先日、コルチャック先生を研究しているワルシャワ大学のタイス教授夫妻が来日されていると知りその講演を拝聴してきた。
改めて紹介するとコルチャック先生は、本名をヘンルィク・ゴールドシュミットといい1890年末から1930年頃までのポーランドで、小児科医、孤児院院長、また作家として活躍したユダヤ系ポーランド人。その生涯をかけて、”子ども”から学び続け、その人間としての価値を探求した人物と言われる。
そしてそのその思想は、国連の「世界子ども人権宣言」の支柱となり、今、世界の教育界で再評価されている。
人々の心には、戦争下、人心が荒廃している最中、子ども達を最期まで守り続け子ども達と共に命を失い、思想を全うした人物として心に留まっている。
私はよく感じるのだけれど、有名な人たちや権力者がいくあら巨大な財産と権威でお墓や何か建造物をいくら遺していたとしても本当に残っているものは、人の心にあるものであり、その人物の思想、その人物の徳行や真心だけが時代を超えて引き継がれているようにも感じる。
そう考えると、会社をやっていようが学者をやっていようが大事なのはそういう自分を超えて世界や生きとし生けるものや人々のために「真に生きた証」であるようにも感じる。真理真実が人生に於いて必要なのは、そこにのみこの世の理と実相があり、その真の実相こそが本当に形あるもの、「あるがままのもの」だというからだと私は思う。
だからこそ、あまり目に見える力はいらないのであり、大事なのはその思想や真理を摑み、それを自分の分度により自然に大きくなったり淘汰されたりするのがもっとも世の中のお役にたっているようにも思う。
何も自然は、生き残ることを善とするわけでもなく、淘汰されることを悪とするわけでもない。ただ、そこにどんな意味があり、何を為したかという実相時実だけが存在したという空の境地であるというのみなのだろう。
それに最近はよくコルチャック先生のような偉人や幕末期の立派な教育者を含め、世界各地で生きた思想家がテレビやマスコミ、その他、民衆の心に喚起されてきているけれど、私の主観だけれど死者が時代を超えて現れてくるというのは何か今を生きる私達にやってほしいことがあるからだと認識している。
人間は誰でも突然思い出す人がいるとき、必ずそれはその時の自分に対しての何か大切なメッセージを伝えてくるのだと思う。ただそれを気づかないのはそのメッセージまでは分からないということ。なぜそれを受け取れないかというと素直である心を持続していないからだと私は思う。何にもまして、目に見えないものと対話をするにもその力を恩恵をお借りするにも素直な心がありきであり、その素直さがあることではじめて人間は人間としての価値を創造することができると私の人生体験から感じるからだ。
つまりは人が自然に帰す時こそ、すべて万物をあるがままに信じて受け取るという、自然の心、素直な心、かんながらの心が生まれているのだとも私は思う。
人は、何を聞いても分からない人と、何も聴かなくても受け取る人がいる。別に観察しなくても洞察しなくても素直であれば、自然に受取れる。それが人間の持つ妙味なのだと最近は特に感じる。
話をコルチャック先生に戻す。
その講演では、その時代の歴史的背景についても話があった。ポーランドでは第二次世界大戦で約600万人以上の人が亡くなり、その中の200万人がまだ幼い子どもたち、そして戦後は150万人の子どもが孤児になり道端に溢れ悲惨な社会のなかで育つことになる。時には各地へ連れ去られたり、放浪して行倒れたり、飢餓をはじめ孤独死など、様々な劣悪な環境下で育っていった子どもたちがあり、その経過を研究してその人たちがその後大人になってどんな風になったのかを追っていった話などもあった。
たとえば幼少期、子どもが愛を感じずに生きると短命に終る。その短命も恐れや不安、酷い孤独により悲しみと苦しみばかりに苛まれ不幸を感じながら生きていた人たちが多いという。心についた傷は、その後、その子を一生苦しめていたとのこと。人は、子ども時代と大人時代が切り分けられないのはこういうことからもよく思う。
私は今、生きていて思うのだけれどこの世が素晴らしいと思えなければ、人間はきっと長くこの世に留まっていたいとも思わないのかもしれない。感動が在る人とない人では、その人生への執着に差があったりすることで分かることが多い。
たとえ今のような仮初の平和な時代であっても、人の愛を感じずに子が育てば、その子の一生に大きな影を残すことはいつの時代も同じなのだなと思う。そんな思いを子どもたちにさせないためにも、人々は教育というものを通じて子どもを愛して見守るのだとも思う。よりよい子ども時代があるからそのままその人は、社会を信じて人間を信じて、素直にみんなを愛していけるのだと思う。
そして講演の二部では、そのコルチャック先生の思想や哲学についての話しを拝聴することができた。その時代、コルチャック先生が世界へ訴えていたもの、つまりそれは子どもの人権。ここでの子どもの定義は、自分の子ども時代を思い出してこんな悲惨な戦争を終らせてもっと世界を平和にしていきたいという真の願いが篭められていたように私は感じる。
コルチャックの著書を拝読すると、人間には色々な人たちがあることも全て知っていた。悪い人たちがいることも良い人たちがいることも、そういうものは当然だと思っていた。それはコルチャックには対して関係がなかったようにも思う。
だからこそ、そういう人たちが子ども達の頃のような気持ちで共感しあえば自然に人間は他と共生しようとし、仲良く平和に幸せで居られることも知っていたのだと私は感じる。
これは偉人の言葉を借りれば、人類は皆兄弟という言葉も、すべての人々は家族、そして私の言葉にすればすべての生き物にはすべての神が宿るかんながらなのだとそういう世界そのものを深く思いやり仁慈する大いなる受容の実践があったのだと私はコルチャックにいつも感じる。
人間は置けれた環境や、今までの刷り込みにより、色々と迷い、悩み、不自然な行動を通してまたゆらゆらしていくもの。だからこそ、もっと大きな愛で包み込むという真心が私達の心には必要だと訴えかけてくるものだと思う。
誰でも必ず、子どもだった時代があったはず。その時代がなかった子どもはいない。だからこそ、その時代を奪い去る権利は大人にも誰にもない。なぜならその大人たちだってその子ども時代があったからこそ幸せを感じることができているからだ。だからこそ、子どもは大人の道具でもなければ、人形でもない、ペットでもなく、自分そのものの子ども時代を取り除けないことを知るべきだというのだと思う。
子どもの頃、そのとき、私達はいろいろなものに興味関心を持ち、無償の愛を受けて、すべての世界は七色にキラキラと光っていた記憶があった。それをもっと信じて、見守っていけば、本当の自分のやりたいことに出会えないだろうか?そしてそれをやれば世界は幸せになると思えないだろうかと、問うのだと思う。
私自身も子ども第一主義の理念がある、つまり私達が守りたいものは、子どもそのものだ。子どもを守らなかったら、子どもに人権を与えなかったら今の自分はあるはずもなく、周囲の幸せもあるはずもない、つまりは子どもがなかったら生きる意味すらないと私、野見山広明という自分が何よりも使命としてそれを感じている。
人は必ず、それを分かってくれる、その愛は多少ならずとも生まれた以上受けたことを忘れるはずもないからだ。母や父の愛、今まで受けた太陽や水、自然の愛、無償のものそのものに感謝するような感動の日々を送りたくない人はないはず。
私自身、子どもの頃の色々な愛や真心を大事に、自分自身の社業を通じてコルチャックが遺した思想を受け継ぎながら、この今、この瞬間に一期一会に実践を深めて生きたい。