人が仕事をするときや新しく一緒に誰かと何かをやるときには、その互いの最適な距離感を得て協働していくことになる。
どの映画でもドラマでも、チームで取り組み大きなことをやるというのは私達人間の課題でもあるしそれが社会だということになる。
しかし、なかなかそれができずそういうものを円滑に進めていこうと様々な会社が研修を行ったり機会を用意したりもしている。私達の現場、先生方と子どもとの距離感もそうだけれど、常にお互いの距離感をあわせていかないと信頼関係が築けないし、その子も自立して独り立ちしていくことも難しい。
その最適な距離感を顕すのに、哲学者ショーペンハウエルの寓話に「やまあらしのジレンマ」がある。
「ある冬の朝、二匹のやまあらしが寒くて体を温めあおうと思い近づく、しかしお互いの身体の針によって互いを傷つけあってしまう。そのあまりの痛みのために、二匹の間に距離を置くと、今度は周囲があまりにも寒くて我慢できなくなってしまう。こうして二匹のやまあらしが近づいたり遠ざかったりして、最適の距離を見出していき温めあうようになる」という話だ。
もちろん人間にはこれに加え、何らかの先入観やトラウマなどの感情で怖がったりしたり、もしくは自分と同じだと思い込み相手を粗末にしたりすると、人間関係でトラブルが起きる。そしてそのままにしておくと周囲の環境に耐えられなくなるまで何もしないか、もしくは環境が激変してトラブルことがたくさんある。
そのために、様々なやり方でみんな人間と付き合っている。飲みにいったり遊んだり、語り合ったり、同じ物を見たり食べたり、みんなそうやって何とか距離を埋めようと人間は常に必死になっている。
しかし、いくらどんなテクニックを学んでもその距離感は人により千差万別なのだからある一定のノウハウや仕組みは、付け焼刃になってしまうことも多い。
だからこそ、常に道を学び、本質を学び、人間というものを探求して歩むことで自らを修養することがもっとも大切であると私は思う。
やり方とは在り方があってのものだと私は思う。
つまり人間としての、仁義礼智信をはじめ、生き方という道徳に根ざしたものがなければそれは理解することも実践することも終には難しいと私は思う。
この世で生きているものにはすべて原理原則があると思う。
この距離感というものの原理原則は尊敬尊重するということだと私は思う。
植物でも動物であっても、そしてそれはモノであっても、まるで神様のようなものでも、まずこちらが丸ごと尊重して相手を本心から敬えば相手が自然に答えてくれていることが分かったりもすることもある。
そしてそれをあるがままに受け容れるという、「素直な心」で共感する実践を行い、そのものを丸ごと受容をしていけば、相手も自分も自然に認め合う距離感ができていくのだとも思う。
相手を尊重し、認めていくことがあれば、どんな生き物とでも信頼関係は築けると私は思っている。そのために、素直になるための修養をし、万物を信じるという感謝の修養をし、自分が生かされているという共生の修養をしていくのだとも思う。
ただし、それは過去の刷り込みや歪んだ社会の影響を受けたりすることもある。
私自身、こう書いてはいても自分から疑っていて距離を近づかない人を観るとなぜそんなに私を怖れるのだろうかと私がついエゴに引き寄せられ感情的になってしまうこともあるし、自分の決め付けが強過ぎる人は話ができず、心を開いてくれなかったりする。そうなると、もう自分も近づきたくもなくなるし、信頼することもできなってしまう。
仏陀が、「縁なき衆生は度し難し」とあるけれど、自ら人の声を頑として聴こうとしない人はどうしようもないのかなと感じることもある。
しかし、それをよくよく考えてみると生き物は全てナイーブな人もいれば頑丈な人もいるし、これはどの自然界でも当たり前にそれがあり、だからこそ支えあうし、個性として認めて共生しているようにも思う。
実践は別物だとも思う。
その実践とは、「信じる」実践だと私は思う。
この「信じる」ということで心を開いていくのではないかと私は思う。
ここでの「信じる」とは、裏切られると怖れないということ、つまりは信じていてまるで疑ってもいない状態、まるごど信じきっているということが信じるということ。
そしてその実践はとても難しいともいえる。
全てのものを信じ切ることは、自分をオープンにさらすことになり、そうしていると相手を尊敬する気持ちが湧き上がってくる。そしてその人の自分に対する大いなる無償の愛のようなものを確認できたら、思い切ってその愛に自分のすべてを委ねきる勇気がなければいけないというようなものなのではないかとも思う。
そして、相手が常に自分を「無償の愛」で見守ってくれていると信じきっているという境地が維持できているということになる。それは信頼関係ができているということ。
その愛の距離感を大切して信頼しあい、はじめて自立や共生することができる。
まずは私自身、自分が相手を認めて受容できるような思いやりと優しさ、無償の愛をもって接することが出来るような実践を求道し、自分が先に傷つくことを怖れずにまずは相手を丸ごと受止める気持ちを大事にし、本人自らその距離感を得ることができるように、丁寧に待つことを実践しそれぞれの人たちの幸せに貢献できるように見守っていきたい。
まだまだ学びを深めて蔑ろにしないように努めて生きたい。