師友が在るように人と人は、関係性を通じて色々なものを学ぶ機会がたくさんある。
それは、年上年下関係なく、男女もなく、その人がもつその人なりの生命の本質を感じ取り学ぶことで互いに深まっていくことがある。
そこには器の同じ量の人と器が大小に開きがある人もあるけれど器と器を錬成していくことでいつも自分の器を練り上げていくことも人格陶冶になるものだと思い、そこには終わりはない。
語り口調が大きい人のことをつい器が大きく感じることもあるけれどしかし本当の器が大きい人とはそうではなく、自他に対して誠心誠意が在る人であり、優しく強い信念と深い思いやりがある自立している人にいつも私は器の偉大さを感じる。
人は自分で真理を観ようとしない限りは自分の器に入るものしか人は容れようとはしないくなる。
よく多くの人と触れているとよくわかるけれど、功績があったり肩書きがあると誰でもすごいと思っているところがすごいと思うのだろうけれど、本当の凄さはそういうモノサシでは量れはしない。
明らかに自分の器を大きく超えて偉大さを感じることでその人の凄さを感じることが何よりも人を観る方法だとも私は思う。
私は営業と言う仕事を通じて毎回人に出逢うたびにその人の持つ本当の凄さを洞察してきた。そこには何か一つは、必ず自分の器にして学べるところがありそれをその人なりに磨いているからこれもすごいあれもすごいとなるのだと思う。それを続けていくことで自分の器もどれくらいなのか何をどう学び修行し錬成していけばいいかなどを理解することができる。
しかし、人は自分の頭で考えない癖が長年沁みつくと、自ら深めることをせず今ある自分の器の分でのみしか知識も言葉も容れようとはせず、毎回どんな話や出会いがあってもその人の持っている器以上はこぼれおちてしまい吸収することもできなくなってしまっている人をたくさん見かける。
どんなに同じ話をしても、それをよく聴き取り自らのモノにしていく人と同じ話をしても、いっこうに聴き入れず相変わらずモノにしていかない人がいる。
どちらも同じ人なのになぜだろうか?
真理や本質は、本人が深まっていけば人が語る言葉の中に必ず見出すことできるものだ。別に偉人だけが語る言葉が真理だということではない。そしてそれは決して安易に理解できるものではないし、それは当然それ相応の実践をセットにして語られるのだからあまり便利に使える営業トークでもツールというものでもない。
偉人の言葉を理解するには、自分が偉人と同じ実践をして道を歩んでいることができなければどんな言葉も理解することはない。
たとえば、マザーテレサの真理を知りたければ同じくらいの深さで道を歩んでいなければ気づけないし、私もたくさんの言葉を深めるけれどその差が埋まらずいつもどれくらいその差があるのかを感じるためにと読んでいるだけで、その人の真理を受け売りで何かに使おうなどとは思ってもいない。
人は誰でも偉人の部分がありそれぞれに個性や天性があり、その人の姿かたちが自然に丸みを帯びた球体のように一体となりその透過する光の中にその人らしい神秘性が顕在しているものがある。
それは日々の言霊の中にも、眼差しの中にも、そして声色の中にも顕れる。
そしてそれを自分だけのものにはせず、人々を導くために、あえて言葉にし他人に伝えるために必要な知識と理論、また洞察した言語を持ってそれを伝えようとするけれど、問題はその偉大さを受け手がどれだけ掴み取り観ることができるかということになる。
私の師匠もたくさんの人たちに話をする、しかし同じ話をしても「話がうまい」と聴く人と、私のように毎回「神がかっている」といって聴く人がいる。
私は他人から、「あなたは師を尊敬して神様みたいに思っているからでしょ?」と言われるけれどそれはまったく私の認識とは違う。
その人は人間であり、別に世間で言う神でもないし、自分に利があり尊敬すればすぐに神様となるはずがない。
私が言う神がかっているとは、「自分の器を超えているほどの自然な姿」ということであり、その師の技術、真心、実践、哲学、徳、天の感じ方、等々、そのすべてが私の器よりも偉大だと思って聴いているだけということだ。
それなのに、いちいちそれを周りは評論のように言うけれどそれでよく自分の器を改めて深く大きくしていけるなと思ってしまう。相手のことを偉大だと思って聴けないのは自分に相手を尊敬する素直な心が開いていないからであり、自分以上の存在を受け容れたくないひきこもった卑屈な心や自信のなさがそうしているのだとも私は思う。
自分で考えればわかることを、他人の知識ばかりを頼って自分で深く潜り掴み取る努力をサボっているからそういうことになるのだとも思う。
しかし、一生の中で本当の自分を活かすために、同じ道を選んだ理念の体現者と体験を共にと思い、その人と力をあわせて何か偉大なことをしたいと思うのならその人の言う真理を自分の頭と心で深く探り取り、その人との魂の邂逅や一期一会の生の実践により偉大さを慕いつつそのすべてを身につけることが何よりも学ぶ姿勢ということであると私は思う。
お手伝いとは、力関係が相手が上で自分が下だからするものではない。自分勝手に定めた安全な中でのお手伝いでは、足手まといなだけでお手伝いとは言わない。本当のお手伝いとは、その人の語る本当にやりたいことを正しく理解し、自分の力を正しく発揮して力になることを言うのだと私は思う。
つまりは自立していなければ手伝えないということだ。
常に姿勢としてまずその偉大さを素直に感じ入り、自分で深化すること、つまりは偉大な差を感じながら学びそれを自らの頭と心で器を新たに創造していくことを優先することが重要ということだ。
私はこの道がかんながらである以上、八百万の神々の持つ神性を感じ取るセンスを磨いてより多くの人たちのあるがままを引き出していきたい。まだまだ自分の器に執着があるようでは易不易と簡易に満ちない。
常に縦横無尽に一物中無尽蔵な器を風に乗せていたい。