人が人と生きる以上、気遣いというのはその間に必ず存在する。
それはどんな距離感の間でも必要で、その気遣うことで関わりがより豊かになっていくものだし、そこに幸福の香りが広がっていくものだと思う。
しかし、最近では気遣いが形だけのものになり礼儀が心からのものではなくなり、まるで一般常識ということでその場その場だけの単なる形式になってしまっていることが多い。
人をおもてなすことやその方法を考えると、それは無限にある。
しかし、相手のことを大切にするということは一つでありそこに数はない。
つまり、何よりもまず人を大切にしようという自然な心の顕れを表現することが気遣っているということになるのだと私は思う。
気遣いに本質があるとして、それは心と言葉を本心本音で表現することであると思う。
何かのテクニックでやるのではなく、心からの言葉で相手に分かるように自分の思っていることを、正直に伝えて相手の心と自分の心を通じあわせていくよういしていくこと。
そこに相手を敬い、相手を愛するということでその自分を敬い愛することができ、まるで鏡に写る自分のように自他同一に感じ合う時、通じ合っていくのだと思う。
そしてそこで敬愛するのは、相手のことを大事にしたいと思う自分の誠意であり、自分の本音本心を包み隠さず相手に表現することである。それを心を開くということでもあるし、受け容れるということでもあるのだと私は思う。
人はつい自分の偏見(何かしらの基準)を設けて、他人を品評することがある。それはその人の一部ではあるけれど、それをする人からすればその人の全体のことになってしまう。
自分の偏見の眼鏡で他人を観るのは、自分の中にある同じものにフォーカスすることであり、そればかりを遣っていると次第に自分が疲弊してくることもある。
他人の良い処を観るというのは、偏見のない素直で澄んだ心で相手のことを受容し、そしてその中でも自分が敬愛している自分と同じ部分をたくさん見出だし、相手と心を通じ合っていくことを言うと思う。
私自身、どうしても過去のトラウマ体験や、その状況で感じたキズが癒えず、どうしても苦手な相手にはそういう偏見を持ってしまうことがある。
もちろん、それも相手は何かしらの事情であるのだろうけれど全体としては人間は必ず自分と同じように素直に生きているところがある。
だからこそ、もっと他人を許し、そして広く受け入れるような実践、つまりは何事も寛容の心で気遣いをしていけるようになっていきたいと思う。
子どもたちにも、いつもそういう寛容なモデルを示していける大人でいたいと誓う。