物事の見方には色々とある。
人間は何かの物事を判断する際に、自分のモノサシで理解しようとする。その理解の範囲は、自分の今までの知識や経験から自らで培ってきたものだ。しかし、そのモノサシよりも相手の経験や知識が偉大であったり深かったりする場合は当然相手の質量にあわせることができずそれ以上深く潜ることはできない。
そうなると、どちらかが先生でどちらかが生徒となるのだと思う。
しかし、本質となるとどうだろうか?
本質などとなるとただ広い知識では理解できないことが多くその人の深い体験や経験を通した気づきや実践からの洞察や考察、内省により掴んだものでしかそのことを理解するために近づくこともできはしない。
表面上だけを見て判断するというのは、深く潜ることをせず広く浅く情報を取るときのひとつの情報収集方法となる。
しかし、本当の問題や本質的な課題、もしくは真に解決しないといけないものと対峙する際、人は芯からの解決を探さないといけなくなる。本質とは、自分の内面に潜り静かに体験を通じて自問自答し、本来のあるべきようを引き出していくようなプロセスがいる。それはまるで、宇宙の謎に迫っていくような感覚で自らの奥にある偉大なものに触れていくようにと潜っていく。
それを私なりに言うと根本といってもいいし、根源といってもいい。
たとえば、私は日本書紀に興味がありsおれを学びながら心で感じていると私たちの祖先はもともと天地創造により陰陽の太極を司る神が創造したことになっている。
いいかえれば、そこからイザナギとイザナミによりはじめて生み出されたのが私たち先祖、万葉人となる。そこから次第に様々に分化し多様化したことで今の私たちが此処で生きている。
だとしたら当然今起きているすべての出来事や事物、この身体も心も歴史もすべてはそこからを起点にはじまっているといっても過言ではないと私は思う。
すると問題の本質や課題の本質はどこまで辿るかが分かり、突き詰めればどこまで潜り、自らの内面の真理から引き出し、そこから見通すか、いや、見透かすかということにならないかと思う。
色々なことを人間はそれぞれに好き勝手に洞察する。
それは人間の感情の機微から掴む人もいるし、何かしらの動物的な直観で掴む人がいる。どれも確かに鋭い視点だし、それはそれでとても参考になるし感心することも多い。
しかし本質の洞察とはその奥底に在る本当の根本や根源を掴んでこそ正しくそのものを観ることになるのだと私は思う。
コンサルティング業とは、そういうものを自らの実体験と経験、日々の実践連まの自律した透徹された相手への思いやり、至誠至大の真心によってしか貫くことはできないと私は思う。何を持って掴もうとするかという、どこまで本気で自分と向き合おうとするかが大切なのであり自分を誤魔化している人では真に人を感化することはできないのだ。
たとえば、子どもたちはどんなものでも見抜く感性がある。
生まれたての子どもたちは、今まで生きてきた人間の歴史を内包し、その課題を乗り越えながら現代に顕れてきたと私は信じている。
だからこそ、本来のあるがままとは、自然であるとは、自分を偽らず他人を欺かず、その問題や課題を寛容な精神と強靭な誠心、つまりは、確固とした信念と柔軟な優しさによってなる立派な人物になっていることを言う。
自分勝手にしていることや、自分の浅い判断であるがままというのは、ただ無理をしなくなったというだけで、この世で自然であるには修身や学問をし、道を極めていく努力をしてはじめてあるがままを維持できるということだ。
常に、自分自身の本質を見つめ、子どもたちの未来のためにも正しいものをつまりは邪念を持たない澄んだ心で環境を遺していけるように自らの実践を第一に取り組んでいきたい。
本心本音の幼児の心で大人たちを感化し、皆で自然に近付けるような社業を邁進していきたい。