響き合う世界

先日、パートナーの園で話を深める機会があった。

人は、お互いを信じ合う環境を創造しリーダーがそれぞれの人間の中の個性を引き出して事に当たればほとんどの問題は解決の方向で顕在する。

本質というものは、偏らないところにあるものであり、偏らないためにはプロセスの中に意味があるものとしそのものをすべて含有し無限に受容し循環させていくなかでのみ共通理解ができるものだと私は思う。

例えば、話し合い一つであっても、何も決めず、何もやらない絶対積極の世界にて響き合いや繋がり合いを生み出す時、そこに新たな創造的生命が発動していく。そこまで深掘ることができれば後は流れに逆わずに丁寧に進めていけばいいのであると思う。

保育や教育の世界では、とかく大人側の偏見により子どもを見定めよく子どもの話を聞き届けず安易に判断をしてしまうことがある。

それは保育者と言われる人たちもそうだし、またその施設の長と言われる人たちも知識が豊富になり過ぎたり、情操が豊富になり過ぎると、とかくどちらかに偏ってくる。

子どもを真ん中にとあるけれど、ただ大人と子どもという安易な対極的な視野ではとても子どもを真ん中にとはいえない、それはただのスローガンだということになる。

本当に子どもを真ん中にというのであれば、当然それは中庸であるのだから真に子どものあるがままということになるけれど、これは大人でもなく子どもでもなく人間としてどうあるべきかが正しく実践できているかどうかによる。

子ども第一主義の私たちの理念もそうだけれど、どれだけ自分が童心であるのか、つまりは澄んだ子どもの心でいて理解し共感し行動できているかということでもある。

人は、何かしらの先入観や自らのエゴを優先すると偏るもの。

特に何かの組織やチームで行う場合は、人が関わるからその中和していくことは難しい。理由としてもっとも面倒なのは、人はみんな自分を分かってもらいたいと相手に思うばかり自分がどう分かっているかという自己理解への探求に矢印が向き変わらないからだと私は思う。

人は、みんな自分のことを相手に分かって欲しいと日々躍起になっている、言いかえれば、分かって欲しい人を死に物狂いで探しているといっても過言ではない。在る境地までいけば、仙人のように天命を悟りあるがままなのだろうけれどそうではない人たちはみんなそうやって分かり合えない日常の中で苦悩をしている。

相手を分かろうとすることは、自分を分かろうとすることでもあり、自分が相手を自分と同じく思えるかという共感力による。認めてくれているかどうかというのは、自分の内面に相手の本性を映し安心しているということ。

つまりは、相手を信じているかどうかということに根差している。

子どももそうだけれど、信じていれば安心して動きだす、信じていなければ分かってもらえないと思うから動かないということになる。自発的な組織とは、お互いを深く理解しあって安心しているからこそできるものであり、受け身の組織はお互いが分からないから受身になるということでもある。

それを中和し受容するものに私たちが実践する一円対話がある。

一つ一つの音を、深く響き合わせることで音楽を奏でていくようなもの。
音だけではただの音、それが響きあうから音楽になる。

そこにどんな真心を籠めるかで響き合う世界は変わっていく。

道徳により、天の赴くままに時間を使うことこそ人間の本性を引き出していく方法はない。

これからも子どもたちの現場に、響き合う世界を広げて、より子ども第一主義の理念を体現していきたい。何かの出来事が起きるとき、そこに確かに何かの深い意味がある。その深い意味を味わい尽くして、日々の生活を楽しんでいきたいと思う。