玄米を食べだしてからもう何年かになるけれど、年数をかけるたびにその効力と効能に驚くことが多い。
以前、無理をして働き世界のすべてを背負っているかのように仕事をしていたときに体調を壊し限界を超えて寝込んだときに偶然出会ったのが玄米食だったことが懐かしい。
最近では、易を学び橋本左内から繋がった石塚左玄の無双原理に出会いその理論を知覚することもできた。
その有名な言葉には、「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」がある。
これは論語大学の徳は本なり、財は末なりに沿って言葉になったのだろうけれどよく考え抜かれた比喩であると思う。
食べるとは、どこで食べるのかを思う時それは細胞が食べていることになる。その細胞がなぜ食べるのかを思えば健康でいるために食べるということになる。つまりは、健康は天の運行と地の原則、人としての命の育むであるからしてそれを維持するには食べることにより天地自然の状態でいることが大切だということだと私は思う。
つまりは、体ばかりに囚われて医を施すのではなく、また心の状態ばかりに囚われるのではなく、まず食べるということを通じて生活そのもの根源的に天地自然の流れに沿わせていくことで人間としての存在意義と命を育み養っていこうということだと私は解釈した。
これはとても大切なことだと思う。
私も偏っているやゲンマイオタクなどと言われることがあるけれど、極端に聞こえるのは確信を持っているからそう思われるだけで、心身の病という病はすべて玄米により治癒できると思っている。
それくらい、根源的なものを健康の極意と考えているからだと思う。
だから、私が炊く玄米は美味しいとよく言われ、美味しいから楽しく、楽しいからまた美味しい、そしてだからこそそれを食べることで健やかで康らかにいることができる。
昔から医食同源という言葉が漢方にある。
つまりは、これはすべての源は辿りついてみると同じであったという意味であると思う。
それを玄米というもので表現したところがこの石塚左玄の面白いところだ。
私も玄米を観ると、変な言い方で誤解を受けそうだけれどそこに宇宙を感じることが在る。なぜなら、種とは、そこに生命のすべてを具備しているものであり、そこに水が触れることでキラキラと躍動が生まれ、芽が出て実がなり、そして循環することにより万物流転の原理もそこに顕れる。
穀物とは、私たちが共生のためにこの国土、身土の中で選んだパートナーであり、それを行うことで止揚の和を得られ、地球の一部と全体として大いなる天からの役割を果たすことができるという先人の叡智が籠められているからだと思う。
だからこそ、私たちは玄米を食べる必要がある。
どんな状況であったにせよ、日本人の根源に玄米を据えるのはかの天照大神が示した豊葦原瑞穂の国、つまりは稲穂によって繁栄するという啓示を得るところに還ることが初心であることだとも思う。
玄米をより効果的にすべての生活に活かし、人々の迷いや悩み、そして心身の自浄を促していけるように工夫していきたい。
子どもたちには、なかなか刷り込みや色々な現状の説明が多すぎて言葉にできないものだけれど、その一粒に祈りと念を乗せ次世代へ健やかな育みを遺せるように正しく食べる実践で感化していきたいと思う。