信頼と自覚

仕事や日常でもそうだけれど、人間には信頼関係というものがある。如何にお互いを頼り信じあうか、それはお互いがお互いを尊重し合う関係でなければできない。

自分のことばかりや自分の保身を優先し、相手のことを尊重しなければ自分勝手になる。自分勝手になればすべての出来事を自分都合で判断してしまい、最終的には信頼関係を失ってしまうことになる。

そしてそういうものは自分だけで何とかできると傲慢になればなるほど、誰も頼らなくなり独善的に物事を進めていくようになる。

本当は一人でできることはない、それはたくさんの人たちの支えの上に成り立っているのに経験を積んだり、何か偏った自信を持ってしまい謙虚さを失えばすぐに自我中心的になり大きな失敗を呼び込むことになる。

ほとんどの出来事は自分でできたことはない。
いや、すべての出来事は自分がやったわけではない。

自分が何かをさせていただけただけで、それは一人ではない。

例え、一人でも空気や水、風や太陽など色々な眼には見えないけれど私たちは多くのものの恩恵の上に生きている、そして生かされている。

それは生きるというものの本質でもある。

そこから大局的に考えれば、一人で生きていくことなどは不可能ということになる。

今の時代は、何か勘違いし、自分だけでやっているような気がしてしまうような評価があるし、また一人に負担がかかり自分だけでやっているような感覚にマヒしてしまうことがある。

そういう時こそ、よく謙虚に物事を心の眼で見つめ、正しい自覚を持つことが大事だと思う。

自覚とは、

[名](スル)1 自分の置かれている位置・状態、また、自分の価値・能力などをはっきり知ること。2 仏語。自ら迷いを断って悟りを開くこと(大辞林より)

とある。

この自覚とは、恥を知る所から始まると思う。

恥とは、自分の愚かさを恥じることであり、それは自分の結果に責任を持つことでもある。

そういうことから人は反省し、より良い行いができるようになっていく。結果に責任を持たずに恥も感じなければ何も変わることもないし、それは誰かに依存して自分の内面にある本当の自分に嘯いて生きていくことにもなる。

今は、よく結果に責任を持たない人たちつまり無責任無関心が増えているといわれるけれど、これは私に言わせれば恥を知らない人たちが増えていると言うこと。

どういうことになっても、自らが恥を知り、自分で結果に対する責任を持てる自覚した自立した存在でいることが互いを尊重し信頼する社会を創り上げていくものだ。

そしてそれは謙虚でなければ成り立たない、傲慢に自分が一人で生きているや結果を出していると勘違いしていては自覚できることもない。

日々謙虚にいるとは、先入観や決め付けをもたず、自分の素直な澄んだ心であるがままにいることでもある。

論語にある三省を日々実践することを忘れないでいたい。

「私は一日に何度も自分のことを反省する。人のために画策するときに、真心を尽くさずにいなかったか。朋友と交際するときに、自分の言葉に責任を持たずにいなかったか。よくわかっていないことを教えなかったか。」

自分の愚かさと恥を知り、より真心で大事な朋を見守れるように力をつけていきたい。子どもたちにも、私がモデルを示せるよう、この仕事をさせていただける今に心から感謝し、明日も実践重視で自修自徳を研鑽練磨していきた。

一期一会