歴史を学び照らしながら日々の仕事を通して現場を体験し思索を深めていると観えてくる新しい変化の波がある。それは近代でもそうだし戦国時代などもそうだし、またそれ以前でもそういう波があったのだと思う。
この波は同じように繰り返し打ち寄せても決して同じ波であることない。
波打ち際に立ち静かに佇めば分かるけれど、先ほどと同じ波が来ることは奇跡に近い。しかし通常人にはそれはただの同じ波にしか見えないというところに数々に刷り込まれる罠がある。
その時々で当然だった常識といわれるもの、それは普遍性だといわれたもの、たとえ原理原則といわれたものですらもその時代の時勢によって新しく表現方法が変わっていくし環境にあわせて刷新されていくのだと私は思う。
その狭間に生きている波打ち際の大勢の人たちは、いつの時代も「いつも間に変わってしまったのかも分からない」でいる。
例えば、あの坂本龍馬にこういう逸話がある。
以前、彼は何よりもこれからは剣術が大事としていたけれどそのうち剣を捨て拳銃でなければならないとし、次はその拳銃を捨て、これからは国際法こそが重要だと、その時々の時勢にあわえてそれまで何よりも自分が大事だとしたものを周りの偏見に捉われず、勇気を持って思い切って自由に価値基準を変えた。
そしてこれはただの道具に縛られず、封建社会に当然としてあった諸藩と諸藩、また幕府との関係やその身分制度などそれまでの上下関係などの倫理、またそれまで武士道といって刀を何よりも拠り所にしていた武士の魂だの恥だのというそれまでの道徳規範ですらも、時勢により新しく自分がその変化そのものになって刷新している。
つまりこれは何を意味しているかというとよく時代の流れを読み取り、変わっていくその時勢その様を、自らの確信の拠り所により判断し自分から大いにオープンに変化そのものになるように柔軟に自分の価値基準を素直に易えたということになる。
それがあの「日本をじゃぶじゃぶと洗濯するぜよ」というメッセージにも現れている。きっと長い時間をかけて色々と汚れた様々な価値基準を気づいている自分が洗濯して綺麗さっぱり取り除いてやるというような意味なのだと私は思う。私自身、教育業界にいるといつも同じことを考えているからよく龍馬が云わんとしたことがよく分かる。
ダメなものはダメ、辛かろうしんどかろう、でもこの先の未来のために、捨てないといかんという、人情味のある温かい思いやりが伝わってくる。
そのために自分の命も厭わないという何ものにも捉われない自由に生きる大きな人物だったのだと思う。
私も今の時代を思うと、もう捨ててしまいたいという価値基準はたくさんあるけれど、日本人だからか集団や周りの偏見や刷り込みの目や空気が気になり、遠慮しながら何とか調整している。しかし、坂本龍馬のようにここまで時代の波に純粋に感応し何ものにも捉われずに変化そのものになるというのはその裏づけには何か大きな天人合一への憧れと何より自由への尊重、他人を愛する真心があったのではないかと心底感じてしまう。
私たちが今の時代に変革期を生きた人々に学ぶものは本当に多い。
今の時代は果たしてどのような新しい変化を開く時代だろうか。
それは今までの経済優先のモノ至上主義に陥り、事なかれ主義に平和だの人権だの平等だのと間違ったものをいつまでも後生大事にしていいはずがない時代だ、つまりは自立の時代にまた波が来ているように思う。
その一つに昔で言う教育のやり方「みんなでなかよく」は、果たして今の時代はその道徳倫理は通用しているか?
今の時代の「みんなでなかよく」と使っている言葉は同じでも中身が完全に変わってしまっていることに何人が気づいているのだろうか?
今は、みんがそれぞれみんなのことを考える、つまりは「みんなで自立し他人のことを思いやる」時代になっていることが優先であり、当然として別にみんなで空気を読みうまいこと仲良くしなさいというのではないだろう。
言い方を帰れば、時代が変わったから武器は武器でも強力にしなさいという道理ではない。それは単に武器を刀から銃、銃から核爆弾、また戦艦から戦闘機、衛星ミサイルに変えればいいという話ではない。
昔はそれで良かったものがいつまでも使えるはずがない。
押し寄せる波のように変化は確実に置きながら繰り返されている。
たとえば、今の時代はジェンダーフリーであるし、国境もノーボーダーだし、また黒人と白人の壁も取り払われだし、情報格差もなくなってフラットになってきているし、その他、色々なところで様々な「柵と壁」がなくなってきている。
だとして、その中で今まであったその奥底にある道徳倫理や原理原則もどのように変化しているのだろうか。時代によりそのバランスを持てるのが空の心であり、無の境地なのかもしれない。
人が一流を目指し道を志すにもその調和により真に命を活かすためでもある。
そして本物になり時代の変革にどれだけ新しいモノサシをもてるのかをそれぞれがそれぞれ一人ひとりに問う時代に入っているのだと私は感じている。
だからこそ、この時代は何より一人ひとりが変えるべきは勇気を持って変え、変えないものは勇気を持って変えないと決める変革の時代なのだと私は思う。
特に教育者とは方向性を預かる学問の体現者としてその変化を誰よりも先に読み解くものでなければならないし、子ども達をその変化に対応できるように一つの集団や環境を創造用意し、彼らの自助自立の機会を理念で見守る必要があると私は思う。
私たちはその教育に関わる以上、昔で言う千里眼や先見の明を持ち、まず自分たちが時勢の新しいモノサシを定義できる哲学や真理を持つ必要がある。
今までのようにのらりくらりと、昔の時勢にしがみ付きイイカゲンな安住を望んではいけない。なぜならこれからは今までがまったく通用しなくなる新しい時代を迎えるからだ。
目に見える変化がいくら緩やかそうにみえてもその実は濁流の如く激しく変化していくのを恐れなければいけない。
子ども第一主義のカグヤを率いる私は一人でも多くの気づいている方々とともに、本当の意味での新しい倫理道徳を攫みオープンに表現していきたい。特に情報というものを学び、教育というエッセンスを自らで体現し、子ども達へ新しい時代の新しい常識を貫く実践に勉めていきたい。
時代が変わることへ躊躇わず勇気を持って自らを刷新していくことを誓う。