人は生きていると様々な過ちをする。そしてそれはほとんどが自我や自分の都合を優先することで起きる。
何かの巡り合わせによる苦難に出逢う時、相手を思いやる心に自分の我が混じればそれは正しい判断ではなく、心が迷い精神が蝕まれ平常心ではいれなくなる。
そしてそういうときにこそ過ちが起きる。
しかし人間はその出来事を受け容れ真摯に懺悔し、正しく澄んだ真心で悔い改めることで過ちを乗り越えさらに周囲への思いやりの心や慈しみの優しさ、「御蔭さま」という感謝が生まれ清々しく新たな一歩を踏み出すことができるのだと思う。
その新たな一歩は他への思いやりや優しい心でまた新たに生きることへの決意であり、自分だけのことを優先せず相手のための自分を使っていきたいという施しの気持ちで生きるということでいることを忘れないという覚悟にもなる。
観音菩薩の教えに六波羅蜜がある。
持戒、忍辱、禅定、精進、布施、智慧 というのがある。
これは一つ一つも大事だけれど、全てをまとめて調和しているものでもある。
簡単に言えば、常に謙虚に様々なことに心を籠めて生き、心はいつも平常心に定め、耐え忍び寛容の心で多くを許し、生活一つ一つ今、ここに全てを全身全霊でお勤めし続け、自分のできることの最大限で相手に尽くし、正しい見識と叡智をもっと人々を導き助けていくような慈愛の心で実践することだと思う。
そのこと自体により発菩提心という自分が人を助けたいと思う利他の心をいつも座右にしながら歩んでいくのが観音様のいう慈愛の道であるのではないかと私の体験と邂逅からもいつも思う。
しかし巡り合わせにより様々な状況に於いて日頃のその慈愛の道が天に試されその都度、御蔭に出逢えるかに自らの誠の実践が求められることになる。
私は御蔭さまに出逢うとき光を感じそこに命の源のようなものを感じる、そしてその命にはそれぞれに価値があり確かな意味が存在しているともい感じる。
自分自身が何よりも偉大なものに生かされている実感を持つことが真の意味で生きるということであり、それはもともと幸せになるということを肯定して明るく素直に優しい心で活き活きと生きていくことなのではないかと思う。
清々しい心のまま、明るく正しく思いやり助けあい支え合う豊かな人生を歩む人が一人でも多くこの世に生まれるのは様々な出来事との邂逅があり、巡り合わせがある。
そこで毎回、自分の発菩提心に気付くことが子どものままで生きることになることだとも思う。
そういう子どもたちを真心を持って生き接し、そういう子どもたちがずっと安心して豊かに思いやり自立して生きられる社会を一期一会の機縁から導きだしていくことでより見守ることを広げていきたい。
心やさしい人たち、思いやり溢れる人たちが慈愛の道を歩めることに祝福を、巡り合わせと御蔭さまに心から感謝。
一期一会に。