たくさんの人たちの中で人生をより良い方へと信じている人とそうでない人がいる。物事はすべて良くなるようにできていると思える人とそう思えない人がいる。
そこには根明や根暗といった心の問題が現象や環境に対して主体と依存を映しだし、自らの人生と他に対して肯定的か否定的かなど明暗分かれるようにも感じる。
在る人はどんなことがあっても最後は笑い飛ばし「大丈夫なんとかなるさ、なるようになるさ」と前向きに生きている。また在る人は、最後まで悲壮感が漂い「どうしよう、ああどうしよう」と反復ばかりし後ろ向きに生きている。
どうしようもないことを考えるよりも、どうにかなることを考えようといくらその人にいっても、その根底の明暗がどちら側でいるかでその人の持つ生きる意味や意義も左右される。
人は、誰でもどんな境遇にあっても自らで自らの生き方を選ぶことができる。
生きていれば人は何かいつも出来事が起きる。
それを周囲が「生きるためにすべては必要なことだから何があってもきっとあなたなら大丈夫だ」とその人の生きる力を信じて支援・援助するのか、もしくは何をやっているのかと叱り無駄なことはやめなさいと放任・干渉するのかでその本人の生き方や考え方の起点が異なることもある。
私はすべての生き物は「七転び八起き」ではないけれど、転んでも転んでもそれをものともせずに前に転がっていこうとすることが生そのものを受け容れる力になっていくと思う。
あのたんぽぽでも、あの虫たちでも私たち人間と同じように明るく前向きに全てを受容して生きているものだけが自然で活き活きと自らを発揮する。
そして植物の種のようにもともと芽が出る力も花が咲く力もその力を持って生まれ出でてくる。
もしそれを大人の一方的な刷り込みで無理に先回りし固定してしまうと、あの人間の手がかかる植物のように肥料や温度管理など、いつも大人がいないと何もできないようになることもある。
子どもの無限の可能性を引き出すと教育の世界ではよくスローガンのように言われるけれど、もともと子ども自身は可能性を求めてたくさん失敗するのだからそれをどう肯定して環境を用意し自然に見守るかを大人がただやればいい。
そうすることでその子が前向きに明るく生きていく人生の基礎ができるのだと私は思う。
どの人も例外なく人生は様々な悲しい出来事や生前生後のトラウマなどと正面から向き合うときが来る。それが因果の法則もあるし、業も縁と同じように様々に絡み合い繋がっている。それはどうにもならないからこそどうにかしようと不安がるよりもその際にまずその根が明るい性格であることを優先することはとても大事な気質になる。
モノがいくら溢れていても環境がいくら整っていて豊かでも人間は自らを主体的に明るく澄んで素直な心でいないと真の幸せは訪れない気もする。
モノがいくらなくても環境がいくら整っていなくて貧しくても人間は主体的に明るく澄んで素直な心でいれば真の幸せは訪れる気もする。
だからこそ常に、外界の出来事に左右されないその心の根っこが明るいということはどんな自然環境の中でも自分を存分に発揮し活き活きと生きていくための真の糧を吸う力になるのだと私は思う。
最近では、世相はとても世知辛く、それに周囲は見守るというより結果を焦り、決め付けや刷り込みを要求し、不安や焦燥を押し付けてくる傾向がある。
その中でもブレずに自らを維持し、自分を活き活きと尽くすには、何より明るいというその気質をまず日頃から大切に修養していくことが必要だと思う。
つまり何よりもその明るい心を普段から自分で育てる精進がいる。
いつも御蔭さまの心を育て、感謝の気持ちを大事にして学問をして自らの道を歩むことがその気質を良くするということを信じて実践したりして明るくすること。
ここで言う明るいとは、つまりは『良心』のことを言う。
人はもともと生まれる前から持っている「良心」というものがある。
もともと人間が生まれながらに持っていたその良心を素直に澄ませいけば必ず自然に「根明な心」が引き出されていくのだと私は思う。
そして何より幸せとは、明るく生きるということに根差す。
明るく生きるとは、何よりも自分の良心を見つめてそれを澄ましていくこと。
根明とは良心のこと。
子どもたちが将来幸せになるためにも、周囲の人々を幸せにするためにも、自分が幸せを感じて優しい大人になっていくためにも、自分の「良い心」を大事にし、明るい実践と明るい感謝の根を育てていこうと思う。
子どもたちにも良いこと良い心をたくさん持ってそれを生きる糧にできるように私たち大人の良い行いという実践で背中を見せ、志を良心に根差して社会貢献していきたいと思う。