働くということ

一つのことを定めて社会貢献するためにできた組織には、役割として経営者や従業員が居る。外国ではそれをリーダーやフォロアーといったり、キャプテンやクルーなどという言い方もある。集団になれば、必ず縦と横で紡ぎだし織り成しながら反物にしていくように力をあわせてひとつになっていかなければ大きなことはできない。

しかし、その組織の役割の表現や言い方はどうにでも良いとして、とにかくそれぞれの立場での役割とそして目に見えないけれど確かに必要な「道」というものがある。それはたとえで経営道や従業員道といっても言いし、キャプテン道やクルー道とも言い換えてもいい、とにかくそこには正しいことを行うための「道」がある。

経営者の道はたとえば、リーダーとして自ら先憂行楽の心で仁や愛の実践を行い、自らがまず率先垂範しその模範を示すことで人々を感化し導き、その人々それぞれが自分らしくその能力を発揮できるように最高の環境を用意し、信じて見守る。そのためにも理念を掲げて信念を練磨し、様々な出来事に正対し修養し、只管に自らに天から与えられた脚下の道を歩んでいく。

何よりも、先に憂い先を歩き、思いやりの心を尽くしていくことで周囲を豊かに実り在る世の中にしていくこと、そういう人がいるから新に道が開け会社が共生する社会のお役にたっていくのだと私は思う。

そういう人でなければ経営の道にはならず、エゴや自分のことばかりに囚われ結局は一時的にしのげても社会に多大な迷惑をかけていくという意味で、経営者の道としては失格でありそれではあまりにも志に欠けるのではないかと思う。

商売の道も、良い思想を良い商品を供給し、それに関わる人間を育てすべての人がそれぞれに自分らしく自立して生きる幸せな世の中にするという「正得道」でなければ其れは必ず本質には近づけず淘汰されていくのだとも思う。

そして、次に従業員として、クルーとしての道もまたある。

従業員はクルーとして、そのリーダーに信じ仕え、日々、自らの忠義に反省し、感謝し、素直に自らを高めていく事に専念しながら理念を学ぶ実践をし、それぞれに与えられた自分にしかできないことで全身全霊で会社や組織のお役に立ち、その環境の中で自立して社会を支えることにあるのだとも思う。

そういう人でなければ、エゴから自分勝手のことばかりを只管に主張するようになり、自分の権利ばかりを会社や社会に要求し、作業ばかりをやるロボットや機械のような心ない人になったりもする。そして周囲の仲間同僚やリーダーを蔑ろにし、人の心よりも作業ばかりに没頭するようになり次第に信頼を裏切ることになる。するともちろん経営者の足を引っ張りお客様や仲間達、そして社会に迷惑をかけるばかりになるという意味で、これもまた従業員の道としてはあまりにも失格でありその志に欠けるのではないかと思う。

もちろん、どの道も基本として素直であることと思いやりが必要なのは言うまでもない。

最近は、コンサルティングをしているどの職場でも従業員としてクルーとして、素直に「はい」といえる心、つまりは実践すること行動することに道を見出し心を尽くさない人が増えてきているように思う。

働き甲斐も遣り甲斐も人から与えてもらうものではない。自ら従業員としての道を実践してこそ得られるものだと私は思う。

仕事を通じた道は信頼されることが第一、それ際できればほぼ100パーセント仕事に自らの命丸ごと捧げて取り組んだことになる。そして、そうすることで常に自分が従業員やクルーの道を歩んでいることを自覚し、その道として自分の命を預けた人やリーダーを育成しともに歩んでいけるというものでもある。

上司が部下を使うのは当たり前で、本来は部下が上司を活かしてこそ一人前。
部下が上司に従うのは当たり前で、本来は上司が部下を活かしてこそ一人前。

人をそれぞれに活かしながら成長し自立していく組織には道があるのだと私は思う。

そしてそれはどんな相手であれ、自分と深い縁があった方である以上、その人から変えてもらおうと甘えた依存したアマ心、つまりは幼稚心を捨て、自分自身が自立して自分から変わり、相手にも良くなってもらおうという自律したプロ心、つまりは使命(ミッション)を尽くすのがそのクルー道の一つ。

カグヤでも行っているかんながら経営とは、そのミッションを尽くすことにこそあるというのは、カグヤ道に照らせば理解できるようにしている。そして本当に理解するには何よりも日々の信頼を積み上げる揺ぎ無い実践が裏づけし、その人を立派にしていき自立させていくのだと私は信じている。

理念も信念も、まずはそういう道の上にあることを決して忘れてはいけない。

まずは、私自身、伝わらないことが多い日々の中でもさらに社会のために仕事の意味をもう一度深く玩味し、本来自然にやることになっている当たり前の会社や組織の中で働くということをそれぞれの道を実践していくことでカグヤで変わらず取り組んでいこうと思う。

経営者には経営者の道、従業員には従業員の道があることを実践を通じて自覚しつつ、日々の新たな仕事に正対していけるような実践に勤めて生きたい。

子ども時代の人権を守る

先日、コルチャック先生を研究しているワルシャワ大学のタイス教授夫妻が来日されていると知りその講演を拝聴してきた。

改めて紹介するとコルチャック先生は、本名をヘンルィク・ゴールドシュミットといい1890年末から1930年頃までのポーランドで、小児科医、孤児院院長、また作家として活躍したユダヤ系ポーランド人。その生涯をかけて、”子ども”から学び続け、その人間としての価値を探求した人物と言われる。

そしてそのその思想は、国連の「世界子ども人権宣言」の支柱となり、今、世界の教育界で再評価されている。

人々の心には、戦争下、人心が荒廃している最中、子ども達を最期まで守り続け子ども達と共に命を失い、思想を全うした人物として心に留まっている。

私はよく感じるのだけれど、有名な人たちや権力者がいくあら巨大な財産と権威でお墓や何か建造物をいくら遺していたとしても本当に残っているものは、人の心にあるものであり、その人物の思想、その人物の徳行や真心だけが時代を超えて引き継がれているようにも感じる。

そう考えると、会社をやっていようが学者をやっていようが大事なのはそういう自分を超えて世界や生きとし生けるものや人々のために「真に生きた証」であるようにも感じる。真理真実が人生に於いて必要なのは、そこにのみこの世の理と実相があり、その真の実相こそが本当に形あるもの、「あるがままのもの」だというからだと私は思う。

だからこそ、あまり目に見える力はいらないのであり、大事なのはその思想や真理を摑み、それを自分の分度により自然に大きくなったり淘汰されたりするのがもっとも世の中のお役にたっているようにも思う。

何も自然は、生き残ることを善とするわけでもなく、淘汰されることを悪とするわけでもない。ただ、そこにどんな意味があり、何を為したかという実相時実だけが存在したという空の境地であるというのみなのだろう。

それに最近はよくコルチャック先生のような偉人や幕末期の立派な教育者を含め、世界各地で生きた思想家がテレビやマスコミ、その他、民衆の心に喚起されてきているけれど、私の主観だけれど死者が時代を超えて現れてくるというのは何か今を生きる私達にやってほしいことがあるからだと認識している。

人間は誰でも突然思い出す人がいるとき、必ずそれはその時の自分に対しての何か大切なメッセージを伝えてくるのだと思う。ただそれを気づかないのはそのメッセージまでは分からないということ。なぜそれを受け取れないかというと素直である心を持続していないからだと私は思う。何にもまして、目に見えないものと対話をするにもその力を恩恵をお借りするにも素直な心がありきであり、その素直さがあることではじめて人間は人間としての価値を創造することができると私の人生体験から感じるからだ。

つまりは人が自然に帰す時こそ、すべて万物をあるがままに信じて受け取るという、自然の心、素直な心、かんながらの心が生まれているのだとも私は思う。

人は、何を聞いても分からない人と、何も聴かなくても受け取る人がいる。別に観察しなくても洞察しなくても素直であれば、自然に受取れる。それが人間の持つ妙味なのだと最近は特に感じる。

話をコルチャック先生に戻す。

その講演では、その時代の歴史的背景についても話があった。ポーランドでは第二次世界大戦で約600万人以上の人が亡くなり、その中の200万人がまだ幼い子どもたち、そして戦後は150万人の子どもが孤児になり道端に溢れ悲惨な社会のなかで育つことになる。時には各地へ連れ去られたり、放浪して行倒れたり、飢餓をはじめ孤独死など、様々な劣悪な環境下で育っていった子どもたちがあり、その経過を研究してその人たちがその後大人になってどんな風になったのかを追っていった話などもあった。

たとえば幼少期、子どもが愛を感じずに生きると短命に終る。その短命も恐れや不安、酷い孤独により悲しみと苦しみばかりに苛まれ不幸を感じながら生きていた人たちが多いという。心についた傷は、その後、その子を一生苦しめていたとのこと。人は、子ども時代と大人時代が切り分けられないのはこういうことからもよく思う。

私は今、生きていて思うのだけれどこの世が素晴らしいと思えなければ、人間はきっと長くこの世に留まっていたいとも思わないのかもしれない。感動が在る人とない人では、その人生への執着に差があったりすることで分かることが多い。

たとえ今のような仮初の平和な時代であっても、人の愛を感じずに子が育てば、その子の一生に大きな影を残すことはいつの時代も同じなのだなと思う。そんな思いを子どもたちにさせないためにも、人々は教育というものを通じて子どもを愛して見守るのだとも思う。よりよい子ども時代があるからそのままその人は、社会を信じて人間を信じて、素直にみんなを愛していけるのだと思う。

そして講演の二部では、そのコルチャック先生の思想や哲学についての話しを拝聴することができた。その時代、コルチャック先生が世界へ訴えていたもの、つまりそれは子どもの人権。ここでの子どもの定義は、自分の子ども時代を思い出してこんな悲惨な戦争を終らせてもっと世界を平和にしていきたいという真の願いが篭められていたように私は感じる。

コルチャックの著書を拝読すると、人間には色々な人たちがあることも全て知っていた。悪い人たちがいることも良い人たちがいることも、そういうものは当然だと思っていた。それはコルチャックには対して関係がなかったようにも思う。

だからこそ、そういう人たちが子ども達の頃のような気持ちで共感しあえば自然に人間は他と共生しようとし、仲良く平和に幸せで居られることも知っていたのだと私は感じる。

これは偉人の言葉を借りれば、人類は皆兄弟という言葉も、すべての人々は家族、そして私の言葉にすればすべての生き物にはすべての神が宿るかんながらなのだとそういう世界そのものを深く思いやり仁慈する大いなる受容の実践があったのだと私はコルチャックにいつも感じる。

人間は置けれた環境や、今までの刷り込みにより、色々と迷い、悩み、不自然な行動を通してまたゆらゆらしていくもの。だからこそ、もっと大きな愛で包み込むという真心が私達の心には必要だと訴えかけてくるものだと思う。

誰でも必ず、子どもだった時代があったはず。その時代がなかった子どもはいない。だからこそ、その時代を奪い去る権利は大人にも誰にもない。なぜならその大人たちだってその子ども時代があったからこそ幸せを感じることができているからだ。だからこそ、子どもは大人の道具でもなければ、人形でもない、ペットでもなく、自分そのものの子ども時代を取り除けないことを知るべきだというのだと思う。

子どもの頃、そのとき、私達はいろいろなものに興味関心を持ち、無償の愛を受けて、すべての世界は七色にキラキラと光っていた記憶があった。それをもっと信じて、見守っていけば、本当の自分のやりたいことに出会えないだろうか?そしてそれをやれば世界は幸せになると思えないだろうかと、問うのだと思う。

私自身も子ども第一主義の理念がある、つまり私達が守りたいものは、子どもそのものだ。子どもを守らなかったら、子どもに人権を与えなかったら今の自分はあるはずもなく、周囲の幸せもあるはずもない、つまりは子どもがなかったら生きる意味すらないと私、野見山広明という自分が何よりも使命としてそれを感じている。

人は必ず、それを分かってくれる、その愛は多少ならずとも生まれた以上受けたことを忘れるはずもないからだ。母や父の愛、今まで受けた太陽や水、自然の愛、無償のものそのものに感謝するような感動の日々を送りたくない人はないはず。

私自身、子どもの頃の色々な愛や真心を大事に、自分自身の社業を通じてコルチャックが遺した思想を受け継ぎながら、この今、この瞬間に一期一会に実践を深めて生きたい。

生きる

人には様々な運命がある。

寿命などもそうだけれど、いつどこでどのようになるのかは普段は分かりはしない。その時が突然迫ってくるという感じだろう。しかしその時のその覚悟も、日ごろ如何に準備していたとしてもいざとなるとその準備が出来てきていたかどうかが試される。

私自身、過去に何度か九死に一生を得たことがある。
交通事故にも何度も遭い、また病気もした。

そんな時はあぁ、生きていたんだなぁと実感しても、また日常に戻るといつの間にか当たり前に生きていることも忘れてしまう。

そうやって何でも当たり前になってしまうと、人はそのものに感謝する気持ちをなくしていく。
日々の衣食住も、整ってしまうとそれが特別なものではなくなってくる。

先日、「いのちの食べ方」という映画を見た。
そこには、スーパーに並ぶまでにどのように生き物が加工されて出てくるのか、その裏側で行っている加工の過程を映像に修めたものだ。

食べるために造られていくいのち、そのいのちを粗末にする人間たち。
そういう目に見えないからと考えなくなってしまうのは人間の持つ深い業かもしれない。

目に見える世界しかない人たちには、そのいのちの有難さが分からない。目に見えない世界があることを知っている人たちは、いのちの有難さとその尊さを知っている。そして目に見えない世界を大事にしているからこそ感謝する境地も生まれてくるのだ。

本当は今が在るというのは、不思議なことであり異常なこと。

本来はこんな不自然に豊かに生活をしているはずがないと気づく人たちは皆、昔にあった人間の分度やあり方を知っていて、質素倹約し、何でもあるものはすべて勿体無いとし、目にみえない有難い恵みに深い感謝をし、日々を丹誠篭めて生きてきた。

そうやって自然と共生していくことで本来の幸せを感じて生きてきたからこそ私たちが今あるということになる。

なぜ一昔前の人たちが、貧しくても豊かに幸せに生きれたのか?
そして今の人たちが、なぜ裕福でも貧しく不幸せになり死を選ぶのか?

それを思うとき、目に見えない世界が物質的豊かさによりどんどん離れていく悲しさを覚える。教育というもの生活や信仰というものを割り切られてしまい、次第に心の平穏や平安が去り、不安と競争の社会に変わってきた。

本来の人心の思いやりの有難さ、自然の恩恵の在り難さ、そういう当たり前であるけれど掛け替えのないものを亡くしていく人々の今にこそ本当の深い悲しみと苦しみの原因がある。

特にこれからを生きる子ども達は、そういう当たり前にも気づけなくなりどこか心がさらに不安定になってきているようも思う。私たちの子どもの頃、人は自然であること、人間が思いやりで出来ていることを知っていた。

しかし大人になれば目に見える世界ばかりを信じ込まされ、それ以外は信じられないような現実を突きつけられていった。

本当は、大人になるというのは目に見えない世界をしっかりと捉え、自分で自分を信じられるようになり現実を素直に逞しく健やかに共に生きていくことを覚えたのに今はその当たり前もない。

今、起きている全ては過去の人間が人為的に行った不自然がカタチになって現れているものがほとんどでどんな出来事も深くその意味を感じれば、「知らなかった」というだけで過去の贖罪の上に成り立った平和な生活があるように見えるだけだということ。

私たちは、もっと生きるということを感じつくさなければいけないと思う。

「生きる」というのは、この今をどこまで無駄にせず、いのちがあることの真の豊かさに気づき生きていくということにならないだろうか?

目に見えない心や思いやり、そして自然の畏敬や恩恵から感謝まで導きだせるような心の眼を持ち、豊かに歩むことこそ、人間の叡智だと思うし、それこそが真の大人に求められる知性だとも思う。

子ども達に何を譲っていけるのか?

持ち物や目に見えるものはどうせその子ども達を拘束し、不自由が彼らの心を傷つけていくかもしれない。だからこそ、まずは私自身が生きるということをよ吟味し、忘れないように死の意味を見つめながら歩んでいきたい。

生まれたままの子どもが持つ自然の心をどれだけ私たちが見守っていくことができるか、そこに子ども達の創る新しい未来と豊かで平和な社会がある。何でも大人の言うことを正しいとしていたら、刷り込みばかりを与えてしまい本来の彼らがやりたいことができなくなってしまう。

子どもを信じて任せれば必ず社会をよくすると信じること。
それも当たり前のこと。

こんな当たり前の日々、当たり前のこの今に、何も感じなくならないように、生きることの出来る今を有難いとし、真心を篭めて歩んで生きたい。

変革期

子どもを取り巻く環境は古いものと新しいものがある。

古いものは、昔のやり方に固執し、そのやり方がもっとも正しいのだと信じ込み、何も変えようとはせず見た目のところばかりを新しくすることに力をいれている。新しいところは、昔のやり方にこだわらずに自分自身を刷新し、新しいものを受け容れ、昔のやり方を今にあうように工夫し改善を続けている。

ちょっと前にある組織のお手伝いをする機会があった。

そこは、何十年も前から組織を維持するための方法を継承されていて、常に旧体制からの上位下達の仕組みが導入されていた。

一般的な商売の関係とも異なり、どこかからか毎年自動に入ってくる予算で運営する組織というものはどこか組織運営に独特の文化のようなものがある。派閥ではないけれど、誰を中心に組織するのかで組員という組織の一員としてそこに所属することが成り立ち、そこでどのように振舞うかが重要になる。

何々組ではないけれど、その都度、組の長が代わればどの組に所属して活動するかがもっとも組員の中では重要であり、その組にいる間は必ず組の長に従うという絶対ルールがある。そうやって組織を運営することで象徴的地位を確立し、様々な集団としての総勢圧力を外部へ向けてかけていくこともできる。

もちろんそこに関わる業者はよく力関係を見抜き、自分の立ち居地を上手に振舞うことでお金儲けをしているところもたくさんある。

もちろん、単体では大勢に向けて言いたいことが言えないから力がないからとそれぞれの利権を維持するために団体組織を創る。

その組織力の維持のために、様々な上位下達の仕組みや集団を維持する村文化を取り入れ組織に加盟するものを守ろうとする。

しかし、現在いくつかの業界ではすでにその組織の力が衰えている分野が増えてきているようにも感じる。もし、それぞれの施設が組織に頼らなくても単体で運営できるということになればそこに組織の影響力は働いてこない。

今は、個々の判断が早急に求められるITの時代に入っている。
それに益々個人主義は進み、格差が広がり、臨機応変にそれぞれの能力で自立していくことが求められる。

今までどおり、いつか誰かが何とかしてくれるということではどうにもならなくなってきている。誰かが言っていたからや、皆がそうだからという判断に委ねるのではなく、情報に対して自分で選び判断するという、自立した主体的な関わりが選択する上でも必要になってくる。

組織自体も、昔と環境が変わってきているのだから今の時代の組織に変えていく努力なくして組織維持などできるはずがない。しかし、よく観ているとあまり組織維持の仕組みは変わっていないし、きっとこれからもそうそう変わることはない。

なぜなら今まで、それで上にいくことが良かれとして、上位下達の文化を維持するために努力しそれぞれぐっと堪えて我慢してきたことが邪魔をして新しい組織体制に変われない。

若い人たちが上にいくのでもなく、古い人たちがいつまでも同じ場所で睨みをきかせているようでは、なおさら新しい意見なども出て来ることもない。
そして若い人たちも文句は言っても、自分たちも旧い体制で出来上がった組織であることに気づいていないから結局は同じところで改革と言っているだけで別に改革しているわけでもなく、批判をしているだけという構図になっている場合が多い。

厳しい言い方だけれど愛を持って語るなら、そこまでもし本気だというなら、地位や名誉などは受け取ってはいけないと思う。もしも受け取るならば、それなりに受け取っても気にならないほどの自らの人徳人格を磨くことが先だとも私は思う。

そう考えると、組織に於いて変革期に地位や名誉というのものは何も意味をなすこともないしむしろそれは邪魔なだけだ。

組織に依存して、組織が自分を大きく見せるからと本来あるべき努力を怠れば自分自身が新しく生まれてくるものたちの壁になり、今まで保守してきたあの正義も歪められ全体が衰退してくのは歴史を学べばすぐに理解できる。

子ども達のことを考えると、いつまでも古いやり方やその文化を頑なに守ることに力を入れるのではなく、もっと新しいものを柔軟に取り入れ自分自身が変われないなら、変われている人たちのことを邪魔せずに見守り、思い切って権限を移譲していくことがこれからの組織運営には必要だと思う。

若い人たちや子ども達がやりたいと思うものをどう支援し、援助し見守るかが本当の上位の人たちの卓越した能力が問われるところであり、本来そこが上達した人たちの持つ品格だとも感じる。

周囲の取り巻きも含め、もし自分が今在るのが本当にその人の御蔭で本気で恩を感じているならもっとその人自身の人格が光るような実践ができるように真摯に諫言を持って関わっていくことだとも思う。

私自身も大いなる思いやりを以って、この時代の変革期に相対していきたい。
それが今までの報恩奉公とし、自らがまず信念を貫いていきたい。

理想を追う

現在、色々と政治を中心に様々なことが業界内で起きている。

それをよく観察していると、いつも利権と利益のことばかりを言い争い最終的には保身のためにやっているのだろうなと思うことが多い。それぞれが子どものためにも自立しようという議論ではなく、如何にお互いに主権や依存から抜け出さないでいようという議論ばかりになっている。理由がみんなを守るためというのはどこの業界も同じだなと感じる。

たとえば、子どもたちのためにと言っても子どものための保育を実践していればそれは自然にその子どもたちからの立場で話ができるはずなのに、実際は大人の身勝手な子どものために良くないという一方的な言い分に難癖つけて言い放つのが子どもの代弁者である大人の役割になっている。きっと子どもはもっと当たり前のことを望んでいる、それは自分たちが生きることをもっと見守る環境を用意してほしいということだけ。

そして散々今までは、そういう大人都合の身勝手な言い分の中で流れにあわせてきた癖に、誰かが変えてくれるからと大多数の意見に合わせ日和見に従ってきた癖に、何かがあるとまたここでも誰かのせいにして自分がこの機会に変わろうとはしない。

そうやって日々、誰かのせいにして自分の名声や功績だけをかたくなに守ることに何の意味があるだろうかと思う。銅像を造ったり、名誉を得て写真に飾られたりが目的で仕事をするのではないはず、本当は子どもたちが幸せになることを何よりを望んでいるはずなのに実際は大人側の利権に巻き込まれて自分を見失ってしまうことが多いのはとても辛い。

私は人間が好きで、皆が良くなることをいつも願っている。
しかし、それにはたくさんの誤解を解いていくことが求められる。

世間では、一般大衆の大多数の意見にあわせる出る杭にならないことが皆と調和していると定義してくる。みんなと仲良くやることがもっとも正しいとみんなで信じている。しかし、それは誰も何も解決に対して責任を持たないという集団任せの他人任せになっていないだろうか。

本当に子どもを守りたいや、世の中を良くしたいと切に願うならばそんな大多数が皆で良いという意見に委ねることはしないだろう。理想を高く持ち、そこに向かって信念を磨き、自分を貫いていこうとすれば、自分がそちらにいかない理由を語られ逆恨みされたり、嫉妬されることもあり、疑念を抱かれたり、風評を流されたりもする。

その人なりの信念があれば、それをもっと寛容の心と思いやりで認めていく社会がなければ子どもたちだって将来、自分がやりたいこと、世の中に立派で生きて貢献していこうとする気持ちを広げていけないのではないだろうかと本当に心配になる。

時代が過ぎるのだから環境が変わるのだから、子どもたちは常に修正をしていき本質や継承する本当の姿を守るために変わり続けていく必要がある。なのにそれをできなくするのが前の時代の人たちだとなると、子どもたちは自分たちを信じてくれていないと無力感に苛まれたり諦めて絶望したりと思わないだろうか?

そしてもし今の時代を生きる大人が声高々にそういう事を憤って語っても、周囲はあなたも同じ穴のムジナだろうと一蹴されるというのはあまりにも悲しい。なぜならそれは人間が欲を持っているからということになる。

しかし、欲があるやないばかりの議論をしているから分かり合えないのではないか。人間の欲は悪いことでも良いことでもない、それは生きるということに直結しているものだから欲があるからどうからというのはあまりにも短絡的だと私は思う。

故安岡正篤先生が

道徳とは人間の小欲を郤(しりぞ)けて
大欲を全(まっと)うすることだ。
欲を離れて道はない。
ただ大志あって、
コセコセした小欲に拘泥(こうでい)せぬだけだ。

とある。

欲を超える先に大志がある、それは人間が自分を越えたところで何かを為したいという徳や道に根差した人間の本来の知性がそうさせるのだからそれはあるがままだということにならないだろうか。

大欲があるというのは、大志があるということに気づかない人たちがあまりにも多いだけだと思う。

平和な時代、満たされている時代になるとそういう志を磨くほどの危機感と問題意識を持って子どもたちの未来の責任を持とうとする人は少ない。それに今の時代は、狭く限られた人たちの利益を優先するために組みかえられた社会が真理を覆い隠し不安や欺瞞を煽り立てそういう心ある本物の人たちが出にくい世の中になっているようにも感じる。

しかし、誰しも世界は今とても重要な局面を迎えていることは分かるはず。

だからこそ、他人のせいにせずに自分自身がまず変化を恐れずに、子どもたちのために変わっていこうとしなければ何も変わることはないと私は確信を持ってそう思う。

自分が立ちあがらなければ、どうにもならないということを実践することが、何よりもこれからの時代を創る愛する子どもたちが自分で思いやりのある未来を切り開くのだという勇気や行動にも繋がっていくはず。

もっと大人たちは「思いやり」の思いを持って遣り合って欲しい。
未来のために我慢することがより豊かな社会を創ることを思い出して忘れないようにしてほしい。

譲っていくということ。
推譲するということ。

人間らしい尊厳や知性は、愛と平和を願う遠大な理想を追う心にこそ生まれるものだと私は思う。

自分たちの今をたとえ犠牲にしても、その犠牲以上に今までの先人の人たちが私たちに譲ってくれてきたものに何よりも感謝し続け、同じ思いで同じものを実践し生きていく子子孫孫へ一つでも多くの価値を譲っていって欲しい、つまり怨得ではなく、恩徳を優先してほしい。

自分が欲しがらず、「子どもが求めた本当の命」の方を与えていければきっと自然になり、この世は良くなっていくと信じて分かる人たちと一緒に理想を追うのだ。

理想を追う先にこそ、時代を超えた本質の継承があり、俗欲を超えた真心があると私は思う。

まずは自分自身、色々なことを言う人たちへも見守ることで感化できるような損得を超えた理念の実践を重んじ、不動の信念へ歩みを強めて昇華していきたい。

敬愛する吉田松陰先生や二宮尊徳先生のような真理と本質を求道することをより信じ念じ、まずは自分がどうなろうとも偉大な慈愛を優先できるような義の心を鍛錬していきたいと思う。

嗚呼、この今、、、

今、この瞬間に、すべての命を籠めて子どもの未来の自由を世界へ価値得たい。

尊厳愛

今年最後のGT主催のセミナーで藤森平司代表が講演をした。
毎年続けているこのセミナーでよりシンプルに明瞭になっていく藤森先生の理念に触れることは本当に有難いことだと思う。

人は、深い哲学と真理を探究する求道者のことは知りはしない。
その人がどれだけ孤独に道を貫くために、自分を律し、社会のために自分を遣っているかということまでは理解することすらもできない。

道を同じくして歩んでみてはじめて分かる境地だし、それが分かるというのは自分もその道の素晴らしさを共感し、自らが歩みの実践をしているということになる。

ただ話が良いからや分かりやすい、とても感銘を受けたとだけで何もしないのならばそれは道が分からない人だということになる。

人は、それぞれ自分の使命がある。

この世に生まれてきた以上、何かしら必ず生まれてきた意味が存在する。
その意味を感じつくしていけば自然に、自分が必要とされ社会の中で自分が使われ幸福に満たされていく。

だからこそ、常に真理探究を失わず本質を見極め、まずは自分の脚下の道を自立して歩むことが大事なのだと思う。

今回の講演の中でも素晴らしい気づきをいただいた。

人は強くしていかないといけない、強くすることでより良く本人が生きる力を手に入れ社会で立派に自由に自分らしく生きれるようにしてあげるのが養育でもある。

そしてそのためには、多少は限界を超えることで強くさせることも要る。

普段人は、自分が思っている限界までやるのは誰でもやる、そしてそれが限界だという。ちょっと辛いと限界は超えられない、しかしそれだけをやっていても強くはならない。本当に強くなるには、限界のもう少し先、一つ先をやることでその限界を少しずつ広げていける。

アスリートなどもそうだけれども、自分を知ってくれているコーチからもう少しだけと要求されることに応えながら自分を高めていく。コーチがそれができるのは、自分もその体験をもって掴み、また相手のことを深く思いやり共感し、強くしていくことがどういうことなのか、またその適切な力加減が観抜ける専門性があるから行うことができる。

子どもの発達も同じで、どこまでいけるかは見守る側の専門性が求められる。

たとえば、子どもが何かを頑張っていて限界だと言うとすぐに可哀そうだと思う人がいる。誰でも、ついきつそうな姿、シンドイ様子をみると可哀そうだと同情する。

しかし、一旦それだけを切り取ってみると可哀そうに思うけれど、本人がやりたいと思っていること、人生をよりよく生きようと思っていれば、それは可哀そうなことではない、それは相手を自立させるために強くしている取り組み、生きる力を手に入れているのだ。

可哀そうと思うから大人が先に全部やってしまう、それがいけない。それが見守るではなくやってあげるということ。

情けは人にためにならずとは、こういうことを言うのだと私は思う。人は、やってもらうと自分自身が元来持っている能力を引き出すのを止める、つまりはその力を失ってしまう。先にやってしまうと、その能力は要らないのだと認識してそれ以上は二度と使わない、むしろその力は自分にないのだと先入観を持ち思いこむことになる。

そうなると、もう次はその自分の決め付けを裏切るような出来事が起きるまで気づくこともないのだとも思う。

藤森代表は言う、その人をできないからと可哀そうだとは思ってはいけない。
本当に可哀そうというのはどちらがかわいそうなのかと思うことだと。

私の解釈では、自分自身で生きる力をつけていかないといけないのだから、それを失わさせることが本来の可哀そうなこと。そこを見捨てるのは、優しさではない。

自立することは決して可哀そうなことではない。
それは、本来、自分がよりよく生きていく、幸せになるために必要なのだ。

だからこそ、私自身、ついきつそうだったり、つらそうだったりするときに、可哀そうだと思う前に、しっかりと本人に共感し、受容し、その人が自らの持っている力で自立し、自分らしく生きる力を手に入れるようにそっと援助していきたい。

誰かが見てくれている、見守っているということがどれだけの自分の内面にある自信と力を引き出してくれているかということをいつも感謝し、そういう存在であろうと改めて思う。

子どもたちのままで

世界では様々な教育が行われている。

しかし、無理を承知で世界の教育を大きく分けると子どもたちがどのような社会を未来に創るのかを優先して大切にしている国と未来を大人主導の管理を優先して創ろうとすることを優先している国の教育があるようにも思う。

それは子どもたち自身に未来の責任を持たせ考えさせ決めさせるという子どもたちのことを信じる教育と、大人たちが決めたものを教え込み義務を課せ強制するという子どもたちのことを信じない教育だと分けてもいい。

つまり、子ども主体か大人主体か、見守るのかやらせるのか、さらに言いかえれば、子どもが正しいのか、大人が正しいのかということにしてもいい。

もともと子どもが大人になるために、自分自身から子どもであることを否定するというはいったい知識を何のために学び、何のために偉くなりたいのか本当に不思議でならない。

人生や個性は、そのままであることが最も価値があることなのに余計なことをして利口になっていくからこそ何も分からなくなってくる。

自然の叡智や、生きるということの本質、さらに自分というものもそうやって失くしていく。二度とないたったひとつの自らの人生を本気で輝かせて生きている人たちはいったい世界にどれくらいいるのだろうか?

先日、視察した研修でも、教師自身の自らの子ども時代の体験を通して、如何に大人が刷り込まれた知識を捨て去っていけるかをテーマに皆で必死になってワークショップなどを行い刷り込みを取り除いていた。子どものことを分かろうと必死で悩み、迷い、学んでいる。

それを観ていると教師という職業は大変なものだといつもながら感じてしまう。

子どものことは、子どもが何よりも分かっている。
これは当たり前のこと。それは子どものままだから。

しかし大人になればなるほど、子どもの事が分からなくなる。

これほどの愚があるのだろうかと感じてしまう。

人は誰しも、自分の方が上だと思った瞬間から傲慢になっていく。「天は人の上に人をつくらず」とあったけれど、あれはとても本質的な文章だと私は思う。人間は、相手よりも上と思った瞬間から自分の方が相手よりも偉いと勘違いがはじまる。そうなると、相手の中にある自然や人間の素晴らしさが観えなくなり余計に様々な知識で応戦しようとする。つまり迷い惑う。

本当は、自分よりも相手や周囲の方が素晴らしいと尊び敬っている方が人間は原理原則や自然と同化している状態になっている。しかし、それがなくなるから分かった気になる。そして分かった気になるから、次々に周りを巻き込み余計なズレがどんどん広がっていく。

そしてそれが当然だと勘違いして分かった気になった大人がいつまでも子どもに何かを補うことばかりを考えているから、子どものままにして引き出そうとしないから、より教育のズレは深く刻まれ取り返しがつかなくなっていく。

しかし、人間はそうはいっても今は原始時代でもないしこの今もすでにズレている最中なのだから何かをすればするほど矛盾を生んでいくのは必然。もうすでに私たちの21世紀にもなると、情報が凄まじい量を処理されるようになり過去からずっと足されたものとの向き合っても整理が追いつかず一筋縄では元に戻すことは難しい。

だからこそ、子どもたちの教育を良くしていなければ大人たちは世界は調和よりも強硬を選んでいくようになり、長く生存していくことが難しくなるのだろうと私は思う。

今は子どもを何よりも優先しないといけない時代だと私は確信している。

見守ることがより良い社会を創り上げていくと信じている。

だからこそ、まずは日々の実践から子どもたちには子どもたちのままでいられるように私自身が大人の刷り込みにあわないよう学び続けて取り除いていきたい。

最後にヤヌシュ・コルチャックが言う。

「世界を改革するということは、教育を改革するということだ。」

「子どもたちの人生は、子どもたち自身の力で築き上げていくべきだ。」

使命を見つめ、より自身を知行合一するように努め、子どもたちのための本物の環境を創造できるよう師や自然から学び、かんながらの道を遣り抜いていこうと誓う。

一期一会

道しるべ

今回は、オランダで開催されるイエナプランの全国大会へ2日間参加してきた。

そのセミナーの様子や雰囲気、どのような内容のものが開催されているかに関心があったので、具体的にいくつかの分科会にも参加してきた。

分科会では、子どもを主とした聴きこみ方から、軽度発達障がいの子どもへの関わり方、見守り方、また玩具を通して子ども時代の疑似体験など、子ども側の気持ちになって自分の在り方をみつめるような内容が多かった。

またレッジョエミリアの保育をイエナプランに取り入れて実践している発表などもあり、より今の時代の新しいもの、適応できるものを研究し、変化を促しながら教育者同士がともに切磋琢磨しているような感じでもあった。

今回の大会テーマは、「鏡よ鏡よ鏡さん」というタイトルで、鏡に映る本当の自分を見つめてみようということだった。

まず、大会開催に経験主義の大学教授よりのプレゼンテーションからはじまる。事例からはじまり、今の時代の一斉教育の問題点や、そこから引き起こされる勝ち組負け組などの競争原理の愚、グローバリゼーションの崩壊と、情報化社会における加速の衝撃や、子どもたちの未来における環境への推察、時代はアジアに経済が移るけれどその時の自分たちの役割についてなどなど、問題提起をし会場の人たちの動機付けを行い各自の分科会に移動する仕組みになっている。

翌日には、イエナプラン優秀モデル校を選び表彰したり、また諸外国(今回はドイツ)で実践されているイエナプランの様子をドイツから招きプレゼンテーションしてもらったりもしていた。

このイエナプラン教育とは、私の主観では子どもの自治、コルチャックに起源があるようにも感じるのだけれど、つまりは子どもを丸ごと信じ、その信じる環境を用意していくことで子ども自身の持っている力を引き出していくというポリシーを打ち出している。

日本では、私たちが学び実践している見守る保育になるのだけれど世界で同じような取り組みを行っているのをみると世界はまだまだ捨てたもんではないなととても勇気がもらえる。有難い機会になったと本当に感謝しています。

そして今回は、様々なことを再確認することができた。

私が目指す道には、終わりはなくただ、そこにやることが在るだけ。見返りもなく、そこに在るものに向かって歩みを強めていくだけのようなもの。

そしてその在るだけの道に、何を自分が投じていくのか。
そこに深く哲学と理念、信念を貫くための常住至誠が必要になる。

しかし、そこに確かな道を歩み続けている覚悟があり、自らの目指すその道がどの方向性を向いているのかを時折、異なる世界にて再確認することは大事なことだと思う。

道には方向性があり、それが原理原則に照らして鑑が観ると今を主軸に因果を汲み取ると近い将来を見通すことができる。

将来この世界や地球上に於いて、子どもたちが力をあわせて大きな困難を乗り越える時代が必ずやってくる。

その時に、この日本の優しい本物の子どもたちが自分たちの使命を果たし、より全ての生けるものたちを幸福に豊かにしていけるよう願ってやまない。役割を果たし、この世の中をより平和に導いてほしいと願う。

まずは、自分自身の行いを見据え、確固たる「道しるべ」をつけながら後から歩んでくる方々の目印になるように実経験と実体験を基礎にし、さらにそれを対価にし燈印をつけていこうと思う。

アースゲームズ

昨日、リヒテルズ直子さんからの御縁で知り合ったオランダにいるアナ・マイケさんを訪問した。

この方は、オランダで「Earth Games」というブランドでワークショップやボードゲームのレクチャー、その他、チームビルディングへの在り方などをコーチングしている。

今回は、終日朝から夜まで様々なワークショップとゲームを一緒に行い、その意味や具体的な事例などを深めることができた。またこれからの協力方法、またどのように世の中を易えていくのかをお互いの人生を照らして確認することができた。

御縁が広がり、深まり、新しい関係から学び、自分自身を進化させていくというのは人と人が共にあるということへの有難い邂逅を感じることができる。

言葉が違えど、やりたいことを示し合えば心が通じるというのは、物言わぬ真実の偉大さが改めて実感できる。決して、人と自然だけではなく、人と神とだけではなく、言葉をすべて無にして語らい合えば必ず本物や本当のことは成るのだと思う。

同じ時代に、場所は異なれどもともに子どもを主軸に平和を実現していこうという思いやりの理念に触れ、健やかで安らかな時間が過ごせたこと心から嬉しく思います。

元来、オランダという国は、歴史から学んだ寛容の精神と自助共生の民主主義を背景に様々な新しい制度が生まれ実施されてきた。その中でも、特にやることは次第に削られ淘汰され、現在は、本物が随所に残っているようにも感じる。

このアースゲームズもそうだし、その国々にて教師以外に教師の魂を持ち仕事をする人たちはどこか強いポリシーを持ってそれぞれの光を放っているようにも思う。

日本でも、様々な協働ゲームやワークショップ、アクティビティがある。

しかし大切なのは、理念と目的がどこに根差して、何にもっとも価値をおいているかで内容も変わってくる。さらに、どこまで現場や業界、時代など、世界観、歴史観、大局観、自然観など、原理原則に照らして深く理解しているかでその効果や本質も異なってくる。

私たちカグヤが行うものは、子ども主体で子どもを第一とする理念で貫いている。

なので、これから見守る保育を実践していく園には非常に価値のあり質が高いものとなる。

人は、自分自身が何をどうしたいかが明確になっていればいるほど、そして自分にしかできないことが確信していればいるほど、お互いの生み出す創造的価値を正しく実感することができる。

私たちは常に子どもを真ん中にしている。こうやって子どもを主軸に協働していくことは、時代も世界との国境をも越える。どんなに面白いノウハウやテクニックでも、それでも越えることはできない。

本物だけが様々な壁を越えて、協働し、新しい世界を生み出すことができる。
本物とは、普遍的なものが持つ当たり前の真理真実、実践家が持つ暗黙知のようなもの。

私たちは、子どもを通して地球の中で大いなる遊びをし、学びこみ、平和にしていくのもミッションの一つ。

次回、日本にて一緒にワークショップやセミナーなど文化創造の場を味わえるのを心から楽しみにしています。

歩み寄り

先日、ベルギーのアントワープへ訪問してきた。
ノートルダム大聖堂などを見学した際に、170年かけて制作された建物を肌で実感することができる。

人は、幾代もかけて創作されてきているものには畏敬の念を覚える。
それが日本の寺院にしてもそうだし、神社にしても同じく言える。

物事を判断するには、短い時間でできるものとそうでないものがある。

何でも切り分けて、整理していても整理できないものもある。人の心は特に、パッとの思い付きだけですべてを判断できるほど安易なものではない。

だからこそ、慎重に共感し、受容し、相手のことを御互いに歩み寄り深く認め合い分かり合おうとするコミュニケーションが必要になる。

もし、表面上の言葉だけで判断をすべてしていたら色々な先入観や決め付けなども発生する。それが御互いの歩み寄りも邪魔をし、どちらかだけを歩ませようとなると御互いの最適な距離感がつかめなかったりもする。

人は、あまり自分ばかりに責任を背負いこみすぎると相手が観えなくなることもある。そしていつも最後は一人だと思ってしまっていては、本当に大きなことはできるはずもない。人は一人では生きてはいけない。だからこそ、最後は人に委ねるという「信頼する」ということが大事になる。

そして事物には大局観というか、事物と人間の本質をキチンと捉えていくことでそこを軸に自分の布置を見定めてあわせていく。

そして、本質を観ると最終的にすべての出来事とは「ただそれが在った」ということになる。

それが自然だからだ。

そう考えると、あるべきよう、あるがままであるというのは、そのものごとを心を使って無心に受容していけば自然にそれに近付いてくるということになる。

時間をかけてゆっくりと醸成する時間が在るのもいい。より大事なことは「続けられる」ということ。白黒や結果だけではない、確かにそこにある生の人、つまりは人生というものからはじめていくことは根本に必要となる。

様々な問いがあることに感謝し、一期一会の出逢いをすべての今に捧げるような豊かで満たされた時間を大切に過ごしていきたい。

人を信じるということ、人が言うことをそのままに受け容れているということ。そうやって歩み寄ることを恐れずに迷わずに、全身全霊での関わりを大切にしていこうと思う。

感謝