生きる

人には様々な運命がある。

寿命などもそうだけれど、いつどこでどのようになるのかは普段は分かりはしない。その時が突然迫ってくるという感じだろう。しかしその時のその覚悟も、日ごろ如何に準備していたとしてもいざとなるとその準備が出来てきていたかどうかが試される。

私自身、過去に何度か九死に一生を得たことがある。
交通事故にも何度も遭い、また病気もした。

そんな時はあぁ、生きていたんだなぁと実感しても、また日常に戻るといつの間にか当たり前に生きていることも忘れてしまう。

そうやって何でも当たり前になってしまうと、人はそのものに感謝する気持ちをなくしていく。
日々の衣食住も、整ってしまうとそれが特別なものではなくなってくる。

先日、「いのちの食べ方」という映画を見た。
そこには、スーパーに並ぶまでにどのように生き物が加工されて出てくるのか、その裏側で行っている加工の過程を映像に修めたものだ。

食べるために造られていくいのち、そのいのちを粗末にする人間たち。
そういう目に見えないからと考えなくなってしまうのは人間の持つ深い業かもしれない。

目に見える世界しかない人たちには、そのいのちの有難さが分からない。目に見えない世界があることを知っている人たちは、いのちの有難さとその尊さを知っている。そして目に見えない世界を大事にしているからこそ感謝する境地も生まれてくるのだ。

本当は今が在るというのは、不思議なことであり異常なこと。

本来はこんな不自然に豊かに生活をしているはずがないと気づく人たちは皆、昔にあった人間の分度やあり方を知っていて、質素倹約し、何でもあるものはすべて勿体無いとし、目にみえない有難い恵みに深い感謝をし、日々を丹誠篭めて生きてきた。

そうやって自然と共生していくことで本来の幸せを感じて生きてきたからこそ私たちが今あるということになる。

なぜ一昔前の人たちが、貧しくても豊かに幸せに生きれたのか?
そして今の人たちが、なぜ裕福でも貧しく不幸せになり死を選ぶのか?

それを思うとき、目に見えない世界が物質的豊かさによりどんどん離れていく悲しさを覚える。教育というもの生活や信仰というものを割り切られてしまい、次第に心の平穏や平安が去り、不安と競争の社会に変わってきた。

本来の人心の思いやりの有難さ、自然の恩恵の在り難さ、そういう当たり前であるけれど掛け替えのないものを亡くしていく人々の今にこそ本当の深い悲しみと苦しみの原因がある。

特にこれからを生きる子ども達は、そういう当たり前にも気づけなくなりどこか心がさらに不安定になってきているようも思う。私たちの子どもの頃、人は自然であること、人間が思いやりで出来ていることを知っていた。

しかし大人になれば目に見える世界ばかりを信じ込まされ、それ以外は信じられないような現実を突きつけられていった。

本当は、大人になるというのは目に見えない世界をしっかりと捉え、自分で自分を信じられるようになり現実を素直に逞しく健やかに共に生きていくことを覚えたのに今はその当たり前もない。

今、起きている全ては過去の人間が人為的に行った不自然がカタチになって現れているものがほとんどでどんな出来事も深くその意味を感じれば、「知らなかった」というだけで過去の贖罪の上に成り立った平和な生活があるように見えるだけだということ。

私たちは、もっと生きるということを感じつくさなければいけないと思う。

「生きる」というのは、この今をどこまで無駄にせず、いのちがあることの真の豊かさに気づき生きていくということにならないだろうか?

目に見えない心や思いやり、そして自然の畏敬や恩恵から感謝まで導きだせるような心の眼を持ち、豊かに歩むことこそ、人間の叡智だと思うし、それこそが真の大人に求められる知性だとも思う。

子ども達に何を譲っていけるのか?

持ち物や目に見えるものはどうせその子ども達を拘束し、不自由が彼らの心を傷つけていくかもしれない。だからこそ、まずは私自身が生きるということをよ吟味し、忘れないように死の意味を見つめながら歩んでいきたい。

生まれたままの子どもが持つ自然の心をどれだけ私たちが見守っていくことができるか、そこに子ども達の創る新しい未来と豊かで平和な社会がある。何でも大人の言うことを正しいとしていたら、刷り込みばかりを与えてしまい本来の彼らがやりたいことができなくなってしまう。

子どもを信じて任せれば必ず社会をよくすると信じること。
それも当たり前のこと。

こんな当たり前の日々、当たり前のこの今に、何も感じなくならないように、生きることの出来る今を有難いとし、真心を篭めて歩んで生きたい。