心伝

生きていると、外の世界や外界の出来事に囚われ視野が狭まり心眼が開かずに余裕がなくなるときがある。

そしてそうやって余裕がなくなると、物事の優先順位が変わり、相手に対して求めることが増え、自分自身がゆったりとした悠久の時間やその輝き煌く慈しい命を感じる暇もなく不安や焦りばかりが広がっていくことがある。

日々、省みる時間を取り、自らを正して素直に誠を尽くしていけば自然に天地自然の宇宙の気のようなものを体感し静かに穏やかになっていくけれど、それは実践の心により自らへも伝わるもので脳が分かった気になっていては天を感応する力すらも呼び込みはしない。

人間は誰しも、余裕がなくなると自分のことばかりが前に出るようになる。

それをエゴともいい、それが一度出だすと自分が相手と同じだと思うようになり、相手から早く返答をもらおうとし、話を聴くことをやめ、素直になれずに卑屈になり、悪いことを正すことばかりに囚われ、そして独りぼっちになるのを恐れ周囲を巻き込み、さらには相手に過干渉になり、解決ばかりを考えてしまうようになる。

これは私でもよくあることだし、過去の刷り込みやトラウマによってそれは引き出されてしまう。

物事の解決とは、そのものの心の中にあり、そしてその人の内面にこそ存在しているのだからいくら心の外ばかりを見て、その外側を解決したとしても本質や事実は何も変わっていないということは時間が経ってみてもう一度見てみるとそういう先延ばしをすることがよくあるものだ。

人間は、心の問題を理解しないと外側の問題は解決することはない。外側の問題は、その内面の課題に向き合うために用意されたものだとすることもできる。

いくつもの出来事を本気のままに感謝し、その環境を丸ごと受け容れる時、はじめて自らの心の状態が落ち着いてくるものだし、その時こそ外側の解決から内面の安定へと転換されていくのだとも思う。

そしてその心がしっかりと定まれば、幾つもの課題をゆったりと安心して乗り越えることができ、より成長し強く優しくなっていくのもまた人間なのだと思う。

そういう境地になれば、相手や他人を自分のことのように受止めることができ、ゆっくり返答を耐え忍び待ちあげて、話をよく傾聴し、素直に正直になり、すべてを良い方へと向かっていると支援し、独り穏やかに慎み、最適な距離感で見守れるようになり、解決よりも真心や努力精進できることへの感謝を優先できるようになるのだと思う。

そしてその実践から次第に人徳が備わっていき、相手を幸福に感化していける本物の人になっていくのだと思う。

しかし自らを思うとその実践は、思っているよりもそう簡単にはいかない。
真理や原理原則をいくら知ったとしても、それが正しくできるわけでもない。

まだまだ私は学びが実践より弱く、理想の聖賢や師匠の背中には近づけないし、自分はこの自分の心ですらも修まっていないと猛省することばかり。

自ら定めたこの道をただ粛々求め歩み、自分を叱咤激励し高めていくしかないと真摯にこの今、この瞬間も深く感じている。

出来事があり、それを深く味わい感じつくしていると反省する機会が得られることは本当に有難いことだと思う。

これからも私は座右と自戒を忘れずに、学問と修養を深め、他人に対してはおおらかで明るい広い心を持って清らかな心のままあるがままの姿で自らの道を開いていけるように実践していきたい。

何よりその時々の自分のエゴと正対し、より未来の子ども達のモデルになれるような日々の実践をひたすらに追求し、思いやりを持って温かく感化できるように不動の心を育て歩んで生きたいと願う。