自分と他分、自立と依存

依存というものは、自立の反対であるのは当然分かる。

辞書にはこうある。

依存とは、「他のものにたよって成立・存在すること。他に頼って存在、または生活すること」

自立とは、「他の助けや支配なしに自分一人の力で物事を行うこと。ひとりだち。独立すること」とある。

簡単に言うと、もちろん生きているのがどこかの島で一人だけというわけではないのだから依存と自立とは必然的に一人以上、つまりは集団の中でということが定義されていることが分かる。

そしてそこで依存しているというのは、集団や組織の中で自分の分の責任を果たせず、自分だけでは立派に独立した存在として成り立たない、誰かに頼っていて自分ではなく「他分」を存在させているということになる。

観察してみると、すぐに分かるけれど自分ができるはずなのに、自分が本当に社会を形成する組織の一員としての役割や責任は持とうとはせず、その集団や組織に対して所属することを何よりも頼りにしているような感じになり、できなかったときの言いわけや如何に責任を取らなくてよいかということばかりを評論したり理由づけすることばかりに力を入れて結果を誰かに任し自分は知らないとすることすらある。

これは単に自分の力を発揮せず独り立ちせずに、「甘えている」ということになる。

昨日の親孝行にも同じ話であるけれど、いつまでも親に迷惑をかけたりして子としての孝行をしない人も、親にいつまでも甘えているままで良いとし、独り立ちしているとはとても言い難い。孝行ができるというのは、親に甘えないからこそできるものだし、親に安心させ恥をかかせないと自分を大人として律するのはそういう自立のプロセスを経たからこそ確かにできるのだ。

そしてそうやって依存が当然の「他分」の人たちが集まると、如何に他と責任のなすり合いや甘え合い、つまり傷のなめ合いばかりをすることがもっぱら議論の中心になることもある。

自分が責任を取るとは、他に甘えず自分が納得して自分の責任と役割は果たし、「他に迷惑をかけない存在になる」ということに覚悟するということでもある。

どうせ生きていれば他に迷惑はかかるのだから、もちろん迷惑をかけないことはできない。だからこそ、迷惑をかけた分を社会へ還元するという独り立ちする志や忠というものが発揮され他を活かしていくのだと思う。

そして自立とは、「自分」のことは責任も役割も立派にやり遂げてはじめて他と共生しているということになる。

それは自分の決めたことを自分が絶対の境地で納得し、甘えを断ち切られたという「自分」がある。

もちろんそういう人は、最後はできなくてもなんとかなるというような集団や組織への甘えもない。だからこそ、チームでの仕事も円滑に信頼関係を築き上げ、会社での個としての自分らしさを存分に発揮し文化の一部になっていく。

当然、今さらだけれど自立がなぜ大事なのかというのは、「自己実現」の先に自分と周囲の幸せがあるのだから当然生きていくというためにもこれは必要不可欠なものなのは自然界や宇宙観のようなものから考えても良く分かる。

もちろん、人が育つのだから個人差や時間差があり、いつかは人は社会の中で大人になるのだから自立へ向けて歩んでいくのだろうが、死ぬまでその自立への機会も得られない人たちもたくさんいる。

目の前にあるのに、心に甘えがあると観えないのだから仕方がないけれどそれでも何とか流されるといつまでも自分が無意識に依存していることが分からない人になり、「生きる」や社会で「働く」ことの真の意味や喜びも実感することもないのだと私は思う。

そうなるといつも刹那的に往き、享楽的に流され、半人前の二流の生き方を良しとするようになる。

しかし、世界でもこれからの社会でもそうなるとしては自分が成り立たない。

これからはグローバリゼーションへの画一拡張への反発から、多様化、省力化が進み、より洗練された自立した個がチームで活躍していくような社会になると予測できる。

組織やチームで仕事をするようになり、世界では当たり前のこともこの日本ではなかなか上手くいかないのは、一体、「自立」というものをどう考えているかで意味づけが変わっていくのだろうと思う。

もちろん、日本の村社会である皆で乗り切るという方法もあるのだろうけれど、最近は最初の問題意識の決断まで他人に委ね自分で考えず終始他人のせいにしている人はあまりにも多い。

先日、ある園でも話し合いを行った中で気づいたこともある。

厳しい言い方だけれど、もちろんコンサルタントとしての視線で思いやりを持って書くことにする。

当然、自分たちが働く園には社会での使命、そして責任と役割を果たすための理念がある。

その中で、職員として採用されたのだけれどその園を選んだのがまず自分だということを忘れている人がたくさんいる。自分が決めて納得して入園したのにも関わらずいつまでも園長が言うから仕方なくやってますや、主任から言われたからと自分で納得もできないのに働けるというのは、子どもたちの自立を見守る側として果たしてその状況で発達というものを気づけるのだろうかと私は兼ねてから疑問に思っている。

園の中での自分の役割も責任も明確にせず、それを独り立ちしない人たちが、「自律」や「自立」の正しいプロセスに気づけるのかというとやはりどこか甘えがあり、無責任に関わろうとする心構えがあることが多い。

その子どもの将来への責任はだれが取るのだというのか、それを誰かに任せてしまっているような依存した状態で、その子の自己実現、自立を見守ることができるのだろうか?

納得しないで、自分で決めないで、主張もせず、受け身で保育ができるというのもおかしい話だし、そこで働けているということも考えず、集団や組織に依存するというのは一人前のプロとしてどういうことだろうか?

「自分で考えて、自分で行動し、自分で決められる子ども像」を目指している園が多い中、果たして現場の教師やそれを導く人たちが、自分が納得もしていないのにそういうものだからと盲目に働いていて、問題があれば、自分のせいにはせず、責任も取ろうともせず、言われたけれどできなかったとし、所属する組織へ権利と義務だけで働いてきたことを正義だとするような風潮まであって自立していると言えるのか。

最近、園では、親がやっていたから仕方なく継いだのだかなどという二代目三代目の園長までいて、果たしてそこの職員や子どもたちが自立することがあるのだろうかと本当に疑問に思う。

甘えていては、社会で立派に自分を実現できないし、共生して皆と命を分かち合い助け合い共生していくこともできなくなる。

何よりも優しさを利用せず、自分に甘えず、真剣に結果を出すことに全力を尽くす。そして、その上で様々なチームの仲間やメンターの助け協力を得て皆で自立した目標を達成していくことが必要ではないかと思う。

結果に対して甘えていて、最後は誰かが助けてくれるだろうと信じ、うまくいかなくても自分は言われたことは必死にやったとし、自分自身で本当に取るべき責任を取ろうとはしない人も事も決して許してはいけない。

頑張ったのだけれどとし、自分が決めて自立するということからは逃げさせてはいけない。優しさと厳しさ、尊厳と慈愛とは両親の自分への自立の真心から来ていることを忘れさせてはいけない。

頼られる存在になってはじめて、立派に人となるのだ。

人が支え合うというのは、両方が立っているからこそできるのだ。

私は保育というのは、いつも師の言うとおり「総合芸術」だと思っている。

そして、その保育とは大いなる愛や深く広い真心があってこそできるものだとも思っている。なぜなら自立するために、どこまでの環境を用意してあげ、信じて見守るのか?

それは何よりも厳しさもあり優しさもあり、思いやりがあって、そして覚悟も要る。

子どもたちの未来をより良いものにし、子どもたちの人生を素晴らしい無二のものにする。

人生は二度ない。

決してブレず、一緒に歩む園とともに保育道を極めていきたいと切に念じる。