筋道

人間はその関係の中で色々な事が起こり、出会いと別れを常に繰り返しながら成長していく。それを真摯に考えると人はエゴやジレンマで人とのつながりに自分を見出だし、その際に自分がどうなのか相手がどうなのかと繋がりに生かされながら成長していく。

人は、何かをお互いで行うときは必ず信頼関係がいる。
信頼を築かなければ、不安になり何を行うにも孤独を感じて何事も完遂する前に挫折してしまうし、何より分かち合うや分けあうという自立した真の幸せを感じることができなくなったりもする。

人づきあいには必ずと言っていいほど義理人情としての関わりの中に確かな筋道というものがある。

例えば、人としてどうあるべきかという普遍的な人間関係の中での筋の通し方、つまりは本筋というものがある。

これはもちろん互いを信頼や信用するために、相互いに偽らず真心でお付き合いをしているかとういうこと。具体的な実践には、嘘はつかない、約束は破らない、無責任な言動は慎む、時間を守る、打算をしない、恩を着せない、嫉妬しない、等々、色々と人と人が生きるには目に見えないけれど何かその人たちの間で共通する筋道を主軸に正しく付き合っていくというものがある。

そうやってお互いに暗黙の了解で信頼や信用するための筋道がたっていなければ必ずどこかでその筋は切れるし、もしくは筋が腐ることもある。

筋がきちんと立ってこそ人は人を信頼し合い、命を預けたり、認め合い、思いやり、人々のために自分を自分らしく協力して一緒に世界へ貢献していくことができる。

しかしよくビジネスの世界では、商売をするためと損得などを考え計算するというけれど実際問題、経営をする人たちで成功する人はみんな計算よりもその人への生き方における生きざまや心の戒律、仁義や誠意、正直や恥を持つなどの正しい自尊心からの処し方や在り方を重んじて信頼関係で商売をしているものだ。

それもよく考えれば当然分かるけれど、私たちが扱う貨幣(お金)といっても所詮はひとつひとつは紙切れ同然のもので取引をしている。信用を基盤に社会がそこに形成され、その信用という価値で、物品やサービスの価値を定めて取引をしているだけだ。

当然、モノにもコトにも人格や物格、社格や風格といった目に見えないけれど信用や信頼という格物という名の真の価値が存在する。

それをどのように守るのかには、それを行う人の理念に基づく信念や信条も要る。

だからこそ、日々、何度も人との間に居て自ら内省し、「自分を欺かなかったか、他人に偽らなかったか」を繰り返し学び直し、ブレずに大事にしている経営者はとても皆から信頼されていくということになると私は思う。

経営者に限らず、人から信頼される人とはきっとそうやって本質的に自分を大事にできる人たちだと私は思う。

東洋には道があり、そこには天がある。

よく祖母が「お天道さまが見ているから悪いことはいけません」とあったけれど、その意味が深まっていくにつれその教訓の素晴らしさを実感する。

いつでも誰が見ていなくても自分のことは自分が観ているとし、何より恥じないような生き方をする事の中に日本の武士道があり、凛としたあり方があるということ。

日本語の中にある生活習慣には先人から受け継がれた本質がつぶさに潜んでいると思うと、今さらだけれど本当に日本人の文化の崇高で清々しさには頭が下がる思いがする。

人はこのように守らなければならないものは理屈はどうこうであれ必ず守るとということを忘れ不自然に筋道から外れてしまうと、大事な人や損得を抜きにした真心の人たちが離れてしまい最後には孤独を味わい惨めな思いをすることにもなる。

人間は目に見える世界だけに囚われ真実があると思ったら大間違いでその瞬間から矛盾を受け容れる澄んだ平常心や素直さや自分と正しく向き合うという真心をおざなりにしてしまうのだと思う。

常に、人と人との間に目に見えない真の絆や繋がりがあることを深く感じ、そして信じ、人に対しては仁義や筋道を何よりも重んじる理念と信条や信念を実践できる信頼される正直な大人のモデルを示したいと思う。

子どもたちに見せる私たちの大人の背中は、いつもそこに正直に真っ直ぐにそしておおらかに明るく清々しい嘘偽りないものを遺していきたい。

そして教育業界に関わる以上、まずは自分自身がそういう清々しい筋の通った大人であるように実践して日々を暮らしていきたい。

天地自然からの恩恵と人々の中に在る思いやりに満ちた優しい心を感じながら穏やかに静かに歩んでいけるよう学問を深め自らに禊ぎし、何より素直に清らかに明るくこれからもいようと思う。

感謝

根明と良心

たくさんの人たちの中で人生をより良い方へと信じている人とそうでない人がいる。物事はすべて良くなるようにできていると思える人とそう思えない人がいる。

そこには根明や根暗といった心の問題が現象や環境に対して主体と依存を映しだし、自らの人生と他に対して肯定的か否定的かなど明暗分かれるようにも感じる。

在る人はどんなことがあっても最後は笑い飛ばし「大丈夫なんとかなるさ、なるようになるさ」と前向きに生きている。また在る人は、最後まで悲壮感が漂い「どうしよう、ああどうしよう」と反復ばかりし後ろ向きに生きている。

どうしようもないことを考えるよりも、どうにかなることを考えようといくらその人にいっても、その根底の明暗がどちら側でいるかでその人の持つ生きる意味や意義も左右される。

人は、誰でもどんな境遇にあっても自らで自らの生き方を選ぶことができる。

生きていれば人は何かいつも出来事が起きる。

それを周囲が「生きるためにすべては必要なことだから何があってもきっとあなたなら大丈夫だ」とその人の生きる力を信じて支援・援助するのか、もしくは何をやっているのかと叱り無駄なことはやめなさいと放任・干渉するのかでその本人の生き方や考え方の起点が異なることもある。

私はすべての生き物は「七転び八起き」ではないけれど、転んでも転んでもそれをものともせずに前に転がっていこうとすることが生そのものを受け容れる力になっていくと思う。

あのたんぽぽでも、あの虫たちでも私たち人間と同じように明るく前向きに全てを受容して生きているものだけが自然で活き活きと自らを発揮する。

そして植物の種のようにもともと芽が出る力も花が咲く力もその力を持って生まれ出でてくる。

もしそれを大人の一方的な刷り込みで無理に先回りし固定してしまうと、あの人間の手がかかる植物のように肥料や温度管理など、いつも大人がいないと何もできないようになることもある。

子どもの無限の可能性を引き出すと教育の世界ではよくスローガンのように言われるけれど、もともと子ども自身は可能性を求めてたくさん失敗するのだからそれをどう肯定して環境を用意し自然に見守るかを大人がただやればいい。

そうすることでその子が前向きに明るく生きていく人生の基礎ができるのだと私は思う。

どの人も例外なく人生は様々な悲しい出来事や生前生後のトラウマなどと正面から向き合うときが来る。それが因果の法則もあるし、業も縁と同じように様々に絡み合い繋がっている。それはどうにもならないからこそどうにかしようと不安がるよりもその際にまずその根が明るい性格であることを優先することはとても大事な気質になる。

モノがいくら溢れていても環境がいくら整っていて豊かでも人間は自らを主体的に明るく澄んで素直な心でいないと真の幸せは訪れない気もする。
モノがいくらなくても環境がいくら整っていなくて貧しくても人間は主体的に明るく澄んで素直な心でいれば真の幸せは訪れる気もする。

だからこそ常に、外界の出来事に左右されないその心の根っこが明るいということはどんな自然環境の中でも自分を存分に発揮し活き活きと生きていくための真の糧を吸う力になるのだと私は思う。

最近では、世相はとても世知辛く、それに周囲は見守るというより結果を焦り、決め付けや刷り込みを要求し、不安や焦燥を押し付けてくる傾向がある。

その中でもブレずに自らを維持し、自分を活き活きと尽くすには、何より明るいというその気質をまず日頃から大切に修養していくことが必要だと思う。
つまり何よりもその明るい心を普段から自分で育てる精進がいる。

いつも御蔭さまの心を育て、感謝の気持ちを大事にして学問をして自らの道を歩むことがその気質を良くするということを信じて実践したりして明るくすること。

ここで言う明るいとは、つまりは『良心』のことを言う。

人はもともと生まれる前から持っている「良心」というものがある。

もともと人間が生まれながらに持っていたその良心を素直に澄ませいけば必ず自然に「根明な心」が引き出されていくのだと私は思う。

そして何より幸せとは、明るく生きるということに根差す。
明るく生きるとは、何よりも自分の良心を見つめてそれを澄ましていくこと。

根明とは良心のこと。

子どもたちが将来幸せになるためにも、周囲の人々を幸せにするためにも、自分が幸せを感じて優しい大人になっていくためにも、自分の「良い心」を大事にし、明るい実践と明るい感謝の根を育てていこうと思う。

子どもたちにも良いこと良い心をたくさん持ってそれを生きる糧にできるように私たち大人の良い行いという実践で背中を見せ、志を良心に根差して社会貢献していきたいと思う。

初めの心

日々、仕事をしていると作業が中心になってくる人がたくさんいる。
そして作業は熟練しているけれど、仕事が出来ない人がたくさんいるから会社はとてもその評価に困ってしまうことがある。

しかし最終的には良い仕事が出来る人が評価され作業が評価されているわけではない。なぜなら仕事とは、仕えることであり、業を作ることではないからだ。

忙しくしている人はよくよくじっくりとその全体を観察していると、受身になりがちで余計なことばかりを作る人になっている場合が多い。

不思議な話だけれど、自分で作業を増やし続けて残業している場合もあれば、誰かが作ったことの処理に追われて残業する場合もある。そしておかしなことに、それをやることで満足感を得てしまい趣味か仕事か分からなくなる場合もある。すると孤立する。

本来は、皆が作業をやらずに会社の本来の目的、つまりは理念に基づき仕事をしていればきちんと仕事は時間通りに進むと私は思う。なぜなら、それが本当にやるべきことをきちんとやっているからということになるからだ。

料理でも芸術でも、本質を捉えて理念に基づけば物事は「シンプル」になる。仕事が円熟するのは、シンプルにしていく過程であって何かをやるためにやっているわけではない。生きている時間、たった一度しかないこの人生を如何に豊かに充実したものにするのか、それは共生や貢献などによる在り方そのものへの命そのものの使い方によるものだと思う。

だからこそよく作業が多く余裕がなくなる人はいつも何かやることが日々どんどん増えてたくさんありそれを坦々と必死に真面目に取り組んで疲れている。

しかし、よく見ると真面目さというのは何により真面目かで答えが変わる。
つまり作業に対して真面目なのか、仕事に対して真面目なのかでそのものの定義がまったく変わる。

例えば、作業側から見れば目の前のことを全部そつなくこなすことが真面目となる。しかし仕事の側から見れば、本当にやらないといけないことだけをできるように取り組むことが本当の真面目ということになる。

逆を言えば、仕事側では真面目であることは、作業では不真面目と思われるようなこともある。それは一見サボったとも思われる。なぜならやらない作業が沢山必要になることを知っているからであり、やらなくて良いものは極力やらないと言う風にやっていないからだ。そうやって時間をつくっておかなければ心を篭めて本当の意味で会社に、社会に、上司に仕えることができなくなるからだ。

どんな仕事も本来の仕事での作業は、何より余裕とゆとり、さらに丁寧さと柔軟性がいる。
作業をただひたすらに頑固に必死にやればいいというものではない。

しかし人がなぜついそうなってしまうのかというと、物事の本末が逆転していることに気づいていないからだと私は思う。一度、止まって考えてみるといい、きちんと一休みすることが苦手だからそうなるのだと思う。

仕事は、どんなものもいつも考え抜いていないと本質的な仕事はできない。
私は師から学んだ「本当は何なのか?」から考えることをすべてに優先している。

そうしていれば物事はいつも本末を誤らず取り組むという意味になる。

だからこそ、取り組む以上は仕事は途中からはしない。最初から、つまりはじめからやるために「本当は何なのか」を考え抜きながらいつも取り組むということにしている。

自分で気づき作業という刷り込みに持っていかれないための創意工夫をしないと主体性が鈍ってくるからいつも刷り込みを意識しないといけない。刷り込みにやられる特徴は、頭ばかりで心をあまり使わなくなってくるからそれを判断基準にするといい。

どういう人が刷り込まれやすいかと分析すると人間は賢過ぎるとつい人は頭でっかちに成りすぐに「計算・打算」してしまいそれに驕り、うまくいったと勘違いすると心をお座なりにする傾向がある。

しかし、逆に心を使う人は不器用だけれど「心を篭める・真心」で取り組むことで刷り込みにもっていかれない工夫がある。だから一見、愚鈍にみえるけれどきちんとやるべきことはすべてきちんとやっているという具合になる。

これは組織の長や経営者のほとんどが分かる道理だと思うけれど人は頭が良ければ誰でも替えがきくけれど、心が良い人はその人しかいないので替えがきかないことを知っている。

その人がいるから周りが幸せになり、その人がいるから会社が本当にやりたいことを実現することが出来るという道理がある。それこそ自分にしかできない仕事ができるようになるということだと私は思っている。

それに時間が多少かかっても心が良いと次第に正しく学び、本当の頭が良くなり、すべてが総合的に良くなる、つまり人間として社会の中で円熟していく。

だから頭が悪くても心根が良い人こそがもっとも長い目でみると安心して人が育つということになる。私達はいつも初心を忘れてはいけない、なぜなら万物の初心は、その心の初めから起きるからだ。

カグヤは道の途中である以上、はじまりをよく学び、歩み方に生き方を照らすような日々の仕事の実践を大事にしていきたいと思う。

日々、周りを見て反面教師とし気をつけていければと思う。

義と情

昔から天道地理と義理人情など、生きているうえでその時々に優先する様々な判断基準がある。

もちろん物事は全て自分が起こしているし起きているのだから「今」を慎み慮り、命を懸けて歩みを深めていけば自然にすべてのものごとを受容していくこともできるのだと思う。

しかし、その刹那、自らの視野の広狭深浅によりその判断や決断は思いもしない方向に流されていくのが人間だと思う。その時々で心を清らかにして明るく生長していけば輪廻永続する仕組みの一部になり安住する世界も得られるかもしれないけれど、人間関係の中でなかなかその欲や情により左右されるからこの世界は面白いのだと思う。

地球は、月と太陽、その他の空間の星星や引力、未知のエネルギーなどのバランスで存在することができ、さらに地球内部の未知な組み合わせ、そして一定のリズム、傾斜による揺らぎなどでその存在を意義している。

人間も似たようなもので、天道という天のルールがあり、また地理という地の法則があり、義理という、人間世界に守らねばならぬ筋と正義があり、最後は人情というその状況にあわせた思いやりがある。

そうやって様々な相対矛盾、絶対矛盾などの混沌とした空の領域においてその都度の自らの使命天命により自分の在り方を確認していくためにも学ぶということになるのだとも私は思う。

その中でもっともやっかいなのは、どの領域もすべて一円融合しその刹那に判断をしていくという「自ら身をどう修めるか」ということになるのだと思う。

心身が何かに囚われると何かに偏る。何かに偏れば視野狭窄する。視野狭窄すれば物事の大局が分からなくなる。そうなると自然であることが難しくなる。そうしてズレたものを修正するために様々に環境に働きかけてまた学ぶ。

日々、そうやって自転循環をしながら進化していきながら人は生きている。

しかし、私はその中でよく思うことがある。

理性では学べ、理解できることも、それが人間の情という「思いやり」に於いては目の前の単なる刹那的な細かく小さな判断で行うとその人のためにならないこともあるということを。

古語に「情けは人の為ならず」とある。

これはその字の如く、他人のためとはいいながら実は「自分のため」にやっているということを現しているのだと思う。

優しすぎるや余計なお節介などは単に自分がよく思われたいからやるということが多い。昔から「すぎる・余計な」は、その過ぎる余計な分がまさに自分が相手に好かれたいやよく思われたいというエゴを満たしたいや自己中心の感情があるから冷静に相手との距離を判断をすることが難しくなるものだ。

しかしこの情けは本来、心を澄まし、自らを清め、相手の願いのためだけにするものが本当の人情であるし、それは見返りを求めず、相手の幸せを相手に譲れるものを心を通して見送るようなものが意味なのだと私は思う。

なかなか関わりが深くなり、感情移入するとそこに自分が居ることが分かり情に流されてしまうことがある。

しかし志を優先して生きると決めた以上、いつの日か私は真の優しさを持ち、相手の自立成功を願わない日はないほどの透徹した真心と思いやりを持てるようになりたい。

まずは今まさに此処で、脚下で実践できることから人情を学び人情の美しさを厳慈の義理により実践を尽くしていこうと思う。

義理人情を相手が分からなくても、自らはそれを信念を持って貫いていきたい。

変化の本質

歴史を学び照らしながら日々の仕事を通して現場を体験し思索を深めていると観えてくる新しい変化の波がある。それは近代でもそうだし戦国時代などもそうだし、またそれ以前でもそういう波があったのだと思う。

この波は同じように繰り返し打ち寄せても決して同じ波であることない。

波打ち際に立ち静かに佇めば分かるけれど、先ほどと同じ波が来ることは奇跡に近い。しかし通常人にはそれはただの同じ波にしか見えないというところに数々に刷り込まれる罠がある。

その時々で当然だった常識といわれるもの、それは普遍性だといわれたもの、たとえ原理原則といわれたものですらもその時代の時勢によって新しく表現方法が変わっていくし環境にあわせて刷新されていくのだと私は思う。

その狭間に生きている波打ち際の大勢の人たちは、いつの時代も「いつも間に変わってしまったのかも分からない」でいる。

例えば、あの坂本龍馬にこういう逸話がある。

以前、彼は何よりもこれからは剣術が大事としていたけれどそのうち剣を捨て拳銃でなければならないとし、次はその拳銃を捨て、これからは国際法こそが重要だと、その時々の時勢にあわえてそれまで何よりも自分が大事だとしたものを周りの偏見に捉われず、勇気を持って思い切って自由に価値基準を変えた。

そしてこれはただの道具に縛られず、封建社会に当然としてあった諸藩と諸藩、また幕府との関係やその身分制度などそれまでの上下関係などの倫理、またそれまで武士道といって刀を何よりも拠り所にしていた武士の魂だの恥だのというそれまでの道徳規範ですらも、時勢により新しく自分がその変化そのものになって刷新している。

つまりこれは何を意味しているかというとよく時代の流れを読み取り、変わっていくその時勢その様を、自らの確信の拠り所により判断し自分から大いにオープンに変化そのものになるように柔軟に自分の価値基準を素直に易えたということになる。

それがあの「日本をじゃぶじゃぶと洗濯するぜよ」というメッセージにも現れている。きっと長い時間をかけて色々と汚れた様々な価値基準を気づいている自分が洗濯して綺麗さっぱり取り除いてやるというような意味なのだと私は思う。私自身、教育業界にいるといつも同じことを考えているからよく龍馬が云わんとしたことがよく分かる。

ダメなものはダメ、辛かろうしんどかろう、でもこの先の未来のために、捨てないといかんという、人情味のある温かい思いやりが伝わってくる。

そのために自分の命も厭わないという何ものにも捉われない自由に生きる大きな人物だったのだと思う。

私も今の時代を思うと、もう捨ててしまいたいという価値基準はたくさんあるけれど、日本人だからか集団や周りの偏見や刷り込みの目や空気が気になり、遠慮しながら何とか調整している。しかし、坂本龍馬のようにここまで時代の波に純粋に感応し何ものにも捉われずに変化そのものになるというのはその裏づけには何か大きな天人合一への憧れと何より自由への尊重、他人を愛する真心があったのではないかと心底感じてしまう。

私たちが今の時代に変革期を生きた人々に学ぶものは本当に多い。

今の時代は果たしてどのような新しい変化を開く時代だろうか。

それは今までの経済優先のモノ至上主義に陥り、事なかれ主義に平和だの人権だの平等だのと間違ったものをいつまでも後生大事にしていいはずがない時代だ、つまりは自立の時代にまた波が来ているように思う。

その一つに昔で言う教育のやり方「みんなでなかよく」は、果たして今の時代はその道徳倫理は通用しているか?

今の時代の「みんなでなかよく」と使っている言葉は同じでも中身が完全に変わってしまっていることに何人が気づいているのだろうか?

今は、みんがそれぞれみんなのことを考える、つまりは「みんなで自立し他人のことを思いやる」時代になっていることが優先であり、当然として別にみんなで空気を読みうまいこと仲良くしなさいというのではないだろう。

言い方を帰れば、時代が変わったから武器は武器でも強力にしなさいという道理ではない。それは単に武器を刀から銃、銃から核爆弾、また戦艦から戦闘機、衛星ミサイルに変えればいいという話ではない。

昔はそれで良かったものがいつまでも使えるはずがない。
押し寄せる波のように変化は確実に置きながら繰り返されている。

たとえば、今の時代はジェンダーフリーであるし、国境もノーボーダーだし、また黒人と白人の壁も取り払われだし、情報格差もなくなってフラットになってきているし、その他、色々なところで様々な「柵と壁」がなくなってきている。

だとして、その中で今まであったその奥底にある道徳倫理や原理原則もどのように変化しているのだろうか。時代によりそのバランスを持てるのが空の心であり、無の境地なのかもしれない。

人が一流を目指し道を志すにもその調和により真に命を活かすためでもある。

そして本物になり時代の変革にどれだけ新しいモノサシをもてるのかをそれぞれがそれぞれ一人ひとりに問う時代に入っているのだと私は感じている。

だからこそ、この時代は何より一人ひとりが変えるべきは勇気を持って変え、変えないものは勇気を持って変えないと決める変革の時代なのだと私は思う。

特に教育者とは方向性を預かる学問の体現者としてその変化を誰よりも先に読み解くものでなければならないし、子ども達をその変化に対応できるように一つの集団や環境を創造用意し、彼らの自助自立の機会を理念で見守る必要があると私は思う。

私たちはその教育に関わる以上、昔で言う千里眼や先見の明を持ち、まず自分たちが時勢の新しいモノサシを定義できる哲学や真理を持つ必要がある。

今までのようにのらりくらりと、昔の時勢にしがみ付きイイカゲンな安住を望んではいけない。なぜならこれからは今までがまったく通用しなくなる新しい時代を迎えるからだ。

目に見える変化がいくら緩やかそうにみえてもその実は濁流の如く激しく変化していくのを恐れなければいけない。

子ども第一主義のカグヤを率いる私は一人でも多くの気づいている方々とともに、本当の意味での新しい倫理道徳を攫みオープンに表現していきたい。特に情報というものを学び、教育というエッセンスを自らで体現し、子ども達へ新しい時代の新しい常識を貫く実践に勉めていきたい。

時代が変わることへ躊躇わず勇気を持って自らを刷新していくことを誓う。

大いなる我慢

地球が自転し続けていく中で、様々なものは進化成長する。

足元の石ですら、何億年何十億年という歳月を経て存在し成長していく。
成長とは、そのものが変化していくことであり、万物流転し循環を繰り返しながら形を変えていくもの。

人の世もまさに等しく、同じように同じことをいくら繰り返しにやったとしてもそれは単なる繰り返しでもなければ、そこに永遠は存在しない。咄嗟に永遠に見えたとしてもそれは「よほどゆるやかに」過ぎているだけで決して止まったわけではない。

つまりは、当たり前だけれどこの世の中すべては変わり続けるということ。

その変わり続ける中で人間は生活している。
人間は集団で生きていくようにできている。

共生し発展するために人間は人間社会を形成していくようになっている。動物や生物はみんなそうやって相互扶助していくことが、世の中と調和し平和にする方法であり思いやり助け合うことで人々はの慈厳に心の安住が得られるようにできている。

この地球上すべての生き物は、たまたま種として分けた人間がいるだけで生きているものはすべて分かれているわけではない。同一同体のものとして存在しているということになる。

だとしたら、一匹狼といえどもそれは観えざる偉大な世界と調和し生きている一つの自立した生命体だということになる。

人間には悪しき癖がある、また文明という名の知識欲がある。

それは言い方を代えれば道具のようなもの。
道具を使うために得たものが知識。

道と具のバランスが取れてはじめて達人となるけれど、具が大きくなり過ぎ道が失われればそこで具が一人歩きする。必ず道のほうが大きい方が長く自然と調和していける。

つねにその道と具をどうするのかが人間の尊厳崇拝すべき自然の心によるものだし、人間は過去に様々な人間優先の社会から失敗から学び、それを忘れないために教育というものにより自己を修養していくことに力を入れることで人々が少しでも長くこの地球上で発展繁栄していくことを望んできた。

しかし、人間が自ら定めた「分度」の一線を越え、自然界の定めた理である戒律を破り、人間の持つ倫理すらも粉々にし具至上主義のような科学知識を神とも崇めるような権力欲に囚われ、世の中の大多数の人たちが閉鎖的に間違った個人主義を信じて通すようになったのが今の世の中だと思う。

なぜか、享楽主義が勘違いされ、自分だけで幸せになることが幸せなのだと浅い生き方を選ぶしかなくなってくるようになってきた。

人間の深い喜びは共生の中にこそあり、孤独の中にはない。
しかしそれでも具が正しいとなると世界丸ごと本末転倒している。
時代時代でそのように道が荒廃し具が高まり、具が荒廃し道が高まる時もあるのかもしれない。

しかし自分の生きる時代をキチンと生き切り、次の世代がキチンとまた自分たちの時代を果たせるようにしていくのが今を生きている私たちの役目ではないか。

なのに子どもたちは、自分たち大人の今の世の中に慣れさせられるように安易な眼前の優しさに依存させられ、意欲をそがれ、先人たちが行っていることを否定させないようにと無意識に隠しているし、もしくは手が付けられなくなったので言い訳をしたくないから無理やり正当化してしまおうとする感じすらもある。

悲しいことに、今を生きる大人が自らを反省せず、自律することをやめ、怠慢怠惰に権力にすがり、ただただ食べるためだけにこういうものなのだと何でも従うといいだし、必要悪だの誰かのせいだの言い訳ばかりで逃れるようになれば、誰がそのツケを清算し、真の独立自尊や真の自立を果たすことができるのだろうか。

歴史には常々改革者が現れる。

改革者とは、封建的な社会ではほとんどが暗殺されたり天誅されたり、色々な罪を押し付けられ失脚させられている。

そのほとんどの人たちがその言動を他に疎まれ、出る杭になり、成り上がりだと嫉妬され、最後にはその時代の大勢が逃避するための好材料として改革の中心的人物に仕立て上げられ悪名がついたり悲惨な最期を迎えていることが多い。

悲しいかな人々は、歴史から学ばず、一通り知った宗教や儒教、哲学など脳で分別できるところばかりを解釈し、その人物が持つ本質や「本物」を見ようとはしない。

私が尊敬崇拝し感動し生き様から学ぶ人たちは、ただ偉いのではなく人間としての「本物」を其処に確かに観ることができるから何よりその清純な魂が揺さぶられているのだ。

しかし、大勢の人たちは単に肩書きや役職、また華々しい成功など、権力などを通して浅く見取り、その人物の本質を見ようとはしない。大切なのは、その人の中にどれだけ自分の中にある「本物」や自然に在る真実と同じところがあるかを見定め、どれだけのことをその人が身をもって実践しやり遂げているのかを観ることではじめてその人のことが分かる。

その人物の凄みともいうべきか、本物が持つ信念を感じることもできる。

そしてその人物の足跡や遺した言葉と実践を鑑みれば、何にその人が興味があり何を為すのかもそこから自然に観得てくるものだと私は思う。

今の時代は、ある意味で長く続いた均衡状態の中で答えを出すことを先送りにし無理に無理を重ねた制度や仕組みが限界に来ている。

こういう変革が必要な時代は、どの時代も人々が皆で「大いなる我慢」をして皆が自立していくことが求められる。これはつまりは自由と自律の本当の意味を実践できていないといけないということだ。

言い方を代えれば、如何に周囲を思いやり人に迷惑をかけないで人間としての尊厳と尊重を維持するか。

そしてそういう時代こそ、真の教育が必要になってくる。そうやって若い人たちが真の教育により、大人になり真の勇気と思いやりを存分に発揮し、一人ひとりみんなで自立して変わろうとできる人達にならないといけない。

そういう人たちを導くために師友がある。柵や刷り込みなども超えた本当の会話がある。その師の背中や姿で感じるけれど、その言動や行動には若い魂や青年の志がとても感化され育っていくのを実感する。

しかしその裏腹にどの時代もそうだけれど、そうではない同世代の人々や年配の人たち、権力者や一部の迷っている若者たちから忌み嫌われ迫害をされてしまうこともある。

改革の時代には、きっと儒教は求められる。
しかし、何度も何度も同じ遣り方をやろうとしているわけではない。

今の時代にあったものをどうこの世の中で実現していくか。
同じなのは、過去の歴史から学びさらにそれを磨き今の時代に調和させていくこと。

それは宗教でもなく、儒教でもなく、科学でもなく、哲学でもなく、無為自然であるということだと私は思う。

「生きる」とはきっとそういうようなことではないかとも感じる。

まずは私自身、此処がどのような時代であっても、自らの天命を信じ、人々の勇気になれるよう、心を広く持ち、奥深く受容していく実践をし、謙虚に自分の誠を磨いていきたいと願う。

真剣に生きた方々がいてくれたこと何よりも感謝しています。
流されず惑わず本懐を遂げたいと念じます。

二千十年のテーマ

昨年も色々なご縁いただいた方々の御蔭により無事にかんながらの道を歩むことができました。

心を澄ませているうちに、生きるということがより人々を通して語られるということの真意を感じます。

たくさんの柵や刷り込みの中でも、その人が何をもっとも大切にしているかで答えは変わってくるし、正論ですらもその都度の状況により分かれるものです。

何が真実なのかは何より当人によるものであるし、その調和が何より至誠に基づくものであれば何の一切そこに然なる自がが映す鏡に明るみにされるもの。

単に良いことをしたや悪いことをしたなども、歴史を鑑みると果たして本当にそれで良かったかは本人しか分からず、過ぎてみると過ぎただけであるし、そこには虚無がある。そしてそれをどう素直に受け取り器としての人間として生き様を観て感じるかは道により陶冶された生きた真心の為すものだとも思います。

兼好法師にある

「鏡には色形なき故に、万づの影来たりて映る。鏡に色形あらましかば映らざらまし。虚空よく物を容る」

御神体を映し出すものとして、明鏡止水の心が在る。

私はまだ人里の穢れに於いて揺らいでばかりで本当に清まないなと自省します。

さて昨年も師匠の後姿より本当にたくさんのことを学ぶことができました。

自らの心と正対し、自らの信念を貫くために、数多くの出来事や人々を許容し自らを厳しく律し粛々と歩んでいくその姿には魂が揺さぶられ感動と感激の出会いがあります。

自らの至純の思いに直接響き渡り、好奇心の塊が少年に乗り移ったように心身がシビれる思いで道を開くことへの脚下の悦びを感じて生きることができています。

昨年いただいた師からの主題は、「真の深さ」であったけれどどれだけ自分がその深さにて潜り質を高め求道し導けたかと思うと本当に未熟にて達することはありませんでした。

これからも日々の生活そのものより、誠心誠意正座していくことでその大切な真心を昇華していきます。道の続く限り、この真の深さを持てるような学問を究め勉めていきたいと思いました。改めてこの御恩に感謝しています。本当に有難うございます。

そして今年、さらに師匠からいただいたテーマは「一つのことを目移りせずに遣り切る」こと。

自分が何を持って人間を観てとるのか、そして本物となるのか。そしてそこから真理真実を得て宇宙と調和するのかを見定めた後、自魂の確信の極みで感化していけることを探求し、その関心の極針の深穴から学び切るということであると解釈します。

そこには様々な一円観念による創意工夫、そして新しい日々との変不変の一期一会、そして安住安心である空念も亦、今此処にて予感もします。

自然や、かんながら、また子どもというものや聖賢の示した方向を通して、自らの内面に在る言霊に触れ、自らを削り澄んでくるような透徹した広く明るい思いやり。

悠久に引き継がれていく時間と子どもたちに遺す確かな未来を譲れることを信じて、自らの世界を易える行動を第一に確固たる信念を醸成して道を切り開いていくと誓います。

どんな状況や環境の因縁が結んだとしても、言い訳をせずすべてを受容肯定し、何より自らを陶冶する敬謙な一本道とし、生死を超えて充実さや豊かさの中、命を使った世界平和へ向けその「ゆずり葉」の一枚になれればと心願致します。

感謝深拝  二千十年一月一日 野見山広明