もせず、受け身で保育ができるというのもおかしい話だし、そこで働けているということも考えず、集団や組織に依存するというのは一人前のプロとしてどういうことだろうか?

「自分で考えて、自分で行動し、自分で決められる子ども像」を目指している園が多い中、果たして現場の教師やそれを導く人たちが、自分が納得もしていないのにそういうものだからと盲目に働いていて、問題があれば、自分のせいにはせず、責任も取ろうともせず、言われたけれどできなかったとし、所属する組織へ権利と義務だけで働いてきたことを正義だとするような風潮まであって自立していると言えるのか。

最近、園では、親がやっていたから仕方なく継いだのだかなどという二代目三代目の園長までいて、果たしてそこの職員や子どもたちが自立することがあるのだろうかと本当に疑問に思う。

甘えていては、社会で立派に自分を実現できないし、共生して皆と命を分かち合い助け合い共生していくこともできなくなる。

何よりも優しさを利用せず、自分に甘えず、真剣に結果を出すことに全力を尽くす。そして、その上で様々なチームの仲間やメンターの助け協力を得て皆で自立した目標を達成していくことが必要ではないかと思う。

結果に対して甘えていて、最後は誰かが助けてくれるだろうと信じ、うまくいかなくても自分は言われたことは必死にやったとし、自分自身で本当に取るべき責任を取ろうとはしない人も事も決して許してはいけない。

頑張ったのだけれどとし、自分が決めて自立するということからは逃げさせてはいけない。優しさと厳しさ、尊厳と慈愛とは両親の自分への自立の真心から来ていることを忘れさせてはいけない。

頼られる存在になってはじめて、立派に人となるのだ。

人が支え合うというのは、両方が立っているからこそできるのだ。

私は保育というのは、いつも師の言うとおり「総合芸術」だと思っている。

そして、その保育とは大いなる愛や深く広い真心があってこそできるものだとも思っている。なぜなら自立するために、どこまでの環境を用意してあげ、信じて見守るのか?

それは何よりも厳しさもあり優しさもあり、思いやりがあって、そして覚悟も要る。

子どもたちの未来をより良いものにし、子どもたちの人生を素晴らしい無二のものにする。

人生は二度ない。

決してブレず、一緒に歩む園とともに保育道を極めていきたいと切に念じる。

合うと適う

人は新しいことに挑戦すると挫折したり、成功したりする。
もちろん、挑戦もしないとなるとその両方もないのだから失敗となる。
何もせずに、挑戦をした気になっていると文字通り分かった気になり無難に生きようとし体験という人生の掛け替えのない宝を見つけだすこともできなくなる。

それぞれの与えられた環境の中で、自分自身の挑戦を続けることが一期一会の出逢いや体験を引き寄せ、感動や感謝という真の生長と自己完成に繋がっているのだと私は思う。

先日、ある挫折をしかかっている人から相談を受ける機会があった。

今の時代は、たくさんの選択肢がある。
自分に合うか合わないかなども、選択肢がたくさんあるのだからちょっとうまくいかないだけで他の方法を探せばいいと自分に言い聞かせている人たちがたくさんいる。

自分を信じるというのは、自分が選んできた道を信じるということに他ならない。
自分が選んだ道ですら、自分で疑っていては、いくら立派な人物からの邂逅を享受しても本人はどうすることもできない。

それだけ、自分が選らんだ道を信じるというのは自己肯定感が必要になるのだろうとも思う。自分の存在が見守られ、あるがままでも自分はこの世で認められていると思えられるような温かい環境があれば人は自分で自己を発掘していくこともできるのだとも思える。

さて、話を戻す。

その中で、自分に今の仕事は合っているかどうかを聴かれることがあった。

人は誰しも、艱難辛苦に出会うと目の前から逃げ出したくもなる。
壁が大きく高ければ、他の方法を探そうとするのは人間の心理だとも思う

特に最近は、ちょっとした困難でもそのものの問題を直視せず、他の理由探しばかりに躍起になっている人をよく見かける。そういう人は、合うか合わないかばかりを一日中考えていることが多い。

そして合わないと決めて退職しても、また同じようにまわり道ばかりして自分の道を見つめようとはしないで年だけをとって体験が深まっていないことが多い。

けれど、そこで合っているかどうかを自問するとき、それは都合のよい解釈、つまりは「合」っている方ばかりを見つめてはいないだろうかと私は話をした。

都合に合わせて、合う合わないを決めていたら体験が深くなることもない。
そしてもちろん、感動も感謝もそこから込み上げてくる機会も喪失する。

いっそのこと諦めればと思うのだけれど、途中から諦めてばかりで最初から諦めて観念するわけではないので諦めが悪くなる。最初からとは、自分で選んだ道だからと自分で納得することを私は言うと思っている。

それを開き直るともいう。開き直ると人は素直になり、すべてを受け容れることで物事と調和していくのだとも私の体験から実感している。

さて、では本当にあう(マッチング)するとはどういうことかと考えてみる。

合うには、もうひとつ、異なる「適」がある。道と同じつくりになっているこの字には、「叶える」という意味もある。

自分がどんな壁にぶちあたろうとも、挑戦し諦めず突き進めていると物事が自然に適ってくる。それが、続けられるということ。

今でも継続できているということは、その志や思いが自分に適っているということにならないだろうかとも思う。

合うと適うでは、意味はまったく異なる。

本当に自分に「あっている」かどうかは今の自分の決断がどちらの「あっている」を優先しているかを考え抜けば自然に分かることだとも思う。

こうやって人は、社会の中で自らの道を志すと様々な天からの試練が与えられる。
その中で、諦めず歩み続けているとその仕事に愛され、竟には天職になる。

何でも都合の良い判断で逃げていたらそれこそ、転がるばかりの転職になる。
転職と天職では、まず取り組む際の覚悟と納得、また心構えも異なる。

今の若い人たちは、過去の教育と選択肢の誤解により歪んだ方向を正しい方向だと勘違いしているし、周囲もそれについて納得させるような機会も与えない。

私自身、子どもたちのためにも、自分にしかできないことを見つけるために自分の選んできた道をすべて全肯定全受容し、自らの力と自立の心に刺激を与え、本気の取り組みを体験できるような環境を用意していきたい。

自分に適っている天職に出会えるように、継続することの重要性を背中で実践していきたい。

孝行

会社を経営し、教育界に携わる中で相談に乗っているとよく孝行について話すことがある。

孝行というと、親孝行などもそうだけれど何より自らを育んでくれた根本に対する敬愛の観念を忘れないというところにその意味があるようにも感じる。

親というものがいて、その親を尊敬することで自分が恥ずかしいと思えてくる。よく親戚や祖父母から親に恥をかかせてはいけないと幼いころ聴いた記憶があるけれどとても大事なことだったのだなと今ではよくわかる。

親に恥をかかせないためには、親を敬う気持ちが合ってはじめて湧いてくる気持ちでもあるからだ。

昔の言葉に、「孝は百行の基」、また「孝は神明に通じる」など孝行に関わる遺訓はとても多い。先日、ある経営者が入社時に親へ必ず足を洗ってあげて親孝行と御礼をすることを厳命しその感想を全社員の前で発表させるという話を伺った。

感想を伺うと、親の有難さに涙が止め処なく流れましたやこんなに苦労をしていたなんてなど、今の若い人たちが気づかない親の背中を足元により感受させてその気持ちを忘れるなとするようにしているのだと思う。

組織に勤めるということ、会社に忠義を持って自分を尽くすということ、そのすべてはこの「孝」の気持ちからはじまるのだと私は思う。

経営者や上司への、孝行の気持ちがあれば必ず人は自分の行いに恥じらいを感じ、自ら身を慎み、立派になっていくのだとも思える。強引に恐れさせるような罰則や賞罰で縛るよりも、こういう倫理道徳により自発的に感化せしめていく方が人間としての品格というものがあるものだと思う。特に教育などとなると、人間をつくるのだから当然こういうものが正しく行われる方が価値があるものだとも思う。

ただ、昨今を見渡すとそういう環境がなく親を蔑にする人が増えてきているようにも思える。だから親孝行はあまりしないという。親孝行などは、親が尊敬するところがないという理由で意識しない人が多いけれどそれは視野狭窄というものだと私は思う。

なぜなら当たり前だけれど本々、親というものがなければ自分がない。そしてその親の親をあわせると先祖というものへの崇拝や感謝の気持ちを失っているというのは人の子としての道を正しく歩んでいるとは言い難い。

論語にもあるけれど、親を責める前に、まずは子として親の不善、不全を問う前に、何か親の言うことに一理あるのだろうと親を信じて従い、安心させてあげる方や自ら身を修めることを優先することが何より将来の自分の親子関係の基礎基盤にもなるのだと思う。

では、どのように自ら孝行を尽くせばいいのか。

「孝経」にはこうある。

「身体髪膚、之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」

そして、次にこうある。

「身を立てて道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは、孝の終わりなり」

まずは、自分のこの身体は父母から譲り受けたもの。それを大事にすること、怪我や病気をせず、食事を気をつけ、無茶をしないで自らを大切に扱っていく気持ちが孝行のはじまりだとする。そして次に、立身出世し、立派に社会の役に立ち、自分の名前が後世に残るように最期まで往き尽くし、その後は、その両親の教えや人柄が素晴らしかったと他人様に言われるようになったことで航行が終わったとするとある。

親というもの、先祖への孝行というもの。

自分を生んでくれて、育てて、見守ってくれた存在を思うとき、自らの手足や体、そのすべてが大いなる敬愛と慈悲によってあると思うとき、どう感謝すればいいのかと思うようになる。そしてその感謝を思うとき、如何に自分のことを大切に思いやり、親に心配をかけまいとしようとするように正しく生きていくことを切に望み実践していきたいと思うようになるものだと思う。

孝行というものは、自分を在るがままに受容しそれに感謝ができるためにも忘れてはいけない徳性の一つだと私は思う。

最後に、熊本の小学校教師で鉄筆の聖者と呼ばれる立派な教育が遺した言葉がある。私がとても好きな言葉だ。

『眼を閉じてトッサに親の祈り心を察する者、これ天下第一等の人材なり』(徳永康起)

私は祖父母に恵まれ、父母に恵まれ、いつも毎朝仏壇に家族のことを祈念していた後ろ姿を見てきた。其の御蔭でいつも眼を閉じると確かに両親の温かい慈悲心に感謝することができる。

これからの子どもたちには、親とはそういうものだと言い聞かせるよりも第一流の人物というのはいつも自分を大事にできる人間であると伝えていきたい。

自分を大事にするということは、親孝行をするということ。
まずは、孝行をするという気持ちを優先し、日々の感謝を念を深めて身を修め正していく実践を怠らぬように努めていきたい。

浅さと深さ

物事にはただ起きるということの理とは別に、そのものを感受する本人の深さや浅さがある。

日々、様々な出来事の中で人間のエゴが引き起こす栄枯盛衰や艱難辛苦、喜怒哀楽や利害得失、陰陽矛盾などにより本質的に学びを深めて人間を確立し、修めていき、そのものの使命を成就するために知行合一していくようにこの世界はできている。

それなのに何も分かっていないのに身勝手に分かったとするのは、ひょっとすると人生を本気でない証拠でもあるし、一つのことにも打ち込めないのはその人がそういう真の体験から盲目に逃げている証拠でもある。

浅いというのは、どういうことだろか。
浅いのは、知識ばかりで分かった気になり真の体験をしないということ。

その物事の体験もしていないのに自分勝手に成否善悪を決め付けて、自らの力で真実を掴もうとしないで大事なことはすべて他人任せで「ほらやっぱり」というところですぐに認識する悪癖を持っているようなものだと思う。そしてそれを繰り返しているとさらに次第に浅くなっていく。

また、他人が体験したことを安易に理解してさも自分で体験した気になってしまい、それを偉そうに他人に自分が体験したように論評し語ってしまうとそれを脳が体験したことだと誤解してしまい、さらにその浅さが広がってくる。

そして浅く広いがゆえに、いざひとつのことに深く取り組もうとするとそんことが怖くなり、他人からの対面体裁を取り繕うばかりを覚え、中身のない空虚な理想と現実ばかりの中で、何もしないままに流されていく日々を送ることになる。

つまり浅いというのは、自らの体験を通して学ぼうとせず、学問というものを、単なる知識享受だけのものだと筋違い勘違いしているから浅くなっていくのだと私は思う。浅いと浅いことにも深いことにも気付かず、ただ浅いということになってしまうから気をつけないといけない。

逆に、ここでの深いというのは、どういうことだろうか。
深いとは、そのものの体験が深いということ。

どんな出来事も自分でやってみないと分からないとし、行動活動的に物事に真摯に挑み、たくさんの失敗や成功体験を得て反省し、身につけることで初めて自分で掴んだ真実とし自立してそれを立派に行えるようになる。

そういう人は、安易に脳が身勝手な誤解をせず、心技体、つまりは身体や心、意志、そしてあわせて知識を総動員し、世界と一体になり命と一緒に体験をするから自然にそのものの正しいルールや本質的に仕組みを体得していくのだと思う。

それゆえに、深くなるのだと私は思う。
そしてそういう実践を繰り返し体得してきている人は素直であると思う。

若くてしっかりした人と言われる人は、体験と知識のバランスが良いことを言うしその素地があるのだと思う。孔子の高弟に顔回という人がいるけれど、いつも孔子の話をしっかり聞いては実践し体得していて孔子もとても信頼し尊敬していたとある。学問を志す者は、きっとそうでないといけないのだとも思う。

まだ私自身も体験というものでは、人生の妙味を味わい尽くすまでは至っておらず、全てに未完成であるけれど、きっと本物の学問とは、行動と知識がセットになっているものであり、そこから体験することで本質を学び、またそれを反復反省し自らに問うことで自らに浸透し、沁みこんでいくようなものだとも思う。深くなるのは、結果なるのであって、いつも深く在ることの方がより重要なことだとも思う。

もちろん、そうなってくると日頃とても大事な決断をするときに身を助けてくれる「直観」というものもそういうものがなければでてくるはずもない。

体験というものを何よりも優先しなければ人生の道を歩んでいるとは言い難い。問題意識というものも、深くなければあるはずもなく、深くあるから問題意識も生まれるのだと改めて思う。

そして深くあるということが重要なのは、社会というもの、世界というものの中で自分を如何にして立派に貢献させるかということに繋がっていると私は思う。人生の於いて立志立命するということへ根差すと、自分が実体験することがもっとも崇高なことであり、体験したことでないと本当のことを理解できないから行動し学ぶ必要があるのだと思う。

自然と在るのも、自らの五感や感受性を磨くのも、体験自体を深くするためにも必要になる。体験というのは、総合芸術のように仕上がってこそ本物の体験となるのだとも私は思う。

深いことを求め続けていくというのは、人生というものの至誠だと思う。

最後に、子どもを思うと、私たち大人はただ知っているだけのものや、知識としてこうだよと単に伝えることに一体何の意味があるのだろうかと問う必要があると思う。そしてそれが未来への責任だと思う。

子どもたちの未来は、人生の偉大な醍醐味を味わうということで練りあげられ創りあげられていく。

子どもたちには、人生という体験とそこから学び、それを反省し、より深く深く問い続けられるような強さと素直さを持ってほしいと願う。そして何よりも素直に体験することを優先してほしいと思う。そして体験というものの中で、自分で掴んだ真実を世の中で存分に活かしてほしい。

だからこそ、私たちは変な先入観や刷り込みを与えず、本人が自ら主体的に体験がたくさんできるような自由な環境を用意し、子どもたちの自らが創り上げる新しい真実の未来を信じ続けてあげることが大事なのだと思う。

そんな優しい社会を育てることも企業人である私たちの使命の一つ。

これからの自分自身、私も自分にしかできないことで世界に尽くし、深く味わいのある人生を謳歌し、この生きているということのあるがままの素晴らしさに感動できるような温かい世の中に変えていくように努めていきたい。

独立自尊

人は人に寄り添って生きている。そして、ちゃんと自立していれば代わり変わりにそれぞれに役割を果たしながら自らの命を存分に発揮していこうとする。

この世に生まれてくれば誰しも、太陽や空気、水などといった大自然の恩恵を受けられる。そしてその環境の中で、様々な命が「正しく生きる」という行為を通じて自然と共生しながら自分の命を素直に尽くしていくようにも思える。

しかし、今の時代の人間の社会はその生きようと尽くそうとするものが余計な環境によって、他に生きながらえされているような人たちで偽造されることが通常になってしまっているようにも思える。

ここでは「生きる」とは、どんな環境の中でも自分の命を正しく存分に発揮することと定義したとする。

しかし、自らの身の回りを見渡すとどうだろうか?

生活に堕落し、便利に流され、怠惰に自分のやれることをせず、他人に自分の命の使い方まで依存し、任せ、その結果や中身までを他人のせいにしようとして何もしない人がたくさんいる。

誰かに作られた平均的な幸せや、与えられた幻の安らぎに刹那刹那に満たされることだけを欲して、只管に自分で考えないように情報を垂れ流していく社会になっているような感じもする。

しかも、人々も正しい教育を受けず、自分を修めることを怠り、偽造されたそういう環境の中で巧みに依存して、うまくいったいかないと一喜一憂するだけで自らの力を使わずに何もしない人がたくさんいる。

そういう人は、日々、朝から夜まで、誰か責任感が強い人や、何でもやろうとする人に寄生し自分の力を使わずにうまくやることばかりを考えて、ただただ言行不一致の日々に呆然と過ごしているような感じになっている。

こういうものも、きっと幼児期や今までの人生で誰かによる過干渉や過保護な関わりに刷り込まれ、自分本来の根本の力や自分の芽を育てることを避けて逃げてきたことの積み重ねで起きるのだと思う。

自分自身の自立のための主軸を定めず、ただ流されていたらこの今の世はとても生きるのが難しいのではないかと本当に心配している。

本来の人間社会は、個々の自分の命の正しい発揮からどのように社会に参画していくかを考えることで成り立つことができている。その中には、軽重、高低、強弱など様々な個が存在し、融和調和して自然の中で自立していこうとする生きるものの本質的な共生と貢献による社会の自立を目指す姿がある。

どこかに偏るのはその陰に、せっかく生まれたのに正しく生きようとしないでこの時代に依存し命を粗末にしようとする権力者や支配者の願望と欲望の現れなのだとも思える。何が良いか悪いかではないけれど、今の時代が良いものかどうかは、如何に周囲への思いやりがあるかないかということだけでも今の社会を計ることができる。

今の日本を含め、この社会を観るとはたしてどうだろうか?

周りに迷惑をかけているのに、それを返そうともせず、自分が見守られているのに自分を生かそうともしない、そしてただただ誰かがやってくれると日和見的に何もせずにうまくやろうとすることばかりが重んじられる世知辛い世の中になっていないだろうか?

そして、子どもたちはどうだろうか?

身勝手な親たちや、責任を取らない教育者たちが、目先の損得ばかりに囚われ、うまくやることばかりを教えて、子どもたちの生きる力を奪い去りそぎ取っていないだろうか?

今の社会に慣れさせるための教育ではなく、これからの子どもたちの社会を見守れるような教育に変えるのはいつのことになるのだろうか?

子どもたちは、見ていれば自然に自らのやりたいことを実現していく。
手を出さず、信じてみてあげることでどんどんその力を出そうとする。

人間は、生まれた瞬間、赤ちゃんの時からずっと死ぬまで本心本気で生き切ようとするのだ。
自分の力で生きようとするのだと、当たり前のことを信じずにそれをさせなくするというのはどういうことだろうか?

たとえ、その子どもがそこで力尽きようとしても、それは周囲のせいではない。

本人の生きる力は絶対に尽きるはずがない、それが生まれるということだし、生きるということだと認識すればそこに生きる力が開花していくものだと私は思う。

生きることを止めさせる権利は誰にあるというのだろうか?

生きようとするのは、誰しもこの世に生まれるときから決めていたこと。
それを本人が周囲からの刷り込みにより、楽をしただけ忘れているだけだと思う。

だとしたら、いかに本気で生きることができるようにするのか、自立することができるかは、私たちが見本を示すことで、子どもたちがこの世での使命を果たそうとする本当の理由に辿り着くことになるのだと私は思う。

何より自分が立つこと、それが人を救うことだし、この世で共生すること、あるがままの幸せを感じてそれが真理になっていくのだと思う。

自立しないというのは、それだけでこの世に来ている意味を忘れさせているのだと私は思う。

自立しないというのは、生きようとしないことに等しい。

これからの国を支えるリーダーたちはもう一度、自分のことをよく省みてなぜ自立する必要があるのかを考える気づきを大人にも施していく必要があると私は思う。

そして、そのリーダーはいつも自分が何かとても偉大な温かいものに見守られていることをよく知っている人たちになっていくのだと思う。

自分が生かされているということに感謝できる人たちであり、その生かされたことが分かるのは自立しているからこそできるのだから。

子どもたちには、自分が在る今の環境の中でどう自分を尽くしていくかを大事にしてほしい。そして、生きる力が備わっていることを信じられるようになってほしい、その生きる力を尊び、見守られていることを感じられるような大人になってほしいと願う。

道は、まだまだ遠大で広大。

まずは自分自身、自立ということを深めて周囲を見守る実践を尽くしていきたい。

縦横自在

世の中には、王道と覇道というものがある、そして不易と流行がある。

私の定義だけど、昔から自分の命を正しく使い果たすために安心して生きる道を照らすということに王道があり、命を正しく使わずに流されてしまって溜まりや歪みを一気に解消するために現れ使われるものが覇道だとしている。

そして、太古の昔から大自然や宇宙の法則というような変わらないものがあり、その流れ続ける河のことを不易とし、その時々、時代とともに色々な障害物や突起物などにより変化し、変わり続ける河のことを流行だとしている。

そしてその中間にあるものが、道というものと時というものとする。

これを縦糸と横糸で捉えてみる。

織り機などもそうだけれど、ピンと縦糸をまず張る。そのあとに、一つひとつの糸を重ねて横糸が入っていく。そうやって織り成していく中で一枚の美しい反物を作りあげていく。

縦糸とは、方向性や主軸、そして変わらないものとする。そして横糸は、成り形やデザイン、選択として、変わるものとする。

縦糸は期限がなく、ただ方向を示しているだけであり、横糸には期限がある。それを縦の道と横の時としてみると、どのように全体を総合的に俯瞰し織りあげるかというのが人生というものであり、世界というものであるとも定義できる。

一つ一つの捉え方にしても、常に自らを志すことで律し、人間を陶冶していくことが縦糸であり、その時々に沿って時代のニーズにあわせて自ら練磨し技術やデザインしていくことを横糸を張るともできる。

しかし横糸は、もちろん張りなおすことはできるのだけれど、次を省みずせつな的な判断により織り間違うと素晴らしいデザインは仕上がらない。毎回、丁寧に覚悟を持って先々を見通し横糸を入れるからこそその後の美しい反物が仕上がってくる。また縦糸は、緩んでいたり、それがなかったらそもそも反物でもない。常に、その道を歩む心構えと人間とての道を学び実践しているからこそ最後にはそれがその人にしかできない反物の一部になり美しい情景や景色の一端になる。

生きるという意味を考えてみると、何を織ったかであり、どんな一反になったのか、まるで星星のようなその全体の仕上がった永遠無限の百花繚乱の世界で自らの役目をどう光って感じ切ることができたかというような気もする。

人が何かを為すというのは、そのデザインされた美の情景に於いての「自己表現」だということに繋がっている。どう自らをどう発揮し、自らが全体の一部になり切るということ。

かんながらの道も、そういう随神との邂逅であり、世の中を創るということやともに生きるということの悦びを感じるということでもあると私は思う。

最後に、縦横無碍、如意自在になった存在がいることをこの世で例えているものがある。

阿弥陀というもの。
阿弥陀とは、ア(ない)とミター(量る)(量れ+ない)からなる量ることができない無限の存在であるということ。

浄土宗の開祖、法然の高弟の一人であった、証空がこうそれを遺している。

「光明無量なるが故に阿弥陀と名づけ、寿命無量なるが故に阿弥陀と名づく 縦に寿命無量なれば三世に亘りて衆生を摂し、横に光明無量なれば十万に遍じて衆生を度す、所詮摂衆生の願の極まるところを阿弥陀と名づくるなり」

縦と横を自在に尽くせる存在こそが人間というものだと私は解釈する。

そして、この証空は自らの生を持って詠んだものがある。

『生きて身を はちすの上にやどさずば 念仏まうす 甲斐やなからん』(大いなる慈悲の中に、煩悩多き私であっても日々つつまれていることに目覚め、それに感謝歓喜をし、大いなるお慈悲の恩に報いながら、今というものを、力つよくあゆむ)

そういう在ると無いの中に、確かに感じるものがある。
それが今というもの。

そう感が観るとやはり真理真実は、そういう生きている生活の真っただ中にこそ存在している。
日々の仕事や、日々の生活の中でも縦横と、この掛け替えのない「今」を大事に歩みを生きることを強めていきたい。

感謝

保育道

先日、GTサミットで藤森平司代表の講演が行われた。

テーマは、「保育道」とし、保育というものに携わるものの生き方や在り方などを自らの実践を通じて築いたものを暖かい眼差しで語っていただいた。

私は、もう藤森先生に仕えて7年近くなるけれどその実践の凄みというのは身に沁みてよく分かる。自らを何度も三省し、幾度となく訪れる困難や壁に不動の意志で一つ一つ意味をつけて歩まれる姿に感動することばかり。

身近に模範となるメンターと師匠がいるということは、限りある人生に於いて本当に有難いものだとその邂逅に感謝しています。

講演の中での、保育道にはなぜ私自身も、まず人間としてここまでこの保育というものに心底惹かれるのかに気づける言葉をお聴きすることができた。

『保育は、生きる意味に繋がっている。そして、人の生きる道を考えることが、保育道。』

この師の言葉には、その思想の全てが凝縮されているように思う。

さらに、もともと人間をよく観察してそのものの持っているものを引き出そうとする見守るということへの深い思想と哲学、また時代が変わっていても人間の持つ素晴らしさは変わらないとし、その変わらないものを信じて環境を用意していこうとする鳥瞰的な視野と信念、さらに、発達という人生というものをプロセスで捉えてその一つ一つを遂げさせることを重んじる人間愛への思いやり、どれをとっても保育の道の先にある素晴らしい世界を感じてしまう。

本当に、どの言葉にも子どもたちをいつも暖かく見守っている藤森先生の在り方を感が観ることができ、心が穏やかで安らかになることができました。

近頃は、過渡期という名のもとに何でもやってもいいというような混沌とした世相の中、どこを向いて歩んでいけばいいのかというビジョンを示す人も居ず、流され、不安を巻き散らかされている中、師が仰る不動に示すその道に救われる人たちが一体どれだけいるかと思うと、まだまだ沢山の人たちにこの見守る保育道を伝えていかなければと身が引き締まりその使命に震えます。

しかし話をお聞きしながらも私はというと猛省することばかり。
そして事があると時折、自らの実践の質量と反省が足りず自己嫌悪に陥る毎日。

カグヤという集団で一流を目指しているのに、その思想を周囲へ理解してもらうことを怠り、表面上のツマラナイやさしさに囚われ、エゴに捕われそうになりながらもそれを禅の無門関にあるような「はっきりせい!」と自らに叫び、その未熟さを修正することでなんとかやっとという状態だという気すらします。

道とは、理解することではなく、正しく歩み続けることの方がより大切なことは説明も要らないくらい重要なこと。

天を信じて、人事を尽くすと思っていても、反省が足りないとすぐに実践がおぼついてしまいます。天を敬い、人を思いやるというのはその人間としての本来持つ調和の中に本質的な実践があると思うと、素直にその道を楽しむという境地は本当に難しいと実感します。

天と人について、佐藤一斎に

「自ら欺かず。これを天に事うと謂う。」とある。

そして西郷隆盛の「南洲翁遺訓」に

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」

とあります。

今回、師匠から学んだ気づきを新たな出会いと三省とし、多くの人たちにこの保育の素晴らしさ、人生の歓びを実感できるようなことを社業を通して邁進していきたい。

いつも、大事な時に、大切なことを教えていただけることに深く感謝します。
後は、この御恩を実践でお返しできるように共生と貢献の理念に沿って修己治人に努めていきたいと思います。