一年を振り返り、全てを受け容れて学びを深めていくことは、自らの今を鑑みるのにとても大切なことだと私は思う。子ども達のためにと一概にいっても、どれだけ今の子ども達の危機に自らが正直に尽くせたのかを思うとこれからの未来を自分のことのように思い、何を為すべきか、何を期すべきかを思わない日はなかった。
けれど、自らのみが焦り、孤立するわけにもいかず、周囲の温かな真心をあわせて、その時、その瞬間が来ることを大いなる自らへの問いとともに心と正対し、その道を開かなければならないと思い律している。
私が小学校の5年生の頃、ある友人と自宅の前の道端で一晩中話し合ったことがある。それは自分の目に観得ているこの世界は心があるから創り出し、その心がなければ周囲のすべては存在しないといってお互いが存在しないのかの理由を語り合っていた話だ。
その頃はだからこそ自らの心の在り方が大切なのだとしたところで話が終ったけれど、そこから何を学ぶことがもっとも価値があるのかは知識の量ではなくその心がどのようになっていることなのかということをその後から私の中では優先するように生きてきた。
そして今回、年末に一休みする時間が取れたので、以前より師のブログで紹介されていて読みたかった司馬遼太郎の「峠」を読んでいる中でその文節にある「感応力」ということに以前のこの体験と似たようなことが書かれていてとても共感できる部分があった。
それにはこう書いてある。
「天地万物は人間であるオノレがそのように目で見、心に感応しているからそのように存在しているので、実際にはそんなものはない・・・要するに、人間が天地万物なるものを認識しているのは、人間の心には天地万物と霊犀相通ずる感応力があるからであるという。いやいや、その天地万象も人間の心も二つのものではない。天地万象も人間の心も、「同体である」という。」
「だから心をつねに曇らさずに保っておくと、物事がよくみえる。学問とはなにか。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」(「峠」(上)より)
つまりこれは自然万物は繋がっていて全ては一つのものであるということであり、だからこそ心の感応力を如何に研ぎ澄まし、周囲のものとあるがままになることで、そのものの本質を観抜くことができ自らがどのように動くのかが自然に決まるということに繋がる。
それはさらに言うと、清く明るく澄んだ真心で素直に実践するということに無為自然そのものがあり、その自然であるということに根ざすから本質的な人間の生き方を得るのだともいうのだと思う。
だからこそ学問がある。
そしてそれは思うだけでは学問でもなく、それを如何に実践するかが本物の学問とある。これは孔子が遺した仁の実践からも言えることだけれど、古今問わず聖賢が目指した学びの問いこそが真の人間の生きる道ではないかと私も思う。
そしてその入り口として、まず志を持つことは肝心となる。
時代時代にどうしても自分が遣らなければと切に感じ、誰もやらないと義憤を感じて、その問題から逃げずに追求し尽くしていく日々の中で志が養われ、志に活かされていく。
志が一期一会を用意し、師友に出会うことにより、今の自分がどのような布置にいて何をしようとしているのかを実感することができ、さらに社会や生活への追及と工夫、世界への探求と真理への悟りへと駆り立てる。
本当に澄んでくればくるほど、この世界は妙であり不思議に満ちていると感じてしまうけれどそこに自分があるからこそ世界は存在することができる。
そしてこの「峠」の中には志についてこう書かれてある。
「男子が男子たるゆえんは、志の有無にある。詩が貴く絵が貴く書が貴く礼楽が貴いのは、それによって男子の志をのべるからであり、それをもって男子の志を養うからである。」
「世は、絵でいえば一幅の画布である。そこに筆をあげて絵をかく。何を描くか、志をもってかく。それが志だ」
私のブログも、幾人かの思いを友にする方々と同じ時間に生き、同じ時間に学びあい、同じ時間で実践しあっていく、このやり取りすべても互いの志を養うことでもあり、私の「かんながらの道」をどのように実践して創意工夫するのかを感応力によって行うに至る。
常に、私は自然の中に在る八百万の神々を感じながら自らの内面にある自然を見出しそれに応じて誠を尽くしていくのかにその命の大元がある。
私たちは、感応することを忘れてはいけない。
日々の一つ一つの出来事や物事のすべてに、自らの道を切り開くすべてがあり、その道が自らを真に生かし切っていくということを。
生き方は先人に学べ、在り方は自然に学べる。
そして人間は、生きている中に学べる。
すべてはこのように自らの感応力を磨き澄ませ様々なことを感じ尽くしてこの今を大切に歩んで生きたい。