義の心

平和な時代が長く続くと、少しずつだけれどもズレが生まれていく。

その平和を維持するためにもすぐれた教育があり、道徳的な規範が必要だったのに裕福な生活の中で物質的欲求や短絡的快楽に次第に身も心も廃れていくのはどの時代も常であるようにも思う。

かの孟子の時代も、今と同じような時代背景があり嘆いていた言葉が残っている。

「その道を捨てて顧みず、その心なくしても求めようともしない、哀しいかな。鳥や犬がいなくなっても探すことはできるが、心をなくしてはさがしようがない。」

という、これは心をなくしていくことの怖さを物語っている。鳥や犬はいなくなるといないなとすぐに探すくせに、心がなくなることは気づきもしない。そうやって人はどんどん道を捨てていくということだ。

私の定義ではこの平和であるとは、道心を優先する社会を一人ひとりが心の中に持ち続けて皆が思いやりながら大切にしていくことを言い、戦争とは道心を優先しないで利権や欲望を優先する良心から外れた社会のことを言うと思っている。

人は戦争が起こるたびにそのなくした心を取り戻したいが故に、信仰を持ち、宗教を必要としたりする。どの時代も、戦乱が続けば宗教が興り、平和が続けばまた権力が興るように、まるで呼吸をするように相対するものを生み出していくのがこの人間の業であるように思う。

しかしだからといって、何もしていないわけでもなくそういう易不易の中にこそ人間が真摯に生きる意味があり、愛や勇気が求められて人物が登場し、人々はその心の姿かたちの顕現に心から感動し世の中をまた循環させていくのだとも私は思う。そういう人には、必ず義が備わっている。

人と人との間には目には見えないけれど何よりも重要な人の筋道があり、その筋道を正すことであるがままの社会が豊かになるようにできている。会社でも人間関係でも、まず何よりも義を守ることがまずお互いの信頼関係を生み出し、成功と発展の共生基盤になっている。

そして義には必ず実践行動をするという「勇」がある。

孔子は論語で勇とは「義をみてせざるは勇なきなり」といった。つまりは、勇気がある人とは別に強い人ではなく、優しく愛があり、正義を貫くためにその身を捧げられる人をいっているように解釈できる。

古来の有名な義の人に越後の国の上杉謙信がある、隣国のライバル、武田信玄の国土が山野しかないために生活に必要な塩が手に入らずに国民が困っているところを謙信が知ってその信玄に自国の塩を送るという有名な話だ。

謙信はこう言う、「我、公と争うところは弓矢にありて、米塩にあらず。請う、いまより以て塩をわが国に取らえ候へ。多き少なき、ただ、命のままなり」

自分は、争うのは弓矢にてのもので別に米塩ではない。もし必要なら必要な分を持っていってもらっても良い、好きにしてくださいといった感じだろうか。これは、義のために戦はするけれど、義に米塩は関係がなく、それは困っているだろうからどうぞ遠慮なく良いですよということだと思う。敵に塩を送るとは、大義を優先しているからこそできる境地であるのだと思う。

そして後に信玄が亡くなった知らせを聴くと、謙信は生来の素晴らしい恩敵を失ったと慟哭してとても深く悲しんだという。

義とは、お互いに深い尊敬を尽くし礼を持って接することで本来のあるべき勇気を持てるようになるのが互いの人間らしさでもあると私は思う。

スポーツマンシップではないけれど、「最後はみんな誰にも負けない」という境地、つまりはお互いに義を優先して清々しく闘っていましょうという相手への深い尊敬の念により発するべきものが本当に正々堂々としていることだと私は思う。これはとても人間らしく、お互いを深く思いやるからこその徳の高い精神性の成せる人間の優美さであると私は思う。

そしてこの勇とは、天の働きに応じれば、その自ら死ぬときを知り、死ぬ時を誤らないことに繋がるのだとも思う。つまりは、自ら命をとことん尽くして生きるとは、単に自分勝手に犬死をするのではなく、もっとも価値のあるときを見逃さず勇気を出して正義を貫くために生きるということではないか。

巷では生きた屍のようにゾンビのようになっている人を良く見かける。そこには義はなく、礼もなく、自分だけを如何に守るか、自分のことばかりを如何に満たせるかに躍起になっているうちについには孤独や孤立の状態になってしまった人のようにもみかける。

相手の気持ちになり苦悩を共感し、相手の立場になり悲しみを受容し、相手が自分と同じように辛苦に耐えているとし、弱い立場の人たちのために自分の力を誠心誠意遣り切っていくということ。

勇気とは、弱きを助け、驕っている強きをくじく、そして安心して暮らせる世の中のために、自分が天狗のような勇敢さで天下に太平を示すことと私は定義する。

この時代はやはり、天狗のような義を貫く義士は世の中で必要になってきている。自分がなんのために生きるのかを人の道の上で静かに思う時、人はやはり義を立て生きていくことこそが命を尽くすことに繋がっていくようにも思う。

これからも子どもたちとともに歩む中で、先祖に恥じないようなカグヤ道を築き上げていきたい。