合うと適う

人は新しいことに挑戦すると挫折したり、成功したりする。
もちろん、挑戦もしないとなるとその両方もないのだから失敗となる。
何もせずに、挑戦をした気になっていると文字通り分かった気になり無難に生きようとし体験という人生の掛け替えのない宝を見つけだすこともできなくなる。

それぞれの与えられた環境の中で、自分自身の挑戦を続けることが一期一会の出逢いや体験を引き寄せ、感動や感謝という真の生長と自己完成に繋がっているのだと私は思う。

先日、ある挫折をしかかっている人から相談を受ける機会があった。

今の時代は、たくさんの選択肢がある。
自分に合うか合わないかなども、選択肢がたくさんあるのだからちょっとうまくいかないだけで他の方法を探せばいいと自分に言い聞かせている人たちがたくさんいる。

自分を信じるというのは、自分が選んできた道を信じるということに他ならない。
自分が選んだ道ですら、自分で疑っていては、いくら立派な人物からの邂逅を享受しても本人はどうすることもできない。

それだけ、自分が選らんだ道を信じるというのは自己肯定感が必要になるのだろうとも思う。自分の存在が見守られ、あるがままでも自分はこの世で認められていると思えられるような温かい環境があれば人は自分で自己を発掘していくこともできるのだとも思える。

さて、話を戻す。

その中で、自分に今の仕事は合っているかどうかを聴かれることがあった。

人は誰しも、艱難辛苦に出会うと目の前から逃げ出したくもなる。
壁が大きく高ければ、他の方法を探そうとするのは人間の心理だとも思う

特に最近は、ちょっとした困難でもそのものの問題を直視せず、他の理由探しばかりに躍起になっている人をよく見かける。そういう人は、合うか合わないかばかりを一日中考えていることが多い。

そして合わないと決めて退職しても、また同じようにまわり道ばかりして自分の道を見つめようとはしないで年だけをとって体験が深まっていないことが多い。

けれど、そこで合っているかどうかを自問するとき、それは都合のよい解釈、つまりは「合」っている方ばかりを見つめてはいないだろうかと私は話をした。

都合に合わせて、合う合わないを決めていたら体験が深くなることもない。
そしてもちろん、感動も感謝もそこから込み上げてくる機会も喪失する。

いっそのこと諦めればと思うのだけれど、途中から諦めてばかりで最初から諦めて観念するわけではないので諦めが悪くなる。最初からとは、自分で選んだ道だからと自分で納得することを私は言うと思っている。

それを開き直るともいう。開き直ると人は素直になり、すべてを受け容れることで物事と調和していくのだとも私の体験から実感している。

さて、では本当にあう(マッチング)するとはどういうことかと考えてみる。

合うには、もうひとつ、異なる「適」がある。道と同じつくりになっているこの字には、「叶える」という意味もある。

自分がどんな壁にぶちあたろうとも、挑戦し諦めず突き進めていると物事が自然に適ってくる。それが、続けられるということ。

今でも継続できているということは、その志や思いが自分に適っているということにならないだろうかとも思う。

合うと適うでは、意味はまったく異なる。

本当に自分に「あっている」かどうかは今の自分の決断がどちらの「あっている」を優先しているかを考え抜けば自然に分かることだとも思う。

こうやって人は、社会の中で自らの道を志すと様々な天からの試練が与えられる。
その中で、諦めず歩み続けているとその仕事に愛され、竟には天職になる。

何でも都合の良い判断で逃げていたらそれこそ、転がるばかりの転職になる。
転職と天職では、まず取り組む際の覚悟と納得、また心構えも異なる。

今の若い人たちは、過去の教育と選択肢の誤解により歪んだ方向を正しい方向だと勘違いしているし、周囲もそれについて納得させるような機会も与えない。

私自身、子どもたちのためにも、自分にしかできないことを見つけるために自分の選んできた道をすべて全肯定全受容し、自らの力と自立の心に刺激を与え、本気の取り組みを体験できるような環境を用意していきたい。

自分に適っている天職に出会えるように、継続することの重要性を背中で実践していきたい。