組織をコンサルティングしていると様々なことを洞察することがある。
人が何かを行うとき、必ず力を合わせるとともに心を合わせることが要る。
何かの目的に対して、力を合わせる。
そのためにも、一丸となって心を合わせることがいる。
心と力があわさってはじめて人はチームになれる。
しかし、チームになるにはどこに向かうのかという大義が要る。
その大義を確認し合うからこそ、力も心もあわせていけるのだと私は思う。
しかし今は、人間関係が希薄で人づきあいの絆も浅く、より深く相手を丸ごと信じることを怖がっている人たちがたくさんいる。
人と人との縁が薄くなってきているからそういうことができなくなっている。
チーム研修も、なぜか今は仲良くなることを最終目標にしている人が多い。
信じると言うのは、無理に何かを決めて信じようとするよりも、お互いに方針を確認しあいそれぞれの歩みをコツコツと根気強く諦めずにいる中で自然に互いに培われることが私は普通だと思う。
例えば変な話だけれどよく幼稚園でも先生がスローガンに「みんな仲良くね!」とあるけれどあれはどういう意味で使うかにもよる。
この仲良くの仲という字は、論語の中庸でいうところの「中」と人間の「人」の組み合わさった語で成り立っている。
「仲人」というのは、その中庸、つまりは人と人との調和を司る存在であることを言う。仲人には徳の高い人にしていただくとその後も仲良くいれるというのはそういうことなのだと私は思う。
私はその仲良くというのは、そういう調和したそれぞれが良心で心が澄んでいる真心の状態でいようねということだと解釈もする。私が一円対話で行っているファシリテーションは、この仲人でもあり中庸でいるということを重視している。
つまりは、皆が心を澄ませている自然な状態にすることだと私は解釈する。
自然体で言いたいことがいえる、つまりは遠慮ない状態になるということ。
それなのに、先生が意図的に無理に誰かを仲良くさせていると、子どもたちも皆の顔色を見ることが仲良くだと勘違いしてしまい、結局は子どもたちが自分がどう見られているかばかりを気にしてお互いに無理をし、自分の本性を発揮できず我慢し辛い思いをするようになる。
そうなると、文字通り、自然には仲良くできないから意図的に仲良くこそが目標になる。
すると、子どもはいつも無理をして仲良くしていようと自分を我慢する人になる。
創造的な環境とは、みんなが自然に「あるがまま」でいられるようにすること。
チームが一丸となるには、皆が一丸になって同じ方向へ歩むということだ。
人を信じれないのは、そうやって無理に仲良くなるために人との関係に自分の打算をいれていくから余計に打算で見られると感じるから遠慮しさらにうまくいかないという悪循環になる。
私もつい不自然な人にはどうしても遠慮してしまう。
それは、打算で見られるのではないか自分を我慢するのではないかと相手のことを心配したり怖がるからだと思う。
しかし、子どもたちで考えても、もし本当に仲良くなるならば当然、その子たちが自由にやりたいようにしてあげるような環境を用意して見守ることが大人ができる「仲人」としての役割だろう。
私はこれは社会人やチームでのことでも言えると思う。
誰かが何かを発言すると、すぐに周りの顔色や空気を観て発言を考える。そして、そればかりを気にして遠慮し合い皆が仲良くしようとすることを最高の目的にしてしまう。
本来、最高のチームは、本当の目的がありそれを達成するために力をあわせようと集まった仲間で構成されている。
野球でもサッカーでも、政治でも、それが大きな社会的影響があることを自覚し、一人ひとりがリーダーが目指す崇高な大義に力と心を合わせていくから達成できる。
なぜ人がわざわざ集まるのかは、一人ではできないことだからこそみんなで力をあわせ達成する必要がある。
例えば、会議などはその有効な生産性を上げる行為の一つになっている。
先日、ある園の職員会議で園長が方針を話しているのにみんなそれに対し答えをだそうとばかりに躍起になり、本来何のために集まったのかすら分からなくなり、毎回、結局はみんなが仲が良いよねとそればかりを確かめることばかりのために会議をやっていることがある。
そういうときに限って、自分を出さず、誰かの意見に同調することばかりを考えている。そういう会議は非常に疲れる。
一緒に価値観が違う中でやっているのだから答えなどはもともと存在していないのだから本当は答えなどは必要ではない。
しかし誰かの形にあわせて受け身で取り組み、単にそのために答えをもらうためにあるのならただの業務連絡で良い。新人で何も分からないのならばいいけれど、仕事ができるようになれば自分がやるのだからいつまでもそれをしているわけにはいかない。
単に業務連絡だけで済むのは、答えをリーダー任せで自分が考えていないからそれで済ませようとしてしまうのだと思う。
つまりは、自分は誰かによってやらされている存在だから相手が言うことを聴けばいいということになる。これに自分の公としての責任はない。相手の責任で自分が人形のように動くことが評価になる、するととんでもない代償を払う、それは公私ともに自信を失い自己肯定感を上げることもできなくなっていく。
仕事は自分がやらされているのと、自分がやっているのとでは、その責任の自覚と役割を果たす結果への立場も放棄しているかどうかの違いまで発展する。
大事なのは、仕事は両輪、「私」としての自分だけでなく、「公」の立場としての自分がその方針や結果に責任を持ち、自分が社会の一員として立派に役割を果たすのが真の組織の社会人ということだ。
園で言えば、自園の方針に対してどれだけ自分が責任を果たすかということ。
自分がやりたいことに責任を取りますでは、公としての自分がそこにない。
しかしこんなことになるのは、一概には言えないけれどひょっとすると今までの一般的な受け身の義務教育に依存してきたから仲良しクラブをやることが当たり前になってしまうのではないか。
つまりは公ではなく、私としての自分を守るためだけに、みんなが変な空気や不安にならないようにばかりに躍起になり、それでみんなで責任を持たずに決めた答えのせいにして、その上で自分勝手にするか、自分を潰すかの二者択一でいようとする考え方になる。
良くある話が、好きな会社があったけれど好きに仕事していたら潰れてしまったという話。自分がその会社が好きだからそれだけで良く、会社の中での自分の公の責任は自覚せず誰か任せとなっているから倒産してしまったけれどそれも誰かのせいとなってしまっている。
会社が潰れるのは社長だけのせいだろうか、園が潰れるのは園長だけのせいだろうか。
本来は、自分が好きな会社だからこそ、自分が好きな園だからこそ、公の立場として主体的に自分が精一杯職責と役割を果たす。
それを本当の愛社精神というのではないか。
だからこそ、公私は両輪でなければならない。
公の責任を果たして、はじめて私の自己実現もあるということだ。
自分(私)のことばかりを会社に任せて依存し頼っていたら、会社がなくなってしまう。
自分(公)があって、自分が自立し会社を助けることではじめて会社が成り立って自分も幸せになっていく。
公私混同とは、私ばかりを優先し、公に依存することを言う。
サラリーマンになると、受け身になってしまう。
自分が主体として行えば、社会や市場が自分を要求するから出世する。
簡単な道理だ。
これからもカグヤは、子どもたちが力と心を合わせてコーポラティブに協働していける社会を創造するために、見守る環境を深めて広げていきたい。