何かを行うとき、人生そのもののを深く歩み感じ尽くしてその妙味を語ると自然にその言葉が詩のようになることがある。
世間ではそれを発表する人を文学でいうところの詩人というけれど、人生をより良く意味のあるように生きたいと真摯に思っていると自然にそのものが「物語」のようになるものだし、それを自らで受け容れるとき語や言葉は自然に詩のようになるのだろうと思う。
つまり詩とは、文学というものではなく私にとってはこの世で生きている証ともいうべきものなのではないかと思う。
私の好きな詩を語る人にインドのラビンドラナート・タゴールがある。
そのいくつかを紹介すると、
「死んだ木の葉が大地に化して自らを喪うとき、彼らは森の命に参加している。」
「物を与えることだけを慈善と心得ているのは、手に汗することを知らない人々だけである。」
「古い種子は生命の芽を内部に持っている。それはただ新しい時代の土壌に蒔かれる必要があるのだ。」
などがある。
どの詩も私が歩んでいるかんながらの道にも通じていて思想にとても共感できる。
森羅万象の中には無駄なものは一切なく、そこに何より無限の共生がある。そしてそのことを深めていけば、次第にそのものを意味が顕れる。それを自然として、畏敬の念を思うから自らの存在意義を確かめられ素直に自分を受け容れることができる。
人は子どものままであればその自然で澄んだ心を自らに内包している。
しかし次第に大人になってくると、不自然で生きることを本意としあるがままでいることができなくなる。だからといって不自然が良いというわけではなく、自然不自然の中でありのままの現在を理解し、自らを立てていかなければあるがままになることはできない。
自(みずから)然(あるがまま)と書いて自然と記す。
東洋には、「人間」として生きると言うことを太古から受け継ぎ、その尊厳により自然の畏敬を神として受け取ることで自らを正し調和をはかってきたのだと私は思う。
ここ数年、その東洋思想は西洋文化とエゴ経済が合体し人々の心中の賊(刷り込み)を教育が払えず急速に失いつつある。
きっと、先達の覚者も今日の日が訪れることをすでに予見していたのだろうとその詩や遺訓を読んでいると感じることができる。
果たして子どもたちが自然に生きられる社会とはどういうものだろうか。
すべての生命が尊厳と尊重される世界とはどういうものだろうか。
私自身心に写るあの自然の優しさと温かなふれあいの世界が次第に失われていくことは本当に辛く悲しい。
この純粋な心願をかの詩聖タゴールの言霊にのせたい。
『すべての生まてくる赤ちゃんらは、神さまや自然たちがまだ私たち人間に対して「絶望してはいないよ」という気づきのメッセージを携えて生れて来ているのだ。』 (タゴール詩の意訳)
幼児教育に携わる以上、いつもそういう心構えを以て脚下の仕事に取り組んでいきたい。
未来はただ訪れるのではなく、自ら切り開くものだととし、道を歩むものとして命の誕生と一期一会に誓願をかける。