無償の愛と実践

私たちカグヤは保育環境研究所ギビングツリーのお手伝いをさせていただいている。

ギビングツリーとは、シルバスタインの書いた絵本のタイトル「大きな木」がその名前の由来になる。ストーリーは全部は書けないので内容の解釈を私がすると、親が子どもを愛し、子どもが求めたことに対しての可能な限りすべてを在るがままに応え、いつまでも見守り自分を子どもへ与え続けられることに幸せを感じているという内容になっている。

親という字は、もともと木の上に立って見ると書く。

これは、言いかえればこの大きな木のような心で観護るということで、親としての真の喜びを感じて、子どもの自立を見守ることへの豊かな姿勢を学ぶこともできる。

私が最初に、藤森平司先生が語る「見守る」に出会ったとき、そこに自分の中にも確かに在る「無償の愛」ということの偉大さ、その仏心、そして今まで繋がってきた先人たちからいただいた温かい真心を見出だし、さらに身近な祖父母や両親の有難さを心底痛感し、今の時代と社会にとって必要不可欠な大切な「あるべきよう」だと気づく邂逅があった。

そして、そこから保育という道の本質的な尊さを知り、21世紀には何よりも優先させなくてはならない視点・思想だという衝撃と感動に出会った。

あの感動と感激が今でも私の初心になり、仕事におけるすべての決断行動の原点になっている。

テレビのニュースでは、今の日本の子どもたちは愛に飢えているという話を聴く。
そして、どこか満たされない日々をずっと送っているという。

そういう話を聴くと、何だかとても心が苦しく辛くなる。

本当は、自然である子どもたちがより自然に活き活きとし、大人が言うようなことよりも自分の感じることの方が大事だということを知ることは、この人間世界の現実の中で自立し生きるための命の糧になり、それを生きるための力にして素直に立派に成長していくのだ私は思う。

しかし、今は、誰かが決めた正解を押しつけられ、目に見える世界を何よりも重視され、芸を早く満たすことを優先され、道にあるような愛や敬などの徳育などが特に衰えてきているように思える。そして周囲との調和も無理やりに偽装され、思いやりも伝わりにくくなり、個の自立ではなく、単に孤立している人がたくさんいる。そして助けてくださいとは言えず、一人で何かに取り付かれたようになっていて共倒れしている人ばかりが目立つ。

そしてそれは、人間力が落ちてきているということを意味する。
人間力とは、人間が人間にしかできないことを発揮していくということ。
それは自然の中で、叡智を持って心を磨いていく道でもある。
今では、情報化により測度が増しその環境が著しく悪化してきているようにも思う。
人は人間力を身につけることにより、より自然に近付き、共存共栄していくのだと私は思う。

古人の言によれば教育とは、本来引き出す事を言うと定義されている。
つまりはもともと「人間らしいもの」をどれだけ引き出していくのかを言うと私は思っている。

たとえば先日、あるインドの有名なヨガの先生の講演を拝聴してきた。

開口一番「世界人類は皆家族だ」と、楽しく明るくおおらかにユニークを交えながら笑顔で仰っていた。それをヨガを通して人間力を引き出し、その輪を広げている。

余談だけれど、この方はヨガの全てのポーズはほぼ満3歳までに子どもたちがすべて行うポーズだと仰っていた。何も私が考えたことではなく、子どもは自然にそれをやっていると言う。だからこそ、それをやることが癒しになり、歪みをなおすことになるということだとのことだ。

つまりはなるべく幼児期に何もしないで自然にやっていたことを思い出しながら元始体験を通じて本当の自分を取り戻すという作用に力を入れるということ。

しかし、今のように不自然なことを自然だと思いこまされ、当たり前の真実も捻じ曲げられ、誰かに無理に刷り込まれた人たちの人間力を引き出し、自然に戻すというのは本当に難しいことだといつも仕事を通して実感する。

人間らしいものが分からないから、引き出されず、付け足そうととばかりするから人間がますます機械っぽくなっていくのだとも思う。

長くなるので話を戻せば、無償の愛とは人間らしさから自然に現れる見返りを求めず相手を真心で思いやる気持ちがいつも維持できているということを言う。そしてそれにより、御互いが自立共生し感謝し、満たされていく、学んでいく、生きていくという仕組みになっている。

自らの日常を内省をすると、色々な刷り込まれた現実もあり、なかなかその無償の愛を人間らしく実践することができていない。周囲があまりにも歪んでいることもあるけれど、真眼を開き続けているような実践がなければそれも雲がかって見え難くなっていく。とにかく、実践を行うこと、学び続けることで塵が積もらないようにいつも清浄にしていかないとと肝に銘じている。

つねに忍び待つにも、愛が要るし、心を澄ますにも確かな実践が要る。
それが見守る道の端々に現れるから、より深い内省が何よりも日々新たに必要になる。

私は、このギビングツリーの役員の一員として、より自らを省みて実践を深め、質を高めて道を深めてこの会が目指す理念を体現していきたい。

子どもたちの行く末のいたるところにある大きな木になり、子どもたちへ無償の愛を与える存在を増やし続けてかんながらにあるような八百万の杜を創っていければと願う。