保育道

先日、GTサミットで藤森平司代表の講演が行われた。

テーマは、「保育道」とし、保育というものに携わるものの生き方や在り方などを自らの実践を通じて築いたものを暖かい眼差しで語っていただいた。

私は、もう藤森先生に仕えて7年近くなるけれどその実践の凄みというのは身に沁みてよく分かる。自らを何度も三省し、幾度となく訪れる困難や壁に不動の意志で一つ一つ意味をつけて歩まれる姿に感動することばかり。

身近に模範となるメンターと師匠がいるということは、限りある人生に於いて本当に有難いものだとその邂逅に感謝しています。

講演の中での、保育道にはなぜ私自身も、まず人間としてここまでこの保育というものに心底惹かれるのかに気づける言葉をお聴きすることができた。

『保育は、生きる意味に繋がっている。そして、人の生きる道を考えることが、保育道。』

この師の言葉には、その思想の全てが凝縮されているように思う。

さらに、もともと人間をよく観察してそのものの持っているものを引き出そうとする見守るということへの深い思想と哲学、また時代が変わっていても人間の持つ素晴らしさは変わらないとし、その変わらないものを信じて環境を用意していこうとする鳥瞰的な視野と信念、さらに、発達という人生というものをプロセスで捉えてその一つ一つを遂げさせることを重んじる人間愛への思いやり、どれをとっても保育の道の先にある素晴らしい世界を感じてしまう。

本当に、どの言葉にも子どもたちをいつも暖かく見守っている藤森先生の在り方を感が観ることができ、心が穏やかで安らかになることができました。

近頃は、過渡期という名のもとに何でもやってもいいというような混沌とした世相の中、どこを向いて歩んでいけばいいのかというビジョンを示す人も居ず、流され、不安を巻き散らかされている中、師が仰る不動に示すその道に救われる人たちが一体どれだけいるかと思うと、まだまだ沢山の人たちにこの見守る保育道を伝えていかなければと身が引き締まりその使命に震えます。

しかし話をお聞きしながらも私はというと猛省することばかり。
そして事があると時折、自らの実践の質量と反省が足りず自己嫌悪に陥る毎日。

カグヤという集団で一流を目指しているのに、その思想を周囲へ理解してもらうことを怠り、表面上のツマラナイやさしさに囚われ、エゴに捕われそうになりながらもそれを禅の無門関にあるような「はっきりせい!」と自らに叫び、その未熟さを修正することでなんとかやっとという状態だという気すらします。

道とは、理解することではなく、正しく歩み続けることの方がより大切なことは説明も要らないくらい重要なこと。

天を信じて、人事を尽くすと思っていても、反省が足りないとすぐに実践がおぼついてしまいます。天を敬い、人を思いやるというのはその人間としての本来持つ調和の中に本質的な実践があると思うと、素直にその道を楽しむという境地は本当に難しいと実感します。

天と人について、佐藤一斎に

「自ら欺かず。これを天に事うと謂う。」とある。

そして西郷隆盛の「南洲翁遺訓」に

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」

とあります。

今回、師匠から学んだ気づきを新たな出会いと三省とし、多くの人たちにこの保育の素晴らしさ、人生の歓びを実感できるようなことを社業を通して邁進していきたい。

いつも、大事な時に、大切なことを教えていただけることに深く感謝します。
後は、この御恩を実践でお返しできるように共生と貢献の理念に沿って修己治人に努めていきたいと思います。