私達の血脈の中に延々と息づく魂に、「道」がある。
この道とは、私達が真摯に自分を活かし生きるということに対して、自らの道を切り開き命を尽くすという、天と地にある人としての在り方のようなものを示した古来から残る普遍的な学問の本質によって知ることができる。
東洋では、仏陀をはじめ、孔子や聖徳太子、その他、数多くの聖賢や偉人が道を切り開いてきてその先人達の思想を繋ぎあわせて一円融合し、今、ここ、この瞬間に私達は生きることができている。
そしてその道とは、自分が何のために生まれてきたのかを知ることでもあり、どのようなことにその命を使うかを決めることでもあり、何によってその命を立てるのかという、本来時間や自分を越えた「時元時空」の中での「自ら天命に叶う」ということに意味を与えていくことだとも思う。
一つのものは全てのものに繋がっていて、その始原を知ることにより、我々は本来のお役に立てるという共生の理を得て、主として関わり天人合一し大成していくのだとも感じる。
そしてその道を切り開くのは、当然自分にしかできないことを知ることからはじまる。
自分がどのようにしていくことが最も世の中に対して価値があることなのか、そしてその道を知るためにどのように学問を追究していけばいいのかに真摯に正対していくのだと思う。
今まで誰かが造った道も、時代が変わればたくさんの道を外れる人たちにより原初の道が消え失せ、歪んでしまうこともあろう。
しかし、そこで本物が観得る人たちが現れ本来あるべき道をまた見出し切り開くこともできよう、しかし、その道が正しいものであれば必ずどの道も同じところに辿り着くのは容易に想像することもできる。
道は、昔から一本道。
そして永遠に途上だからだと私は思う。
その中道の一本道を前へ前へと突き進みながら我々はこの「今」に生きているからだ。
そして、その道を得たいと真実に生きる人たちこの生この自分自身をこの世で盲目はいやで、この命を生かされる歓びがあるからこそ生きていられるという感謝を知ってしまうからこそ、もう生きるに於いて止むに已むことはできないという心持になるのだろう。
先日、師に道について尋ねる機会があった。
私が道というものは楽しむ心がなければならないのかと問うと、師は道とはどんなに苦しいことも道とし楽しむからこそ道楽というとその言葉を頂いた。
論語にはこうある、
「子曰わく、賢なるかな回や、一箪の食一瓢の飲、陋巷に在り。 人はその憂いに堪えず、回はその楽しみを改めず。 賢なるかな回や。」
(顔回はなんと立派な人物だろう。一膳の飯と一椀の汁物しかない貧しい長屋暮らしをしておれば、たいていの人は、その苦しみに堪えられないものだが、回はそんな苦境にあっても楽しんで道を行って変わることがない。なんと立派な人物だな回は。)
とある。
この顔回は、孔子が弟子の中で自分の学問の道を継げるのはこの弟子しかないとまで言われた人物であり、この人物の学問の道への志にいつも感服し、師の本質を身近で引き出し続けたいわば孔子の分身だった人だと私は感じている。
先日、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でもその秋山好古の言葉の中に「質素以外は身を滅ぼす、常に身を分かりやすく明瞭にすることだ!」と何度も弟に質素明瞭を語る場面がある。
二宮尊徳にもこれと同じように、「飯と汁木綿着物は身を助く その余は我をせむるものなり」とあるのも私は同じ意味だと思う。
道を歩み続けるためには、その道にあるという本人の自覚がいる。
ややもすると、身の回りに様々なしがらみが増え、モノも増え、自分の道を枯葉が多い尽くすように見え難くなってくる。そして自分が一体どうしたいのかが分からなくなってしまうことも在る。しかし、その道が常に目の前、あの坂の上にはっきりと観得ているのならばその志が立ち、その志と共にある自らを省みて再び道を切り開く日々を感じ尽くしながら歩むことができるのだとも思う。
道は、休み休みいくとしても河の流れのように止めることもなく常に流れながら歩むものだからこそいつも透明に澄んでいることが大切なのではないかと私は常々思っている。
しかし私は、その透明な心、澄んだ魂も日常の喧騒に揉まれ、まだまだ大いに流され乱れ、時として自らが分からないことになり、予てより決めたことも揺らぎ、その足元が迷い惑うことがある。
しかし、このかんながらの道に定めた基本精神、清く明るく美しい素直な心と、すべての生を和と敬う真心と、自然との禊と畏れの心などを忘れないようにし、より道を志、物事をシンプルにしていく努力をしていきたい。そしてたくさんの人ごみに揉まれても、様々な穢れの中でも常に自然清澄の実践を積んでいきたい。
まずはこの日々、この瞬間を一期一会に誠心誠意遣り抜く実践を優先していき、不動の境地を見出し、自修自立の精神を磨いていきたい。
感謝。