存在価値

集団や組織を見ているとよく感じる刷り込みが在る、それは間違ったお金や物質欲が優先されやすい時代だからこその短絡的個人主義教育のことだ。たとえばこの国の今の教育は、それぞれの個々のスキルを重視するばかりに責任を大人たちが持つことで子どもも双方酷く孤立化してきているように思う。

お互いに何かうまくいかないことを思うとすぐに能力がないからやスキルが足りないからという風に責任をどうしようもならないところで納得しようとする。

たとえば、すべての動植物がでは何か周囲との共生が成り立たないとき、それを自分自身の能力のせいにするだろうか、スキルのせいにするだろうか、実際はないからこそそれを別のところを活かしともに補填していくのだと思う。

何でも完璧な部品のようなスキル至上主義では人間として本来もっとも活かせる協力や協働という力を合わせるというところを使っていけることはない。

すべてを自分がやらないといけないのなら、誰でも自分が能力がないと思うもの。

スポーツでもエースでピッチャーでレギュラーがもっとも価値があると思う人もいるけれど、本当はそういう一人に負担がかかる形はとても皆で力を合わせると言う人間の本質を活かせはしない。

それぞれがすべて責任を持った中で生まれた関係であれば、時としてエースが代わり、時としてレギュラーも代わり、皆で一丸となって力をあわせることができるものだ。

今の社会は教育が個人の責任にばかりを追求するうことにより、それぞれが助け合って生きる社会を築く方を優先しないから孤独に疲れていくのだと私は思う。

何かを行う時、自分がみんなにとって何ができるか、自分がみんなに対して何ができるかを思い、自分の責任の範囲をもっとみんなの中での一人として自分の価値を尊重し、周囲を尊重していけば自然に自分のスキル不足は人間の繋がりの可能性により払拭されていくのだと私は思う。

今の人たちが集団がうまくいかない理由は、それぞれが人としての信頼関係のルールをよく破ることにあることと、他を人としてあまり信用しなくなったことにもよる。つい自分が過去においてけぼりや騙されたなどとし孤独を感じた記憶が邪魔をし不安を増やしたことで、人を無条件で信頼して心を開くことができにくくなっているからだとも思う。

しかし、本来ルールを破るや破らないということではなくその前にある本質、「お互いに信頼して生きる」という人としてみんなの中にある自分の存在価値に自信を持てるようになることがまずは先決だと思う。

それは生まれてきてから、自分で満たされる存在がいることをまず自分自身が深く感じて生きていることだと思う。

最初に自分が生まれて満たされたのは両親であり、祖父母であり、兄弟姉妹であり、友人たちであり、周囲の生き物たちすべて自分が存在することで存在価値が出てきている人もいるのだ。

会社で言えば、あなたがいることで会社が存在でき、あなたがいることで自分たちが満たされることもある。そうやって周囲に自分の存在を必要とされていると心を開けば自然に協力することができると私は思う。

つい、すぐに自分が先に他人を諦めたり仲間を信じなかったりするものだけれど、それは自分自身の存在価値を自らで貶めることになり、自己肯定もできず他人も肯定できないと言う寂しい人間観を沁みつけることになる。

まずは子どもたちのモデルとして、自分自身の存在価値に自信が持てるような行動と心棒、真心をもって日々を協働していければと願う。

結果責任を持てると言うのは、自分たちの存在価値を自分たちで持てるようになること、その先に家族の幸せがあり、子どもたちの幸せ、最初と最後のプロセスに自分の幸福が待っていることを信じて自分の人生を自分で切り開いてほしいと思う。

みんなの中での自分、自分を通してのみんなを満たせるような人が幸せを広げていくと信じて。