実践する意味

色々な知識を人は学びを通じて覚えるけれど、それが頭でっかちになっては本当の意味でその人の生活に活かされたとはとても言い難い。

もともと脳みそは、それ自体が私の定義では楽をしたがる。楽をしたいから、実践しなくても良い方法ばかりを考えて、本質的にやろうとするよりも如何に行動しなくても便利で済むかと考えてばかりいるように思う。

私は理念の中に、分かった気にならずに実践することをよく説くけれどこれは脳みそが嫌がることをどれだけやることができるかによる。

たとえば、日記などもそうだけれど一度はじめるとそれを毎日書くことはとても難しい。

ある人は、酔っぱらって今日はいいやと思っているうちに途端に書けなくなってしまう、挨拶などもそうだし、仕事で言えば、日々の報連相などもついさぼるとそのうちにやらなくなり、気づいた時にはまたやってしまったと後悔ばかりとなる。

つまり、何かを学ぶには一理を学び、必ずその一理を行うという王陽明が言うような「知行合一」のことをいうのだと思う。

知っているだけでは分かった気になる、だからこそ行動してみてその知りえた知識と実践による叡智を組み合わさってはじめて自らの現実生活の一部に組み込まれるというのだと思う。

よくこの教育業界や保育業界は、勉強好きな人が多い。

特に、優等生や優秀な人たちが多いと、自分の目で見たこともなく、自分の耳で聴いたこともないのに、実物本物でもあるように語り、さらにはそれを一度もやってみたこともないことを、さも真理や真実のように他人に語り偉そうなことを言う。

しかし、純真素直にその真理をやってみるととてもどれも難しく、自らの心に至誠と曇りのない真心がなければそれは本当の意味でできることではない。

それなのにあまりに結果を急ぎ過ぎれば、頭が早く便利にやろうとばかりにこだわり脳みそがすぐにパンクする。それをパンクしないで正しく聴けるには、日ごろの鍛錬や気づくことに対する日々の内省、または実践の継続による長期の体質改善がいる。

時折、やってはまた時折はやらないなどということをやっているから脳みそに支配されてしまい「むら」が生まれ、その「むら」によって自分が後悔する。

日々、宙に浮かせたままその緊張感や臨場感、または矛盾を内包するような太極を維持するためにも、よほどの実践を積んでいなければあっという間に俗欲や自らのエゴにもっていかれてしまうのもこの社会の現実であろうと思う。

安岡正篤に下記がある。

「本当の学問や修養というものは
 これは禅でも儒でも同様で、
 人間と人間、
 精神と精神、
 人格と人格が火花を散らす様にやる。
 これを参学道、参ずると言う。

 分かったのか、
 分からぬのか、
 ノートをとって、
 又それを受け売りする、
 などというような学問や学校勉強は、
 これは雑学・俗学というもので、
 所謂、学問・求道の中には入らない。」

つまりは、いくらノートをとって学んだ気になったとしても勇気を持って行動して自分を変化させようともしない人ではとてもそれでは学問求道をしている人とは言い難いということ。

これでは、単にどこかの学校で勉強して見栄えの良い優等生はできてもとても道の実践で世の中に事を為す人にはなりそうもない。そして自分で本質を掴もうともせず、誰かの受け売りでさも自分が偉くなった気になり、本来、あるべき努力を怠れば、人心を惑わす不逞の輩ということにもならないだろうか。

常に、カグヤでは実践躬行が第一の道の入り口。

理屈ではなく、自分がまるで赤ん坊のような嬰児の素直な心で求道の師の言葉に心底耳を傾け、邪念を取り払われた澄んだ心と言葉を吸収し、自立することが何よりも子どもたちの模範となる。

自らの脚で道を歩み、自らの生命力で自分を活かすことでしか世の中で独立自尊し天命を全うすることはできないと私は思う。

本来の学問や求道というものは、このカグヤ道のコンサルタントの中に在るミッションが迸るものでなければならない。

その正しい実践を素直に積んでいけることを祈ってやまない。