世の中には、王道と覇道というものがある、そして不易と流行がある。
私の定義だけど、昔から自分の命を正しく使い果たすために安心して生きる道を照らすということに王道があり、命を正しく使わずに流されてしまって溜まりや歪みを一気に解消するために現れ使われるものが覇道だとしている。
そして、太古の昔から大自然や宇宙の法則というような変わらないものがあり、その流れ続ける河のことを不易とし、その時々、時代とともに色々な障害物や突起物などにより変化し、変わり続ける河のことを流行だとしている。
そしてその中間にあるものが、道というものと時というものとする。
これを縦糸と横糸で捉えてみる。
織り機などもそうだけれど、ピンと縦糸をまず張る。そのあとに、一つひとつの糸を重ねて横糸が入っていく。そうやって織り成していく中で一枚の美しい反物を作りあげていく。
縦糸とは、方向性や主軸、そして変わらないものとする。そして横糸は、成り形やデザイン、選択として、変わるものとする。
縦糸は期限がなく、ただ方向を示しているだけであり、横糸には期限がある。それを縦の道と横の時としてみると、どのように全体を総合的に俯瞰し織りあげるかというのが人生というものであり、世界というものであるとも定義できる。
一つ一つの捉え方にしても、常に自らを志すことで律し、人間を陶冶していくことが縦糸であり、その時々に沿って時代のニーズにあわせて自ら練磨し技術やデザインしていくことを横糸を張るともできる。
しかし横糸は、もちろん張りなおすことはできるのだけれど、次を省みずせつな的な判断により織り間違うと素晴らしいデザインは仕上がらない。毎回、丁寧に覚悟を持って先々を見通し横糸を入れるからこそその後の美しい反物が仕上がってくる。また縦糸は、緩んでいたり、それがなかったらそもそも反物でもない。常に、その道を歩む心構えと人間とての道を学び実践しているからこそ最後にはそれがその人にしかできない反物の一部になり美しい情景や景色の一端になる。
生きるという意味を考えてみると、何を織ったかであり、どんな一反になったのか、まるで星星のようなその全体の仕上がった永遠無限の百花繚乱の世界で自らの役目をどう光って感じ切ることができたかというような気もする。
人が何かを為すというのは、そのデザインされた美の情景に於いての「自己表現」だということに繋がっている。どう自らをどう発揮し、自らが全体の一部になり切るということ。
かんながらの道も、そういう随神との邂逅であり、世の中を創るということやともに生きるということの悦びを感じるということでもあると私は思う。
最後に、縦横無碍、如意自在になった存在がいることをこの世で例えているものがある。
阿弥陀というもの。
阿弥陀とは、ア(ない)とミター(量る)(量れ+ない)からなる量ることができない無限の存在であるということ。
浄土宗の開祖、法然の高弟の一人であった、証空がこうそれを遺している。
「光明無量なるが故に阿弥陀と名づけ、寿命無量なるが故に阿弥陀と名づく 縦に寿命無量なれば三世に亘りて衆生を摂し、横に光明無量なれば十万に遍じて衆生を度す、所詮摂衆生の願の極まるところを阿弥陀と名づくるなり」
縦と横を自在に尽くせる存在こそが人間というものだと私は解釈する。
そして、この証空は自らの生を持って詠んだものがある。
『生きて身を はちすの上にやどさずば 念仏まうす 甲斐やなからん』(大いなる慈悲の中に、煩悩多き私であっても日々つつまれていることに目覚め、それに感謝歓喜をし、大いなるお慈悲の恩に報いながら、今というものを、力つよくあゆむ)
そういう在ると無いの中に、確かに感じるものがある。
それが今というもの。
そう感が観るとやはり真理真実は、そういう生きている生活の真っただ中にこそ存在している。
日々の仕事や、日々の生活の中でも縦横と、この掛け替えのない「今」を大事に歩みを生きることを強めていきたい。
感謝