先日、京都の鞍馬寺で素晴らしい方からお話をお伺いすることができた。
色々な実践を経て、悟ってくると無為自然の境地に達するのも人間の叡智だと思う。
日々の生活で精進し、自然と触れ合い感応力を磨いていく、そして自己の本質を探究し、境界線をなくしていく、そこに確かに心身ともに澄んでいきその生命を輝かせていく。
そしてその全体の調和が繋がり合う世界に於いて、澄んだ心を存分に発揮しながら個性が顕在すると天真爛漫に振る舞えるようになるのだろうとも私は思う。
そこで教えていただいたことがある。
一つは、何かを求道するにおいてもっとも深めることは原点であり、その原点への辿り方が無数にあったとしてもそのものは一つ、命や光であるというもの。人間はなぜ生まれてきたのかを知りたがり、その性を活かしたいと思うようになるのはもともと在った姿やもともとの澄んだものになろうとする無為自然の働きであるようにも私は思う。
つまりはすべての命が水のようになり、渾然一体になっているということ。
もう一つは、世界を映し出しそこで生きるとして、正しくコンセントを入れてチャンネルをあわせることで観えてくるというもの。常に時代とともにその時代の変わるものと変わらないもの、易不易があり、その中で正しく変わらないものに繋がりを持ちつつ、変わるものにあわせていくということだと解釈しました。
常に、すべての生命はあるがままであり、全体としての一部として働きを持つ、つまりは役割がある存在であるということに根差せば、当然、私たちはその役割を果たしたいと願うもの。
だとして、この時代にいるのであれば当然役割を成就することを念じて気長に歩み性を全うすることでその天真を発揮していく、そのプロセスに現実の情感世界が存在していて感動と青春を謳歌しながら幸福を味わっていくということだと私は思う。
澄んだ心とは、天真爛漫であるということ。
常に、子ども第一主義を柱とする私たちの会社ではその天真を極めるために孤高の頂きを目指し質を高めるための実践を日々怠らず、常に人を愛し、天を敬い、丸ごと受容する世界を信じてともに歩んでいきたい。
一期一会の教えに、改めて感謝いたします。