昨日、かねてよりお取引のある保育園の職員の方が来社された。
この方は、私のこの「かんながらの道」ブログを知ってから、内容に共感していただいたらしく、日々読み進めるうちに、悩みや話を聴いていただきたいと思いが募り、知人の保育士や、関係者、また自園の園長にどうしたらこの人に会えるのかと相談しついには私へ辿り着き、園長より連絡があり一緒に会社に尋ねてこられた。
この方は、幼稚園教諭を5年ほど経験し、2年は託児所のような施設で働き、10年間は専業主婦をして3人の子どもを育て、そして現在は認可保育園で2年勤めているとのこと。
今年5月から偶然このブログに出会い、そこから日々悩み実践する中で感動したり、感涙したりなさっていたとのことで私自身とてもびっくりするとともに、恥ずかしくもあったけれど、大きな勇気をいただくこともできた。
もともとこのブログは、誰かに読んでもらうために書いているのではなく自らの問題意識と実践が必ず将来の子ども達の推譲になると信じて念じ歩む道であることと、師とともに自らのシンクロニシティをより明らかにすることで世界を変革するためのご縁を引き寄せていくようにと続けているものだ。
今回は、そのシンクロニシティの一つとして機会が現れてくださったのだと心から感謝しています。
このシンクロニシティとは改めて説明すると、C・G・ユングの古典で生まれた言葉で「非因果的連関の原理」と訳される。その定義では、「2つ以上の出来事が重要な意味を持って同時に起こること、そしてそこには単なる好機の到来以外の何かが関わっている」として使っている。
私の思想では一つの思いをただ一筋に透徹するまで澄み切って念じきれば、そこに偶然と呼ぶにはあまりにも予期せぬ神がかった出来事が起きる。そしてその刹那、その瞬間、何かそこに叡智とも言うべき偉大なものを確かに感じることがある。
そしてそれは、未来と過去を交錯し融合され、その今、その瞬間にまるでスローモーションのように出来事が過去から未来へとゆっくりと遡るような感覚を得るというのが私の体験である。いわゆる、時がなくなるような感覚を得る。
人は、きっと深層心理下ではインターネットのように何かのラインがいつも繋がっていて何か誰かがある意識をすれば、それが世界のどこかの誰かが受信するという、思想の中の次元の世界での話をして繋がり続けているのだと私は感じている。
あまりそういう話をしていると、一般に世間ではオカルトなどではないかと思われるのでまだ理論が明確ではないうちにはしないけれど、哲学として見てもらえれば、これは禅にもあるような「一期一会で生き切る実践」を通じているとそういう感覚になるし、そしてそれはきっと日常で大なり小なりみんな持っているし感じていることと思っている。
話を来社いただいた方に戻す。
その方は、今、0,1歳児を担当している保育者でありその現場で見守る保育を実践しているけれど、今はとても自然に子どもたちに接することを意識しているように感じた。子育てを通じて子どもたちのことを観てきたことが保育に活きているようにも感じた。子どもへの眼差しからその子どもとの愛着関係はとてもしっかりできているような感じがしたからだ。
しかし、大人同士との人間関係はとても難しく、それぞれの先入観や経験、決め付けなどもあり話がうまくできずどのように自分が努力していいのかなど悩んでいらっしゃるとのこと。人は情熱があればあるほど、自分が理想と誇りを持ち真摯に生きていきたいと思っている人ほど、自分が何とかしようとして必死になってしまい、次第に袋小路に入ってしまうこともある。
行動力があると先に動けるので、つい動いてばかりいると特に目の前のことばかりに囚われることもあり、そのやり方をたくさんかえるけれどすべてうまくいかないというジレンマに陥ることもあると私は思う。
私もそういう体験はよくするし、またやっているなぁと客観的に観て修正することもよくある。変化というものへの正対の仕方の一つだと思う。
私はそういう時は、「努力のあり方」を変えることにしている。
たとえば、笹船を桶に浮かべるアソビがある。
笹舟を桶の中心に浮かべた後、何度も何度も引き寄せようと水を自分のほうへと引くけれど笹船は逆に自分から離れて向こうへいってしまう。こちらに引こうとする気持ちが強いからどんな方法を考えても引くことばかりのやり方になってしまい結局笹舟は遠くに離れていくばかりになる。
そしてこれではダメだとして、急に何もしないと、よほどの風でも吹かない限りはこちらに来ることもない、じっとしていても何も進展しないし、偶然を待つだけになる。焦る気持ちが邪魔し、物事をよく観察することもなかなかできなくなったりする。ただ、じっと観察すれば発想を転換することに気づける機会が得られることがある。
しかし、そこで勇気を持って、逆のことをする。つまりは自分から反対の方へと水を押し出していくと笹船はこちらに近寄ってきて、それが理解できるとそれをするのに躊躇いがなくなり、遂には自分の手元に笹舟がたどり着くことができるという話だ。
この話に似ているのが、努力のあり方を変えることであり、それが正しく諦めるということ。
私は、努力の在り方とはやり方のことではない、つまりは心の転換のことだと思う。そして後ろ向きな諦めではなく、前向きな諦めとも言ってもいいと思う。
この「諦め」とは、一生懸命真面目にやっている人には何かよくないイメージがある。たとえば、その人に諦めろというと勝負を捨てたや、途中で投げ出した、逃げ出したという印象を持たれ反発される。しかし、それは私の言う諦めたのではなく、今まで良いことをやっていたのでやらなくなったのは悪いことだと頑固に真面目に決め付けている世界から抜け出しているわけではないから言うのだと思う。ある意味、柔軟性のない真面目さは頑固だということになるし、素直になれないという屈折した心の現われにもなったりするから気をつけないといけない。
ここでの私の言う本当の諦めとは、勇気を持ってその反対から努力を行うこと、つまりは発想の転換をしてみることであり、もしくは、先ほどの笹船では自分から手放したその笹船がどうなろうと諦めてじっと問題を観察して見守るや逆に押してみるなどといった、とても心の力を使った能動的な努力のことをいうのだと私は思っている。
この諦めに於いて何を持って受身か自立かというと、一つの方法に囚われ決め付けその方法だけに固執し、意固地になってその作業そのものに心を奪われることを受身だというし、自立では勇気を持って変わるために今までのことをやらない努力を自立だというのだと思う。
大事なのは、自立するために勇気を持ってその「あり方」を変えることであり、そのための努力に実践を切り替えることだと私は思う。
人は誰しも今までうまくいったやり方ですべてうまくいくと思ってしまうフシがある。しかし、時として環境が変化しそれがあわないと思ったらすっと捨ててみて前向きに諦め、「あり方の変換」を行う必要があるのだ。順応性とも言うし、循環の理の理解でもある。
特に、現在の保育でもそうだけれど今まで一斉画一にしていた保育を急に見守る保育に換えるのならば、今までやっていたことのついでに足して努力したって変わるはずはない。今までやらなかった努力をどれだけやれるかにかかってくる。
それは、本当に勇気のいること。
だから理念が要るともいう。
以前、私達の会社でも弊社に転職してすぐ目の前の作業に没頭する社員達がいた。けれど、カグヤの理念を信じ、自分を信じ、私を信じることにより、今までやらなかったことを行い、今では立派に社内環境を見守れるカグヤを支える立派なクルーの一員となっている。
何を信じるかは、その人のものだけれど理念が在る組織にいる以上、そのトップの理念や信念に自分をあわせていくことがもっとも自分が変わるには大事な要素になる。
ぜひ、自分が選んだその組織を信じて、自分がやりたいことを信じて、勇気を持って前向きに諦める努力するようにしてほしいと願います。
私自身、世界には必ず自分の行いや思いを受止めてくださる方がいると感じる機会にもなり、今回のようなあなたの勇気ある行動に対して深く感謝しています。
人は、変わろうと強く念じれいつでも変わることができる。
そしてそれは距離を超え、人種を超え、時間を超えてくる。
また再び有難い一期一会と邂逅をいただきました。
これからも子どもを前に私達は子ども第一主義を貫き、お互い子どもの現場の中で、豊かで幸せな日々を子どもたちに譲っていけるように全力を尽くしていきましょう。