私が尊敬する偉人に二宮尊徳が在る。
この方のもっとも尊敬しているところは、その語録に自然の理法を体得した安らぎを感じることができるからだ。
私も植物や自然から物語を学ぶことが多く、天然であることに静かな心を感じつつ、根源にある命をかんながらの道に照らし学び理解することでより穏やかな心を持てる機会が多くある。
よくも考えてみると、天地自然は止まることも休むこともなく宇宙のように永遠に悠久であり続けることであるからしてすべてはそのままの存在であるという意味では、何も考えずそのままでいるということをいうのだとしそれを私は天然自然であると定義している。
だからこそ自分の素直な澄んだ心に従い、善悪もないところでそのままでいることこそ自然でありそういう日月草木天地循環の中にあり自分がそのままでいることを考えないとしていれば道に照らし人間は不思議と安楽を感じながら生きていくのだと思う。
しかし、自然から離れ、この自然の世界である天の界とは別に人間がこの人の界を立てているのだからこそそこに別の人としてが生まれる。
何も考えなくても済む動植物のあるがままの自然に対し、人間が立てた人の間だけの世界には人間だけで生きているという人間中心の社会が在る。そこには、俗世間での善悪があり、正邪があり、白黒があり、左右が在る、東西南北もあるのもこの人間が人間である人界というものがあるからだと思う。
そこに人としての生き方、つまりは倫理道徳というものがある。
二宮尊徳は、この天界と人界の間に於いて我々はどうあるべきかを報徳という教えにより4つの言霊で迷える人々を導いた。
それを「至誠、分度、推譲、勤労」とし、一円融合させた自然の理法を体得した東洋世界における非常に達した人であるのではないかと私は思う。
まずこの至誠は、天界とともに歩む生をいい、至誠こそが天の命を全うする方法とし、かの吉田松陰も常にその至誠を何よりも重んじ、なぜ生まれてきたのか、そして死ぬのかという生死の極みに純粋無垢に生きたひとでもある。澄んだ水のようなまま流れていくことに悠久の姿を見出すのが天然であると私は思う。つまりは天然であることとは、自分の内面の個性に従い澄んだまま天と繋がったままで生きること、つまりは純粋無垢なところを永遠に具備していることが大切だということだと信じている。
そしてそれが私たちがこの天道地理の中にあり、この宇宙や地球に於いて生きているということの根本根源の原理だということを顕すのだと思う。
そして人界とは、私たちが人間が人間の身で勝手に立てた社会であるからこそ不自然が生まれ不調和というものが起きてきたとする。
だからこそ人としてどうあるべきかという学問が生まなければ存在もできず、、そこに道を修めた人の教えがいる。でなければ混沌として自分たちの存在することすらもできなくなり滅んでしまうからだ。この人間の社会は個が全体と離れることにより比較対象が生まれ、差別や不公正、不公平などが次々に発生する。そしてその不調和に対して結果が無残なもので混沌とした生命が誕生すらもできないような状況を毎回生み出していく、そこでそうならないようにと孔子の言う思いやりの「仁」「恕」、仏陀の悲しみの「大悲」、孟子の良心である「惻隠」、アマテラスの真心である「かんながら」など、人間としてその不調和に於いてどうあるべきか説いてくる。
つまりは、人は人であるからこそ人としてどうあるべきかを問われる。
しかし、それも何かしらの意味があるとしそれを天地開闢であるとしたのではないか、そして、分度、推譲、勤労と報徳仕法を創造したところに二宮尊徳の凄みがある。
まず分度とは、人として足るを知るということであり無い物ねだりではなく在るものをどう活かすかと言う一切を排除をしない考え方の基本原理であり、そして人であるからこそ、自分を立てて相手を立てるという共存共栄の原理を示した。そして推譲でいう譲りあうことで東西南北を分けずに常に自らの存在自身が一部が全体になるという分かれることのない総合的な包括、つまり包み込まれるような人間の温かさを優先することでまた一切を排除しないようにした、さらに勤労として、自分の成すべき役割を果たすことで、どんな人でも何かの役に立ち、その自立して役に立つためによく働くことこそ人界に於いてよりより助け合い認め合うという一円融合してすべてのものを活かすということを顕わし、また一切を排除せず何より人界の目指す平和を築き上げようとしたと私は定義する。
人間が人間であるが所以はすべては人に成ることによる。
人であることは、すべて一切を排除しないということである。
本業である一円対話の極意はそこであり、それを太極であるともいえる。
人とは、何も排除せずすべてを丸ごと受容した姿であることは何よりも自らの内面世界に於いての自然の理法を徳というものによって具現化されたものであると私は思う。
天界と人界に於いて、私たちが結いしものはその天然自然の体現であり、悠久をその身に修めることであると思う。
つまりは、悠然としてあるがままでいることで天命を活かすこと。
これを子どもたちに例えれば、子どもたちのままでどれだけの生死の間を子どもたちのままでいらせられるか、そして人として道として何も排除せずに活かし合い助け合う社会を学問や教えにより人を修め導くことができるのか。
真に見守るには、まずは自分自身が実践によりその自然の理法を体得するにある。
子どもたちの未来を、二宮尊徳の報徳の教えにより切り開けるように意義を明確にし取り組んでいきたい。