昔から天道地理と義理人情など、生きているうえでその時々に優先する様々な判断基準がある。
もちろん物事は全て自分が起こしているし起きているのだから「今」を慎み慮り、命を懸けて歩みを深めていけば自然にすべてのものごとを受容していくこともできるのだと思う。
しかし、その刹那、自らの視野の広狭深浅によりその判断や決断は思いもしない方向に流されていくのが人間だと思う。その時々で心を清らかにして明るく生長していけば輪廻永続する仕組みの一部になり安住する世界も得られるかもしれないけれど、人間関係の中でなかなかその欲や情により左右されるからこの世界は面白いのだと思う。
地球は、月と太陽、その他の空間の星星や引力、未知のエネルギーなどのバランスで存在することができ、さらに地球内部の未知な組み合わせ、そして一定のリズム、傾斜による揺らぎなどでその存在を意義している。
人間も似たようなもので、天道という天のルールがあり、また地理という地の法則があり、義理という、人間世界に守らねばならぬ筋と正義があり、最後は人情というその状況にあわせた思いやりがある。
そうやって様々な相対矛盾、絶対矛盾などの混沌とした空の領域においてその都度の自らの使命天命により自分の在り方を確認していくためにも学ぶということになるのだとも私は思う。
その中でもっともやっかいなのは、どの領域もすべて一円融合しその刹那に判断をしていくという「自ら身をどう修めるか」ということになるのだと思う。
心身が何かに囚われると何かに偏る。何かに偏れば視野狭窄する。視野狭窄すれば物事の大局が分からなくなる。そうなると自然であることが難しくなる。そうしてズレたものを修正するために様々に環境に働きかけてまた学ぶ。
日々、そうやって自転循環をしながら進化していきながら人は生きている。
しかし、私はその中でよく思うことがある。
理性では学べ、理解できることも、それが人間の情という「思いやり」に於いては目の前の単なる刹那的な細かく小さな判断で行うとその人のためにならないこともあるということを。
古語に「情けは人の為ならず」とある。
これはその字の如く、他人のためとはいいながら実は「自分のため」にやっているということを現しているのだと思う。
優しすぎるや余計なお節介などは単に自分がよく思われたいからやるということが多い。昔から「すぎる・余計な」は、その過ぎる余計な分がまさに自分が相手に好かれたいやよく思われたいというエゴを満たしたいや自己中心の感情があるから冷静に相手との距離を判断をすることが難しくなるものだ。
しかしこの情けは本来、心を澄まし、自らを清め、相手の願いのためだけにするものが本当の人情であるし、それは見返りを求めず、相手の幸せを相手に譲れるものを心を通して見送るようなものが意味なのだと私は思う。
なかなか関わりが深くなり、感情移入するとそこに自分が居ることが分かり情に流されてしまうことがある。
しかし志を優先して生きると決めた以上、いつの日か私は真の優しさを持ち、相手の自立成功を願わない日はないほどの透徹した真心と思いやりを持てるようになりたい。
まずは今まさに此処で、脚下で実践できることから人情を学び人情の美しさを厳慈の義理により実践を尽くしていこうと思う。
義理人情を相手が分からなくても、自らはそれを信念を持って貫いていきたい。