人は一番身近で一番よくわかっていないのが自分というもの。
どれだけ真理や真実、どれだけ洞察や体験を積んでも自分と言うものはよくわからないもの。毎日、鏡で見る自分も本当の自分ではなく、他人が言う自分も本当の自分ではないとして、では何が自分なのか。
自分を正しく持っている人は、心一心に自然体で生きている。
生きる力があり、何でも自分で問題を見つけ解決し他と共生し社会に貢献する。
しかし自分を正しく持っていなければ心が拡散し二心三心となり不自然になる。
そうなると人に依存してしまい、何も自分ではできなくなり社会にも自由に貢献することができなくなる。
大事なことは自分で決めることであるけれど、自分自身の人生を肯定的に考え、自信を持つことであると思う。そしてそういうことで正しい自分でいることに勉めることもまた自然体であれることだとも思う。
自分で自信が持てず、いつも誰かの籠の中で甘んじているとそもそも自分が天から同一に与えられている自然の恩恵を自らで日陰に入り受け取ることをしなくなってしまう。
自然界に於いても身近では自然の植物が人工的に守られてしまうと自分で自生することができなくなり淘汰されてしまうように自らが持っている力を使おうとしなくなるともはや自分が分からなくなってしまう。
自然に陶冶されるのも、それぞれが自生していく中で学んでいくことであり、その中で自生できないものは自然淘汰される。
自然は厳しいからこそ、お互いが助け合い自立して共生することを学んだのが人間であるのだとも思う。
その自然を遠ざけることを不自然といい、不自然がいろいろなことにまた変化を促す。
何が良くて何が悪いのではなく、こういうものが自然であるとして人間の情をどうコントロールしていくのかがわかるのも自分があるかどうかによる。自分の感情の中にあれば人は自分を見失う、しかしその刹那も自然に自らを天を敬い天を信じて歩んでいけば必然的に自我があらわれる、そしてその自我を学問により身を修めていくのが生きているものの道理であると思う。
自分と言うものをよく理解し、自分と言うものを自然にあわせることは天人合一の実践を行うと言うこと。
日々、事があるなしに関わらず感性を磨き、感応力を高め、天を敬い、天にあわせ、そういう人にこそ天は寄り添い、その運行ともにするのが道なのだから自分をしっかりと持って歩んでいくことが本質的になにもしないという無為自然体ということ。
これは誤解されがちだけれどもただぼーっと何もしないのではなく、自分を正しく持っていて自分自身でいられることが自然体で何もしないということ。
無理をして、一部の人たちに偏りがちな社会から、皆で支える社会を切り開くためにも、様々なことを見つめるなかでも特にこの自分というものから見つめていきたい。
シンクロニシティや一期一会は、その時々の自分の自然体によるものだから。
子どもたちには、自然体でいられるような自立した社会が継承できるように歪みを正し、自分の在り方そのものを見直し続けていきたい。