会社を経営し、教育界に携わる中で相談に乗っているとよく孝行について話すことがある。
孝行というと、親孝行などもそうだけれど何より自らを育んでくれた根本に対する敬愛の観念を忘れないというところにその意味があるようにも感じる。
親というものがいて、その親を尊敬することで自分が恥ずかしいと思えてくる。よく親戚や祖父母から親に恥をかかせてはいけないと幼いころ聴いた記憶があるけれどとても大事なことだったのだなと今ではよくわかる。
親に恥をかかせないためには、親を敬う気持ちが合ってはじめて湧いてくる気持ちでもあるからだ。
昔の言葉に、「孝は百行の基」、また「孝は神明に通じる」など孝行に関わる遺訓はとても多い。先日、ある経営者が入社時に親へ必ず足を洗ってあげて親孝行と御礼をすることを厳命しその感想を全社員の前で発表させるという話を伺った。
感想を伺うと、親の有難さに涙が止め処なく流れましたやこんなに苦労をしていたなんてなど、今の若い人たちが気づかない親の背中を足元により感受させてその気持ちを忘れるなとするようにしているのだと思う。
組織に勤めるということ、会社に忠義を持って自分を尽くすということ、そのすべてはこの「孝」の気持ちからはじまるのだと私は思う。
経営者や上司への、孝行の気持ちがあれば必ず人は自分の行いに恥じらいを感じ、自ら身を慎み、立派になっていくのだとも思える。強引に恐れさせるような罰則や賞罰で縛るよりも、こういう倫理道徳により自発的に感化せしめていく方が人間としての品格というものがあるものだと思う。特に教育などとなると、人間をつくるのだから当然こういうものが正しく行われる方が価値があるものだとも思う。
ただ、昨今を見渡すとそういう環境がなく親を蔑にする人が増えてきているようにも思える。だから親孝行はあまりしないという。親孝行などは、親が尊敬するところがないという理由で意識しない人が多いけれどそれは視野狭窄というものだと私は思う。
なぜなら当たり前だけれど本々、親というものがなければ自分がない。そしてその親の親をあわせると先祖というものへの崇拝や感謝の気持ちを失っているというのは人の子としての道を正しく歩んでいるとは言い難い。
論語にもあるけれど、親を責める前に、まずは子として親の不善、不全を問う前に、何か親の言うことに一理あるのだろうと親を信じて従い、安心させてあげる方や自ら身を修めることを優先することが何より将来の自分の親子関係の基礎基盤にもなるのだと思う。
では、どのように自ら孝行を尽くせばいいのか。
「孝経」にはこうある。
「身体髪膚、之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」
そして、次にこうある。
「身を立てて道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは、孝の終わりなり」
まずは、自分のこの身体は父母から譲り受けたもの。それを大事にすること、怪我や病気をせず、食事を気をつけ、無茶をしないで自らを大切に扱っていく気持ちが孝行のはじまりだとする。そして次に、立身出世し、立派に社会の役に立ち、自分の名前が後世に残るように最期まで往き尽くし、その後は、その両親の教えや人柄が素晴らしかったと他人様に言われるようになったことで航行が終わったとするとある。
親というもの、先祖への孝行というもの。
自分を生んでくれて、育てて、見守ってくれた存在を思うとき、自らの手足や体、そのすべてが大いなる敬愛と慈悲によってあると思うとき、どう感謝すればいいのかと思うようになる。そしてその感謝を思うとき、如何に自分のことを大切に思いやり、親に心配をかけまいとしようとするように正しく生きていくことを切に望み実践していきたいと思うようになるものだと思う。
孝行というものは、自分を在るがままに受容しそれに感謝ができるためにも忘れてはいけない徳性の一つだと私は思う。
最後に、熊本の小学校教師で鉄筆の聖者と呼ばれる立派な教育が遺した言葉がある。私がとても好きな言葉だ。
『眼を閉じてトッサに親の祈り心を察する者、これ天下第一等の人材なり』(徳永康起)
私は祖父母に恵まれ、父母に恵まれ、いつも毎朝仏壇に家族のことを祈念していた後ろ姿を見てきた。其の御蔭でいつも眼を閉じると確かに両親の温かい慈悲心に感謝することができる。
これからの子どもたちには、親とはそういうものだと言い聞かせるよりも第一流の人物というのはいつも自分を大事にできる人間であると伝えていきたい。
自分を大事にするということは、親孝行をするということ。
まずは、孝行をするという気持ちを優先し、日々の感謝を念を深めて身を修め正していく実践を怠らぬように努めていきたい。