至誠

今年も無事に山口県の萩にある松蔭神社を参拝することができた。

この一年を振り返り、どれだけ自らの志を養いそして実行できたのかなども松蔭先生の心の故郷の足跡を辿りつつ厳かな憂いを共感していると不思議といつも有難い邂逅が得られている。

色々な時代には環境や価値観が変化し色々な生き方があるけれど、古来、人として不動の在り方としての真心と実践を中心に逝きぬいた方の魂は時を超えていつも私たちの心に甦ってくる。

想えば不器用ながらも激しく実直な人生を送り、その行動力と純粋な感応力により様々な出来事を自分の中に容れ、そこから自らの命を極めて活かしきった人生を学ぶと自然に涙が込上げて来る。

もうすでに私は33歳になりすでに松蔭先生の亡くなった年齢を越えているのだけれど、年々その至純の思いに志の美しさと深い愛を感じて魂が揺さぶられる。

もしも今、この方が生きていたら、何が何でもお会いして色々と子ども達のこと、世界の行く末などを話してみたかったと松下村塾を観照しながら感慨深く思います。

松蔭先生が座右にした言葉の中でかの孟子の一文がある。

「至誠而不動者未之有也
 有也此語高大無辺乃聖
 訓乃連と吾未能之信也此
 度此語の修行仕る積也」 松蔭

解説として、「この上ないまごころを尽くして動かし得ないものは、いまだかつてなかったことである。この言葉は、はてしなく高く大きい聖人の教えではあるが、自分はいまだにこれを理解し信ずることができないでいる。このたびは、この言葉について更に追求し、修行をするつもりでいる。」とある。

この冒頭の一文「至誠にして動かざる者、いまだこれあらざるなり」こそ孟子の遺訓。

松蔭は、この孟子が語るあの「至誠」の一字を自らの人生に於いて明らかに学びたいと欲し様々な艱難の道を独り揺るがない決意で最期まで立ち向かった。

そしていよいよ30歳を迎えそうな時、こういう言葉を書き記している。

「吾れ学問二十年、齢また而立なり。然れども未だ能くこの一語を解する能はず。今茲に関左の行、願わくば身を以て之を験さん、即ち死生の大事の如きは暫く置かん・・」

これは私の解説になるけれど、「私は学問をはじめてよもや20年になる。だけれども私はまだこの至誠の一字をよくよく実践して為し理解することができないでいる。今ここにまた自分にとって二度とないような大きな艱難が待ち受けている。願うなら、至誠を学ぶためにこの身体をもってこの機会を験そう。それを学ぶため、私は生きるや死ぬなどのことは二の次にしよう。」というようなものだろう。

人が生きていく中には「道」がある。

論語にも、「明日に道 をきかば、夕べに死すとも可也」とある。

自らが究めたいその道の先には、生死をも厭わない。
それほど、この学問の20年の中で学問により命が実っているのを私は感じる。

松陰先生は、最期の最期まで自分の真心が天に通じるのか、そうでないかを命を生き切り一期一会に求めた道であったのではないかと私は思う。

学問とは何か?

ここから私は、松蔭先生の本当の示した人間学問への道を気づかせていただけている。

人は、どんな出来事からも道さえあれば、志さえあれば学ぶことが出来る。
私自身、振り返るとまだまだ何も理解しておらず、まだまだその真意すらもよくは腹に落ちていないでいる。

そうやってこの時代を過ごしていても、眼前の子どもたちの危機は変わりはしない。

私自身、何よりもこの孟子にある不動の真心を尽くせるよう常住坐臥に勉めていきたい。何かことがあってからではなく、事があっているときのこそこの不動心が世の人たちを導けるようにどんな出来事にも正対して学問を究明していきたいと思う。

今年の最期にこの松陰先生の「志」で締めくくりたい。

「天地には大いなる徳があり、君父にはこの上もない深いめぐみがある。
 天地間に存する至高の徳に報いるには、まごころをもってすべきであり、
 君父の深いめぐみには、全身を賭して報いるべきである。
 今日という日は再びめぐってこず、この一生も二度とはこない。
 報恩のこと成し終えなければこの身を終えることはできない。」 藤寅

1856年10月23日 吉田松陰 筆

志は、君師への忠孝を以て来年の自らの生き様を鑑みたい。

感謝

感応力

一年を振り返り、全てを受け容れて学びを深めていくことは、自らの今を鑑みるのにとても大切なことだと私は思う。子ども達のためにと一概にいっても、どれだけ今の子ども達の危機に自らが正直に尽くせたのかを思うとこれからの未来を自分のことのように思い、何を為すべきか、何を期すべきかを思わない日はなかった。

けれど、自らのみが焦り、孤立するわけにもいかず、周囲の温かな真心をあわせて、その時、その瞬間が来ることを大いなる自らへの問いとともに心と正対し、その道を開かなければならないと思い律している。

私が小学校の5年生の頃、ある友人と自宅の前の道端で一晩中話し合ったことがある。それは自分の目に観得ているこの世界は心があるから創り出し、その心がなければ周囲のすべては存在しないといってお互いが存在しないのかの理由を語り合っていた話だ。

その頃はだからこそ自らの心の在り方が大切なのだとしたところで話が終ったけれど、そこから何を学ぶことがもっとも価値があるのかは知識の量ではなくその心がどのようになっていることなのかということをその後から私の中では優先するように生きてきた。

そして今回、年末に一休みする時間が取れたので、以前より師のブログで紹介されていて読みたかった司馬遼太郎の「峠」を読んでいる中でその文節にある「感応力」ということに以前のこの体験と似たようなことが書かれていてとても共感できる部分があった。

それにはこう書いてある。

「天地万物は人間であるオノレがそのように目で見、心に感応しているからそのように存在しているので、実際にはそんなものはない・・・要するに、人間が天地万物なるものを認識しているのは、人間の心には天地万物と霊犀相通ずる感応力があるからであるという。いやいや、その天地万象も人間の心も二つのものではない。天地万象も人間の心も、「同体である」という。」

「だから心をつねに曇らさずに保っておくと、物事がよくみえる。学問とはなにか。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」(「峠」(上)より)

つまりこれは自然万物は繋がっていて全ては一つのものであるということであり、だからこそ心の感応力を如何に研ぎ澄まし、周囲のものとあるがままになることで、そのものの本質を観抜くことができ自らがどのように動くのかが自然に決まるということに繋がる。

それはさらに言うと、清く明るく澄んだ真心で素直に実践するということに無為自然そのものがあり、その自然であるということに根ざすから本質的な人間の生き方を得るのだともいうのだと思う。

だからこそ学問がある。

そしてそれは思うだけでは学問でもなく、それを如何に実践するかが本物の学問とある。これは孔子が遺した仁の実践からも言えることだけれど、古今問わず聖賢が目指した学びの問いこそが真の人間の生きる道ではないかと私も思う。

そしてその入り口として、まず志を持つことは肝心となる。

時代時代にどうしても自分が遣らなければと切に感じ、誰もやらないと義憤を感じて、その問題から逃げずに追求し尽くしていく日々の中で志が養われ、志に活かされていく。

志が一期一会を用意し、師友に出会うことにより、今の自分がどのような布置にいて何をしようとしているのかを実感することができ、さらに社会や生活への追及と工夫、世界への探求と真理への悟りへと駆り立てる。

本当に澄んでくればくるほど、この世界は妙であり不思議に満ちていると感じてしまうけれどそこに自分があるからこそ世界は存在することができる。

そしてこの「峠」の中には志についてこう書かれてある。

「男子が男子たるゆえんは、志の有無にある。詩が貴く絵が貴く書が貴く礼楽が貴いのは、それによって男子の志をのべるからであり、それをもって男子の志を養うからである。」

「世は、絵でいえば一幅の画布である。そこに筆をあげて絵をかく。何を描くか、志をもってかく。それが志だ」

私のブログも、幾人かの思いを友にする方々と同じ時間に生き、同じ時間に学びあい、同じ時間で実践しあっていく、このやり取りすべても互いの志を養うことでもあり、私の「かんながらの道」をどのように実践して創意工夫するのかを感応力によって行うに至る。

常に、私は自然の中に在る八百万の神々を感じながら自らの内面にある自然を見出しそれに応じて誠を尽くしていくのかにその命の大元がある。

私たちは、感応することを忘れてはいけない。

日々の一つ一つの出来事や物事のすべてに、自らの道を切り開くすべてがあり、その道が自らを真に生かし切っていくということを。

生き方は先人に学べ、在り方は自然に学べる。
そして人間は、生きている中に学べる。

すべてはこのように自らの感応力を磨き澄ませ様々なことを感じ尽くしてこの今を大切に歩んで生きたい。

心伝

生きていると、外の世界や外界の出来事に囚われ視野が狭まり心眼が開かずに余裕がなくなるときがある。

そしてそうやって余裕がなくなると、物事の優先順位が変わり、相手に対して求めることが増え、自分自身がゆったりとした悠久の時間やその輝き煌く慈しい命を感じる暇もなく不安や焦りばかりが広がっていくことがある。

日々、省みる時間を取り、自らを正して素直に誠を尽くしていけば自然に天地自然の宇宙の気のようなものを体感し静かに穏やかになっていくけれど、それは実践の心により自らへも伝わるもので脳が分かった気になっていては天を感応する力すらも呼び込みはしない。

人間は誰しも、余裕がなくなると自分のことばかりが前に出るようになる。

それをエゴともいい、それが一度出だすと自分が相手と同じだと思うようになり、相手から早く返答をもらおうとし、話を聴くことをやめ、素直になれずに卑屈になり、悪いことを正すことばかりに囚われ、そして独りぼっちになるのを恐れ周囲を巻き込み、さらには相手に過干渉になり、解決ばかりを考えてしまうようになる。

これは私でもよくあることだし、過去の刷り込みやトラウマによってそれは引き出されてしまう。

物事の解決とは、そのものの心の中にあり、そしてその人の内面にこそ存在しているのだからいくら心の外ばかりを見て、その外側を解決したとしても本質や事実は何も変わっていないということは時間が経ってみてもう一度見てみるとそういう先延ばしをすることがよくあるものだ。

人間は、心の問題を理解しないと外側の問題は解決することはない。外側の問題は、その内面の課題に向き合うために用意されたものだとすることもできる。

いくつもの出来事を本気のままに感謝し、その環境を丸ごと受け容れる時、はじめて自らの心の状態が落ち着いてくるものだし、その時こそ外側の解決から内面の安定へと転換されていくのだとも思う。

そしてその心がしっかりと定まれば、幾つもの課題をゆったりと安心して乗り越えることができ、より成長し強く優しくなっていくのもまた人間なのだと思う。

そういう境地になれば、相手や他人を自分のことのように受止めることができ、ゆっくり返答を耐え忍び待ちあげて、話をよく傾聴し、素直に正直になり、すべてを良い方へと向かっていると支援し、独り穏やかに慎み、最適な距離感で見守れるようになり、解決よりも真心や努力精進できることへの感謝を優先できるようになるのだと思う。

そしてその実践から次第に人徳が備わっていき、相手を幸福に感化していける本物の人になっていくのだと思う。

しかし自らを思うとその実践は、思っているよりもそう簡単にはいかない。
真理や原理原則をいくら知ったとしても、それが正しくできるわけでもない。

まだまだ私は学びが実践より弱く、理想の聖賢や師匠の背中には近づけないし、自分はこの自分の心ですらも修まっていないと猛省することばかり。

自ら定めたこの道をただ粛々求め歩み、自分を叱咤激励し高めていくしかないと真摯にこの今、この瞬間も深く感じている。

出来事があり、それを深く味わい感じつくしていると反省する機会が得られることは本当に有難いことだと思う。

これからも私は座右と自戒を忘れずに、学問と修養を深め、他人に対してはおおらかで明るい広い心を持って清らかな心のままあるがままの姿で自らの道を開いていけるように実践していきたい。

何よりその時々の自分のエゴと正対し、より未来の子ども達のモデルになれるような日々の実践をひたすらに追求し、思いやりを持って温かく感化できるように不動の心を育て歩んで生きたいと願う。

現場実体験

色々と生きていると公私共に様々な出来事が起きる。

その起きた出来事が一つのことでも、客観的に起きたという事実と主観的に起きたという事実がある。その両方は、同じく起きているのだけれど後者の方は感情が入るので現実味を帯びた生生しいものだということになる。

人は教科書を読む際、感情を交えずにそれを見ると理性や知性により原理原則を知ることはできる。そしてそれを知らず知らずに教えている側はそれをさも分かってしまっているような気にもなっている場合もある。

聞いていると、次第によく分からなくなりきっとこうなのだろうと知識は増えていくけれど現実にそうなるまではその意味は分からないし気づくこともない。

たとえば、戦争というものでも先生はたくさんのことを教えるけれど生徒はそのことがよく分からない。体験してみてはじめてその悲惨さを知り学んでいく。

他でもそうだけど、ひとえに「人生学びが全てだしそれが生きる力だよ」といくら大人が力説したって、それが教科書に書いてあるように客観的に語るのと、「生きるために学んでいたらそれが人生なんだよ」と自分の人生から主観的に体験し気づいたことから語るのとでは明らかにその意味は同じ出来事でもまったく異なる。

そう考えると、本来、人はその両方からバランスよく学び、自らの体験や経験を受容し内省することで新しく自分が出来上がってくるというものだと思う。知っているのと、遣っているのとでは天と地ほどの本質の差がある。

よく実体験を疑似体験させることで気づかせようとするプログラムもあるけれど、本質的には身の周りに起きる出来事に対して、どれだけ正しく向き合っているかでその質量も現実の受け取り方も変わってくるのならばまずは身近なことを大切に生きていくことを感化していくことがもっとも価値のあるものではないかと私は思う。

みんな同じ量を同じ体験することはできない、しかし出来事を深く極めることにより同じところで共感し疑似体験することはできる。そしてそこまで深く掘り下げた本質を確信できれば後は、そのズレを知性や知識、共感や受容、魂の力などを使って掴み取って近づけていくのだろうとも思う。

そう考えると、子どもたちはどんな物事や出来事へも好奇心と探究心で関心を抱き、そこからすべてを学ぼうと、いや、生きようとしているように見ていると感じることができる。

日々、かんながらの道を歩んでいると、子どもには無限の感受性と、本質を捉える力も全て持ち合わせていることが観えてくるし、やはり人間というものはこんなに素晴らしい能力を授かっているのかと感じると不可能が遠ざかり偉大な自信と安心が訪れる。

しかしこれも現実として無機質な大人たちが社会を形成し教育により刷り込まれることでそれを感じる力を忘れ、わざわざご丁寧にその場や環境を意図的に用意してあげないと分からないとなると、こんなに悲しいことはないなとつくづくそれを感じる。

私はカグヤを通して保育現場で行っているものは、実践という名の「真実の体験」であり、それは子どものような心であること、つまりは素直なままでいることを実体験し続けることで、各種の刷り込みを取り除くことができ、様々なその人らしさや人間の本質を引き出していくようにと見守る環境を用意していくお手伝いをしている。

それはもちろん何かを教えようではなく、自然に引き出せるように、言い方をお変えれば不自然なことをしないようにしている。それは意図的にしないのではなく、無理にさせないとすることではなく、文字通り、あるがままの「自然」であるために様々な努力をすることを奨励し、その創意工夫をしていくという遣り方の入り口へ導くようにしている。

たとえば、保育現場では当然ながら今までで身につけた様々なすり込みがある。
そしてそれが様々な壁にもなっている。

それがなくなれば、保育者は自然に子ども達を見守れるようになる。

しかしそれが今できない最も大きな理由がそれぞれの思考の罠や環境の中にある。本人も気づいていないその刷り込みを取り除くためにも様々な気づきの機会や内省の機会、場や間や和などの空間と繋がりを通じてコンサルティングを用意し、自然に自分たちが元来持っていたものを引き出していくように受容肯定している。

現在、教育業界の人たち全般は何かを教えることが好きで教え込まれることが好きな人がとても多い。その中でいくら満足する結果を得られようとも、現場から言わせれば非現実であり非実体験であり、客観的にはうまくいくのだけれど、本質的にはうまくいくように見せただけということになることが多いのではないかと私は感じる。

これはきっと家庭教育と同じように、父母が理屈や理論ではなく自らの模範と姿勢、親子のキズナを大切にしながら自然に子ども感化する方が「よほど」自然なのだと思えるからでもある。

今、保育現場で起きていることは必ず大なり小なりその家庭の影響を受ける。
それをどう今の時代の環境にあわせて、正しく補い、支えあい、今までを捨てて変化していくかが保育者の専門性の一つだとも私は思う。

子どもに起きている危機を感じれば、今、私たちが本当に学ぶべきは生の人生そのものなのではないかと私は思う。

そしてそれは、どう「素直で生きる」かの道に繋がっていると私は確信する。

これからも研修やコンサルティングを通して、分かった気にならないように常に自らを省み、より子どもたちから真摯に学び私たち自身が常に刷り込みの殻を破れるように他者支援と援助を惜しみなく尽くしながら貢献し学んで生きたい。

常に起きている出来事の「現実」を実践により学び、そして正しく見据え、カグヤの理念の体現者としてまず私自身、これからも理念からブレずに子ども第一主義を積み重ねていきたい。

感謝

聴守る

先日、コンサルティングをするある園でじっくりとたくさんの人の話を傾聴した。

話を聴いているとよく思うけれど、こちら側が行う質問の価値の高さにより、相手から引き出し洞察するものはもちろん変わってくる。何を見通すか見透かすかということなると、そこに確かな傾聴力がなければそれをすることもできない。

そしてその面談の中でいつも質問されることが、一緒に働く仲間とチームで何かをするときに自分はどうすればいいかというのがある。

たとえば、見守るでもそうだけど当然、見ることと眺めるのとは違う。

お互いが同じ量、主体性を発揮し、能動的に関わっているからこそ、見守られ、自立し、共生しあうことができる。そうでなければただ眺めただけということなるので、馴れ合いにはなるだけで日和見的にこなすことしかできなくなる。

子ども同士での関係でもそうだけれど、お互いが同じくらい主体的であるからこそ共感しあうことができ、そこに最適な距離感もうまれ、信頼しあいながら互いの命を活かしあって生長していくのだと私は思う。

「聴く」というのもまた、同じように見守ることのように「聴守る」ようにしなければ共に自立し生きるということに繋がっていくことはないと思う。

よくチームや組織で働くことに於いて、この「みる」と「きく」が出来ない人ほど孤立しているをよく見かける。

その特徴はすぐわかる、それは質問をしないということ。

質問をするためには、質問するまでの相手と会わない時間どれだけ質の高い自問自答や問題意識の醸成、探索などを行ったにもよる。もちろん喋るのが得意不得意もあるけれど、それと質の高い問いを持っているとは同じではない。

質の高い問い、それはつまりは自分がどれだけ主体的に動くかを周囲に働きかけようとする自発的な行為をすることであるし、それにより真に学ぶことができ、意味のある成果を得ることができるということを自覚しているからその問いの質が高くなる。

忙しくなったり、考えることをメンドクさくなり怠けると、人はすぐ「やること」に逃げようとする。そしてそのやることばかりに囚われてしまい、よく思索することや思考することやめてしまう。

ひょっとすると聴けないのは幼い時に孤立していたトラウマもあるのかもしれないし、人を信じられないから聴くよりもやる方が心が楽なのでそうしているのかもしれない。

しかしそうやって質問しなくなるとすぐに周囲への思いやりがなくなってくる。
そしてトラブルを起こし、無理に話し合い矯正するという悪循環になる。

逆に好循環になるには自分以外の人への思いやりと協働に基づき、自分を活かすために脳みそを使うのではなく、文字通り心を使う「心配り」をすることを大事にしないとそうならない。

なぜならこの心を亡くすと書いて、「忙」となるのだから文字通り忙しい人は、作業がひらすら多いのではなく、心を使うことをひたすらやめた人だということだと私は思うからだ。

周囲をよく観て自立すれば最終的には独立になるけれど、そうでなく一人寂しく孤立したら時代の流れという理があるのだから人間界で定義されている「うまくいく」ことは決してない。

だからこそ、そうやって孤立しないためにも、心を使い続けられるようにするために、よく周りを見てよく聴き、よく守り、いつも周囲に対して信じる心を開いていることがみんなとともに居られるということになると思う。

そして質問は当然として、その質問の仕方が分からないのはどうだろうか。

この質問の仕方を考察すると、質問するのはどこまで自分が聴いて理解することかを能動的に行っているかが問われている。この質問が現在できていないというのは、シンプルにすると「自分が聴いていないからであり、単に受身に聞き流しているだけになってしまう」からだということになる。人はテレビではないし、ラジオでもない、ついていけないからと考えるのをやめたらそこで自分自身は主体性をやめてしまう。

ゲームでもそうだけれど、周りがみえなくなるから受身になる。

やはりここでも受身にならないためには、如何に一人にならないように周りを受け容れるかによるのだ。

だからこそ、組織やチーム、もしくは人生に於いていつも周囲に心を配り、常に自分から傾聴していくことが大切なのだと私は思う。決して自分だけを優先して自分勝手にやってはいけないし、そうやって心を亡くし孤立して自分を傷つけてはいけないと思う。

それが自分への思いやりにもなっていると私は思う。
疲れやシンドサや精神の病などもそこから繰るのではないかとも私は思う。

まずコミュニケーションのスキルを身につけるとして、昔やっていた心の対話の方法を見失ってしまっている人は質問することでどこまで聴いて理解しようとするのかを相手に伝えることで相手はそれによって話をしてくれるものを知るということを練習することが第一。

自分が質問もしないのに、相手の話をただ頭で分かろうとしているだけではあまり自分が動こうとする時に役に立たなくなるものだからその習慣を取り除くことからはじめるといいと思う。

会社や仕事でもそうだけれど、自分が主体的に自立して動けるというのは「どれだけ事前に動く前に質問して確認して理解しあえたか」によるものだと私は思う。

人と人が何かをしあうとき、それは確実にお互いの能動的な関わりがいる。

つまり、「阿吽」のチームワークは、「全員が主体性を発揮している」からこそそれが成り立つという。

もし、組織やチームの中に一人でも受身の人がいれば阿吽にはならないからできない、思いやりが欠けたチームでは人はまとまらないということだ。

だからこそ、大切なのは脳みそのできがいいや、才能があればいいではなく、とにかく周囲へ対しよく質問すること、尋ねること、どこまで自分が理解しているかを伝えることなど、まずは自分主体で周りを信じてオープンに発信していくことこそコミュニケーションの基礎ともいうのだと私は思う。

そしてそこ辿り着くためにもそのスキルとは別に大前提として、相手の意思を尊重したり、認めたり、受容するという、お互いを尊敬しあい信頼しあう人間関係があることを学び、その真心の眼差しや耳差しなど、相手に先に送る自らの心をとかく修養していくことが何よりも大切なのだと思う。

常に、人は一人では何も出来ないようにできているのだから、まずはよく質問し自分が常に受身にならないように相手より先んじて行動し、実践することを大切にしていけるような仲間を人間を信じあえる環境を用意していきたい。

一円対話を通してコミュニケーションの基礎を理解してもらい、それぞれを主体的に関われるような仕組みをこの国の子ども達が棲まう保育現場により広げていきたい。

子どもたちにも自分から発信しあえるような「豊かな場」を用意し、それぞれが自らで自分にしかできないことを見出せる基礎を、「みること」「きくこと」などによって得られるような環境を用意していきたい。

変わる勇気

昨日、かねてよりお取引のある保育園の職員の方が来社された。

この方は、私のこの「かんながらの道」ブログを知ってから、内容に共感していただいたらしく、日々読み進めるうちに、悩みや話を聴いていただきたいと思いが募り、知人の保育士や、関係者、また自園の園長にどうしたらこの人に会えるのかと相談しついには私へ辿り着き、園長より連絡があり一緒に会社に尋ねてこられた。

この方は、幼稚園教諭を5年ほど経験し、2年は託児所のような施設で働き、10年間は専業主婦をして3人の子どもを育て、そして現在は認可保育園で2年勤めているとのこと。

今年5月から偶然このブログに出会い、そこから日々悩み実践する中で感動したり、感涙したりなさっていたとのことで私自身とてもびっくりするとともに、恥ずかしくもあったけれど、大きな勇気をいただくこともできた。

もともとこのブログは、誰かに読んでもらうために書いているのではなく自らの問題意識と実践が必ず将来の子ども達の推譲になると信じて念じ歩む道であることと、師とともに自らのシンクロニシティをより明らかにすることで世界を変革するためのご縁を引き寄せていくようにと続けているものだ。

今回は、そのシンクロニシティの一つとして機会が現れてくださったのだと心から感謝しています。

このシンクロニシティとは改めて説明すると、C・G・ユングの古典で生まれた言葉で「非因果的連関の原理」と訳される。その定義では、「2つ以上の出来事が重要な意味を持って同時に起こること、そしてそこには単なる好機の到来以外の何かが関わっている」として使っている。

私の思想では一つの思いをただ一筋に透徹するまで澄み切って念じきれば、そこに偶然と呼ぶにはあまりにも予期せぬ神がかった出来事が起きる。そしてその刹那、その瞬間、何かそこに叡智とも言うべき偉大なものを確かに感じることがある。

そしてそれは、未来と過去を交錯し融合され、その今、その瞬間にまるでスローモーションのように出来事が過去から未来へとゆっくりと遡るような感覚を得るというのが私の体験である。いわゆる、時がなくなるような感覚を得る。

人は、きっと深層心理下ではインターネットのように何かのラインがいつも繋がっていて何か誰かがある意識をすれば、それが世界のどこかの誰かが受信するという、思想の中の次元の世界での話をして繋がり続けているのだと私は感じている。

あまりそういう話をしていると、一般に世間ではオカルトなどではないかと思われるのでまだ理論が明確ではないうちにはしないけれど、哲学として見てもらえれば、これは禅にもあるような「一期一会で生き切る実践」を通じているとそういう感覚になるし、そしてそれはきっと日常で大なり小なりみんな持っているし感じていることと思っている。

話を来社いただいた方に戻す。

その方は、今、0,1歳児を担当している保育者でありその現場で見守る保育を実践しているけれど、今はとても自然に子どもたちに接することを意識しているように感じた。子育てを通じて子どもたちのことを観てきたことが保育に活きているようにも感じた。子どもへの眼差しからその子どもとの愛着関係はとてもしっかりできているような感じがしたからだ。

しかし、大人同士との人間関係はとても難しく、それぞれの先入観や経験、決め付けなどもあり話がうまくできずどのように自分が努力していいのかなど悩んでいらっしゃるとのこと。人は情熱があればあるほど、自分が理想と誇りを持ち真摯に生きていきたいと思っている人ほど、自分が何とかしようとして必死になってしまい、次第に袋小路に入ってしまうこともある。

行動力があると先に動けるので、つい動いてばかりいると特に目の前のことばかりに囚われることもあり、そのやり方をたくさんかえるけれどすべてうまくいかないというジレンマに陥ることもあると私は思う。

私もそういう体験はよくするし、またやっているなぁと客観的に観て修正することもよくある。変化というものへの正対の仕方の一つだと思う。

私はそういう時は、「努力のあり方」を変えることにしている。

たとえば、笹船を桶に浮かべるアソビがある。

笹舟を桶の中心に浮かべた後、何度も何度も引き寄せようと水を自分のほうへと引くけれど笹船は逆に自分から離れて向こうへいってしまう。こちらに引こうとする気持ちが強いからどんな方法を考えても引くことばかりのやり方になってしまい結局笹舟は遠くに離れていくばかりになる。

そしてこれではダメだとして、急に何もしないと、よほどの風でも吹かない限りはこちらに来ることもない、じっとしていても何も進展しないし、偶然を待つだけになる。焦る気持ちが邪魔し、物事をよく観察することもなかなかできなくなったりする。ただ、じっと観察すれば発想を転換することに気づける機会が得られることがある。

しかし、そこで勇気を持って、逆のことをする。つまりは自分から反対の方へと水を押し出していくと笹船はこちらに近寄ってきて、それが理解できるとそれをするのに躊躇いがなくなり、遂には自分の手元に笹舟がたどり着くことができるという話だ。

この話に似ているのが、努力のあり方を変えることであり、それが正しく諦めるということ。

私は、努力の在り方とはやり方のことではない、つまりは心の転換のことだと思う。そして後ろ向きな諦めではなく、前向きな諦めとも言ってもいいと思う。

この「諦め」とは、一生懸命真面目にやっている人には何かよくないイメージがある。たとえば、その人に諦めろというと勝負を捨てたや、途中で投げ出した、逃げ出したという印象を持たれ反発される。しかし、それは私の言う諦めたのではなく、今まで良いことをやっていたのでやらなくなったのは悪いことだと頑固に真面目に決め付けている世界から抜け出しているわけではないから言うのだと思う。ある意味、柔軟性のない真面目さは頑固だということになるし、素直になれないという屈折した心の現われにもなったりするから気をつけないといけない。

ここでの私の言う本当の諦めとは、勇気を持ってその反対から努力を行うこと、つまりは発想の転換をしてみることであり、もしくは、先ほどの笹船では自分から手放したその笹船がどうなろうと諦めてじっと問題を観察して見守るや逆に押してみるなどといった、とても心の力を使った能動的な努力のことをいうのだと私は思っている。

この諦めに於いて何を持って受身か自立かというと、一つの方法に囚われ決め付けその方法だけに固執し、意固地になってその作業そのものに心を奪われることを受身だというし、自立では勇気を持って変わるために今までのことをやらない努力を自立だというのだと思う。

大事なのは、自立するために勇気を持ってその「あり方」を変えることであり、そのための努力に実践を切り替えることだと私は思う。

人は誰しも今までうまくいったやり方ですべてうまくいくと思ってしまうフシがある。しかし、時として環境が変化しそれがあわないと思ったらすっと捨ててみて前向きに諦め、「あり方の変換」を行う必要があるのだ。順応性とも言うし、循環の理の理解でもある。

特に、現在の保育でもそうだけれど今まで一斉画一にしていた保育を急に見守る保育に換えるのならば、今までやっていたことのついでに足して努力したって変わるはずはない。今までやらなかった努力をどれだけやれるかにかかってくる。

それは、本当に勇気のいること。
だから理念が要るともいう。

以前、私達の会社でも弊社に転職してすぐ目の前の作業に没頭する社員達がいた。けれど、カグヤの理念を信じ、自分を信じ、私を信じることにより、今までやらなかったことを行い、今では立派に社内環境を見守れるカグヤを支える立派なクルーの一員となっている。

何を信じるかは、その人のものだけれど理念が在る組織にいる以上、そのトップの理念や信念に自分をあわせていくことがもっとも自分が変わるには大事な要素になる。

ぜひ、自分が選んだその組織を信じて、自分がやりたいことを信じて、勇気を持って前向きに諦める努力するようにしてほしいと願います。

私自身、世界には必ず自分の行いや思いを受止めてくださる方がいると感じる機会にもなり、今回のようなあなたの勇気ある行動に対して深く感謝しています。

人は、変わろうと強く念じれいつでも変わることができる。

そしてそれは距離を超え、人種を超え、時間を超えてくる。
また再び有難い一期一会と邂逅をいただきました。

これからも子どもを前に私達は子ども第一主義を貫き、お互い子どもの現場の中で、豊かで幸せな日々を子どもたちに譲っていけるように全力を尽くしていきましょう。

道を楽しむ

私達の血脈の中に延々と息づく魂に、「道」がある。

この道とは、私達が真摯に自分を活かし生きるということに対して、自らの道を切り開き命を尽くすという、天と地にある人としての在り方のようなものを示した古来から残る普遍的な学問の本質によって知ることができる。

東洋では、仏陀をはじめ、孔子や聖徳太子、その他、数多くの聖賢や偉人が道を切り開いてきてその先人達の思想を繋ぎあわせて一円融合し、今、ここ、この瞬間に私達は生きることができている。

そしてその道とは、自分が何のために生まれてきたのかを知ることでもあり、どのようなことにその命を使うかを決めることでもあり、何によってその命を立てるのかという、本来時間や自分を越えた「時元時空」の中での「自ら天命に叶う」ということに意味を与えていくことだとも思う。

一つのものは全てのものに繋がっていて、その始原を知ることにより、我々は本来のお役に立てるという共生の理を得て、主として関わり天人合一し大成していくのだとも感じる。

そしてその道を切り開くのは、当然自分にしかできないことを知ることからはじまる。

自分がどのようにしていくことが最も世の中に対して価値があることなのか、そしてその道を知るためにどのように学問を追究していけばいいのかに真摯に正対していくのだと思う。

今まで誰かが造った道も、時代が変わればたくさんの道を外れる人たちにより原初の道が消え失せ、歪んでしまうこともあろう。

しかし、そこで本物が観得る人たちが現れ本来あるべき道をまた見出し切り開くこともできよう、しかし、その道が正しいものであれば必ずどの道も同じところに辿り着くのは容易に想像することもできる。

道は、昔から一本道。
そして永遠に途上だからだと私は思う。

その中道の一本道を前へ前へと突き進みながら我々はこの「今」に生きているからだ。

そして、その道を得たいと真実に生きる人たちこの生この自分自身をこの世で盲目はいやで、この命を生かされる歓びがあるからこそ生きていられるという感謝を知ってしまうからこそ、もう生きるに於いて止むに已むことはできないという心持になるのだろう。

先日、師に道について尋ねる機会があった。

私が道というものは楽しむ心がなければならないのかと問うと、師は道とはどんなに苦しいことも道とし楽しむからこそ道楽というとその言葉を頂いた。

論語にはこうある、

「子曰わく、賢なるかな回や、一箪の食一瓢の飲、陋巷に在り。 人はその憂いに堪えず、回はその楽しみを改めず。 賢なるかな回や。」

(顔回はなんと立派な人物だろう。一膳の飯と一椀の汁物しかない貧しい長屋暮らしをしておれば、たいていの人は、その苦しみに堪えられないものだが、回はそんな苦境にあっても楽しんで道を行って変わることがない。なんと立派な人物だな回は。)

とある。

この顔回は、孔子が弟子の中で自分の学問の道を継げるのはこの弟子しかないとまで言われた人物であり、この人物の学問の道への志にいつも感服し、師の本質を身近で引き出し続けたいわば孔子の分身だった人だと私は感じている。

先日、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でもその秋山好古の言葉の中に「質素以外は身を滅ぼす、常に身を分かりやすく明瞭にすることだ!」と何度も弟に質素明瞭を語る場面がある。

二宮尊徳にもこれと同じように、「飯と汁木綿着物は身を助く その余は我をせむるものなり」とあるのも私は同じ意味だと思う。

道を歩み続けるためには、その道にあるという本人の自覚がいる。

ややもすると、身の回りに様々なしがらみが増え、モノも増え、自分の道を枯葉が多い尽くすように見え難くなってくる。そして自分が一体どうしたいのかが分からなくなってしまうことも在る。しかし、その道が常に目の前、あの坂の上にはっきりと観得ているのならばその志が立ち、その志と共にある自らを省みて再び道を切り開く日々を感じ尽くしながら歩むことができるのだとも思う。

道は、休み休みいくとしても河の流れのように止めることもなく常に流れながら歩むものだからこそいつも透明に澄んでいることが大切なのではないかと私は常々思っている。

しかし私は、その透明な心、澄んだ魂も日常の喧騒に揉まれ、まだまだ大いに流され乱れ、時として自らが分からないことになり、予てより決めたことも揺らぎ、その足元が迷い惑うことがある。

しかし、このかんながらの道に定めた基本精神、清く明るく美しい素直な心と、すべての生を和と敬う真心と、自然との禊と畏れの心などを忘れないようにし、より道を志、物事をシンプルにしていく努力をしていきたい。そしてたくさんの人ごみに揉まれても、様々な穢れの中でも常に自然清澄の実践を積んでいきたい。

まずはこの日々、この瞬間を一期一会に誠心誠意遣り抜く実践を優先していき、不動の境地を見出し、自修自立の精神を磨いていきたい。

感謝。

愛の距離感

人が仕事をするときや新しく一緒に誰かと何かをやるときには、その互いの最適な距離感を得て協働していくことになる。

どの映画でもドラマでも、チームで取り組み大きなことをやるというのは私達人間の課題でもあるしそれが社会だということになる。

しかし、なかなかそれができずそういうものを円滑に進めていこうと様々な会社が研修を行ったり機会を用意したりもしている。私達の現場、先生方と子どもとの距離感もそうだけれど、常にお互いの距離感をあわせていかないと信頼関係が築けないし、その子も自立して独り立ちしていくことも難しい。

その最適な距離感を顕すのに、哲学者ショーペンハウエルの寓話に「やまあらしのジレンマ」がある。

「ある冬の朝、二匹のやまあらしが寒くて体を温めあおうと思い近づく、しかしお互いの身体の針によって互いを傷つけあってしまう。そのあまりの痛みのために、二匹の間に距離を置くと、今度は周囲があまりにも寒くて我慢できなくなってしまう。こうして二匹のやまあらしが近づいたり遠ざかったりして、最適の距離を見出していき温めあうようになる」という話だ。

もちろん人間にはこれに加え、何らかの先入観やトラウマなどの感情で怖がったりしたり、もしくは自分と同じだと思い込み相手を粗末にしたりすると、人間関係でトラブルが起きる。そしてそのままにしておくと周囲の環境に耐えられなくなるまで何もしないか、もしくは環境が激変してトラブルことがたくさんある。

そのために、様々なやり方でみんな人間と付き合っている。飲みにいったり遊んだり、語り合ったり、同じ物を見たり食べたり、みんなそうやって何とか距離を埋めようと人間は常に必死になっている。

しかし、いくらどんなテクニックを学んでもその距離感は人により千差万別なのだからある一定のノウハウや仕組みは、付け焼刃になってしまうことも多い。

だからこそ、常に道を学び、本質を学び、人間というものを探求して歩むことで自らを修養することがもっとも大切であると私は思う。

やり方とは在り方があってのものだと私は思う。

つまり人間としての、仁義礼智信をはじめ、生き方という道徳に根ざしたものがなければそれは理解することも実践することも終には難しいと私は思う。

この世で生きているものにはすべて原理原則があると思う。

この距離感というものの原理原則は尊敬尊重するということだと私は思う。

植物でも動物であっても、そしてそれはモノであっても、まるで神様のようなものでも、まずこちらが丸ごと尊重して相手を本心から敬えば相手が自然に答えてくれていることが分かったりもすることもある。

そしてそれをあるがままに受け容れるという、「素直な心」で共感する実践を行い、そのものを丸ごと受容をしていけば、相手も自分も自然に認め合う距離感ができていくのだとも思う。

相手を尊重し、認めていくことがあれば、どんな生き物とでも信頼関係は築けると私は思っている。そのために、素直になるための修養をし、万物を信じるという感謝の修養をし、自分が生かされているという共生の修養をしていくのだとも思う。

ただし、それは過去の刷り込みや歪んだ社会の影響を受けたりすることもある。

私自身、こう書いてはいても自分から疑っていて距離を近づかない人を観るとなぜそんなに私を怖れるのだろうかと私がついエゴに引き寄せられ感情的になってしまうこともあるし、自分の決め付けが強過ぎる人は話ができず、心を開いてくれなかったりする。そうなると、もう自分も近づきたくもなくなるし、信頼することもできなってしまう。

仏陀が、「縁なき衆生は度し難し」とあるけれど、自ら人の声を頑として聴こうとしない人はどうしようもないのかなと感じることもある。

しかし、それをよくよく考えてみると生き物は全てナイーブな人もいれば頑丈な人もいるし、これはどの自然界でも当たり前にそれがあり、だからこそ支えあうし、個性として認めて共生しているようにも思う。

実践は別物だとも思う。

その実践とは、「信じる」実践だと私は思う。
この「信じる」ということで心を開いていくのではないかと私は思う。

ここでの「信じる」とは、裏切られると怖れないということ、つまりは信じていてまるで疑ってもいない状態、まるごど信じきっているということが信じるということ。

そしてその実践はとても難しいともいえる。

全てのものを信じ切ることは、自分をオープンにさらすことになり、そうしていると相手を尊敬する気持ちが湧き上がってくる。そしてその人の自分に対する大いなる無償の愛のようなものを確認できたら、思い切ってその愛に自分のすべてを委ねきる勇気がなければいけないというようなものなのではないかとも思う。

そして、相手が常に自分を「無償の愛」で見守ってくれていると信じきっているという境地が維持できているということになる。それは信頼関係ができているということ。

その愛の距離感を大切して信頼しあい、はじめて自立や共生することができる。

まずは私自身、自分が相手を認めて受容できるような思いやりと優しさ、無償の愛をもって接することが出来るような実践を求道し、自分が先に傷つくことを怖れずにまずは相手を丸ごと受止める気持ちを大事にし、本人自らその距離感を得ることができるように、丁寧に待つことを実践しそれぞれの人たちの幸せに貢献できるように見守っていきたい。

まだまだ学びを深めて蔑ろにしないように努めて生きたい。