信じること

親子の間に「無償の愛」と言うものがある。それは見返りを求めることのない無私の心であり、自分のことよりも相手のことを自分以上に思いやる真心でもある。

日本の神話を読むと天地開闢以来ずっとこの国の子孫を思い数々の神々が顕れ、譲り続けてきた真の親心ともいうようなものがある。

そしてまたその子孫が譲られ続けられた偉大な親の敬愛の懐にあり、その子として兄弟姉妹ともに仲良く睦まじいままでありとあらゆる生きものを優しく思いやり全ての存在を敬い感謝することが子心と言うのかもしれない。

この国はその天照大神、皇大御神が鎮座している皇国と言われ伊勢神宮に祭られてあり、その創始理念を鑑が観るために私も折をみては道すがら参拝にいくことがある。

その伊勢神宮に、神宮のことを紹介するビデオの中に古事記の解読で有名な本居宣長の歌がの一節が入っている。

「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代(よ)には見えた物なり」 本居宣長(古事記伝より)

神職の人たちは、そこに「当然に在るもの」としていつも神を奉ることにより神代に暮らした私たちの先祖と同じように神を見て暮らし、日々清らかで明るく素直な心で平常心を保ちながら、心を澄まして神に御仕えしいこうとする心の顕現の実践行だとも思う。

私たちはこの狭すぎる人間社会でばかりに心を没頭して生きていると、ついそういう偉大なものをいつも感じるよりも自分の頭で考えたことや誰かの評価やそももっともらしく大きい話が凄いことだと勘違いしてしまう。

しかし、この私たちが使っている言霊も、そしてこの生きているこの地球でのあらゆる出来事も、そもそもそれは遠い遠い昔から引き継がれていることであるし、その悠久の時間から織り成され続けていることであり、その呼吸をするように途切れることのない自然で偉大な天の運行により存在しているとしたら、私たちはその流れを確信しどれだけ感じながら歩んでいるのかがとても重要に思えてくる。

自分だけで生きたり、自分のことだけを考えたり、自分のこの短い人生のことがすべてとなると、何のために今までがあったのか、そして何のためにこれからがあるのかというその人生の問いから離れることにならないだろうか。

悠久の流れを感じることは、昔は観えていたものを見据えながらこの今を見つめることであり、それが清く明るく美しく生きていくことになるのではないか。

そう思うと、その実践の顕現である「信じる」ということは何と偉大なことではないかと私は伊勢神宮の天照大神を参拝するたびに深くそれを感じてしまう。

どこまで信じ抜くか、どこまで見守るのか、その境目すらも感じることができないほどの潔癖なまでの純粋さを示し、その崇高で偉大な真心の存在にあまりにも畏敬を感じずにはいられない。

私たちが引き継いできた思いは、信じるという言霊に載せて賜った大和の心。

この大和の心を信じることとし、毎日の実践に曇りなき真心で歩んでいきたい。子どもたちのことを思うと、天に感謝し、日々、祈念しながら自らの性を学び、その叡智に触れながら学びを深めて世の中のために活かしていきたい。

かんながらの道の奥のさらに奥にあるものを感じられるように至誠を優先できるようにしていきたい。